冷徹秘書のムーンストーン

 ああ、そうだなと、当時を思い出すように、彼が背凭れに背を預けて目を閉じる。
「今考えれば、あの日は薬が効いて、メンタルが落ち着いていたんだろうな」
 メンタルの調子が悪い日には辛い目に遭っていたと分かる言葉だ。だが彼はそこから一歩抜け出した。
「指が覚えているもんだな」
 目を閉じたまま、返事を求めるでもなく彼が呟く。
「折り紙の指輪ですか?」
「ああ。折ってやったら喜んだ。また来るときのために、折り紙はしまっておくってさ」
「それはよかった」
「俺はもう、折り紙じゃなくて本物の指輪も作れるデザイナーなのに、あの人にとってはいつまで経っても子どものままなんだろうな」
 合田の声は穏やかだった。今この瞬間彼の病気がぐんと快復した。医師ではないがそう思ってしまう。
「俺はあなたとお母様のことが羨ましかったんですよ」
 彼らが和解しなければ口にすることはなかった話を、今ここで話してみたくなった。
「羨ましい?」
「ええ。もちろん辛い思いをしてきたことは分かっているのですが」
 彼が嫌なことを思い出さないように、慎重に言葉を選んで白状する。
「俺は昔からあまり感情を表に出す方ではなくて」
「今は俺によく怒るだろ?」
 軽口で返しながら、彼は話の続きを待ってくれた。聞きながら眠ってくれていいと思ったのに、目を開けて堀内の顔を見上げる。
「両親にしてみればつまらなかったんでしょうね。海だろうが遊園地だろうが、連れていっても子どもらしい反応がない。俺なりに喜んでいたつもりだったんですけど」
 自分で言いながらつまらない話だなと思った。それでも腕を組んだ彼が目顔で続きを求めてくるから、フロントガラス越しの欅を眺めながら続ける。
「二歳年下の妹がいるんですけど、彼女は俺と違って素直なんです。兄から見ても可愛らしい感情表現をする子で、両親は夢中になりました。そうこうするうちに母が言ったんです。もうお兄ちゃんは誘わなくていいねって。三人で新しくできたショッピングモールに行こうとしていて、俺が聞いているとも知らずに。ショックよりも、どうしてなのかなって悩みました。俺は行きたくないなんて言ったことはないのに、どうして一人置いていかれるんだろうって」
 合田のように虐待を受けたことはない。学校に必要なものは全て用意してもらえたし、一年に一度か二度欲しいものを買ってもらえた。それでも、実の両親だというのに壁のようなものを感じて生きていた。
「そんな生活が続いて、進学のために家を出てそれきりです。ほとんど帰らないし、帰ってこいとも言われない。今は半年前に妹が産んだ孫に夢中みたいで、そのうち本当に忘れられちゃうんじゃないかって思うんですよ」
 重くならないように笑って告げることに、今日は何故かちくりと胸が痛んだ。ICレコーダーにも弱みはある。そんなことに今更気づいた気分だ。
「妹との関係は?」
「ごく普通です。時々仲を取り持とうとしてくれるから、気を遣わせて悪いなって思いますけど」
「ならよかった」
 おや、心配してくれたのかなと思って見つめ返せば、彼がふいと顔を背けてしまった。その分かりにくい優しさが嬉しい。
「あなたのお母様は許されないことをしてきましたけど、多分あなたがいないと生きていけない。その強い気持ちが羨ましいと思いました。今まで方向性が間違っていた愛情も、これからごく普通のものに戻っていくでしょうし」
「なるほどな」
 合田は気を悪くすることなく聞いてくれる。
「すみません。勝手なことを」
「いや」
 しっかり応えて、そのまま堀内に顔を向ける。
「そうか。俺は実は幸せだったのか」
「苦労してきた分、これからもっと幸せになりますよ」
 そう言ってやれば、彼の目が細められた。一つ乗り越えた者の静けさを感じるような表情に、不意討ちで胸をやられる。いつも自分が世話をする立場で上からものを言っているが、六つ年上の彼が本領発揮したような魅力に当てられて、鼓動が速くなるのを止められない。
「そろそろ帰りましょうか」
「瑛」
 動揺を誤魔化すようにエンジンを掛けようとして、そこで肩に腕が回った。抱き寄せられて顔が近づくのを見つめるうちに、当たり前のように唇が触れる。
「ありがとう、瑛」
 ほんの一瞬のキスだった。だが抜けられない罠に掛かった自分を感じる。なんて色気のある表情をするのだろう。秘書として抑えてきた気持ちを全て晒してしまいそうに、目の前の美しい男が堀内を惑わす。
「疲れたなら眠っていてください」
「ああ」
 なんとか強気を保って前を向けば、全て見透かしたような彼が戯れのように髪を撫でてくれた。ああと言った割に眠らない彼のせいで、帰りの道中ずっと騒ぐ鼓動を抱える羽目になった。
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