冷徹秘書のムーンストーン
病院と言っても今はほとんどサナトリウムのようなものらしい。今の華子は身体の調子もよくてメンタルも安定している。ただ時々ふっと過去を思い出して苦しみ出すから、そんなとき医師や看護師の世話になる。合田がぽつぽつと告げるうちに目的地に到着する。会わなくても常に情報は得ていたらしい。彼の心の一部は、まだ母親を求める子どもなのだ。だが彼女を想うほど甦るのは虐待されていた現実で、抜けられないループに嵌っている。いい加減、負のループの一つくらい取り去ってやりたい。
「二階の二〇一号室。特別室みたいなものだ」
それも彼は知っていた。
「来たことがあるんですか?」
「病室の前まではな」
それなら入れよと思うが、とにかく彼女と話すのは久しぶりということだ。ドアの前で動かなくなってしまった彼の代わりに、ノックをしてさっさと病室に入ってしまう。
「初めまして。合田金属販売でお世話になっております、堀内と申します」
窓の傍のベッドに近づいて頭を下げれば、華子が少しだけ微笑んだ。バスルームや洗面台のついた明るい室内に、特別室というものを理解する。
「先程連絡をくれた方ですね。ご足労いただきありがとうございます」
合田が驚きの表情を見せるが、女性の入院先に連絡もなしに向かうような失礼はしない。車を取りに戻ったときに病院と敬助には連絡済みだ。
「主人と息子がお世話になっております」
ベッドでも寝巻ではなく部屋着でいる彼女は、思ったよりずっとしっかりしていた。合田のように気持ちの波があるのかもしれない。
「こちらこそ、いつもお世話になっております。これはつまらないものですが」
堀内が手土産のお菓子を渡して話す間、合田は一歩下がった位置で動かずにいた。雑談が一段落したところで、「どうすればいい、俺は?」と聞いてくる。
「殴ればいいんじゃないですか?」
そこで漸く今日の目的を告げてやった。
「……殴る?」
「子どもの頃されたのと同じことをするんです」
聞こえている筈なのに、華子の表情は静かなままだ。
「気が済むまで殴れば、過去から解放されるんじゃないですか? 気持ちも安定して、以前のように制作もできるようになる」
合田が目を見開く。彼に振り回されるばかりだったから、こんなことは珍しい。
「昔されたことを返すだけです。罪悪感を持つ必要はありません。ここは病院ですから、怪我をしてもすぐに手当てしてもらえる」
「お前……」
「俺がいるとやりづらいでしょうから退室します。そうそう、うっかり買ってしまったんですけど、俺はいらないので差し上げます」
サイドテーブルに置いたのは折り紙の束だ。
「ではご自由に」
そう言い残して、本気で二人きりにしてしまった。病室を出た途端にばくばくと鼓動が騒いで、壁に背を当てて聞き耳を立ててしまう。
大丈夫。合田は母親を殴るほど自分を見失ってはいない。祈るような気持ちで指を組む。
三十秒弱の時間がとても長く感じられた。二人が静かに話し出す声と、合田がベッドの傍の丸椅子を引いた音に、ほっと胸を撫で下ろす。彼が過去の嫌な記憶に勝った。安堵の気持ちに包まれて、自分も落ち着くために深呼吸を繰り返す。
長く盗み聞きを続けるのも悪いので、その場を離れることにした。自販機でコーヒーを買って駐車場の車に戻る。
今日全ての蟠りが解決するとは思っていない。だが彼の回復の足掛かりになってくれればいい。自分はこれからも彼の回復を手助けしていく。アクセスの悪い病院だから、駐車場はガラガラで、欅が黄緑色の葉を広げる端の方に車を移動させて、ハンドルに腕を乗せて目を閉じる。位置が変わった車に戸惑うこともなく、彼は二十分程で戻ってきた。
「早かったですね。久しぶりなんですから、もっとじっくり話していてもよかったのに」
助手席に乗り込む彼は落ち着いていて、機嫌も悪くない。
「まだ長時間はきつい。色々思い出すこともあるから」
幸せな記憶より辛い記憶の方が多いのだろう。それはこれから幸せを積み重ねていけばいい。
「会話が続かないから、二人で折り紙なんかしてしまった」
その言葉にふっと頬が緩む。
「どうして折り紙を渡そうと思った?」
「山瀬さんが教えてくれたんですよ。幼稚園の頃、折り紙の指輪を作ってお母様にプレゼントしたって。お母様が凄く喜んでくれたんでしょう?」
「二階の二〇一号室。特別室みたいなものだ」
それも彼は知っていた。
「来たことがあるんですか?」
「病室の前まではな」
それなら入れよと思うが、とにかく彼女と話すのは久しぶりということだ。ドアの前で動かなくなってしまった彼の代わりに、ノックをしてさっさと病室に入ってしまう。
「初めまして。合田金属販売でお世話になっております、堀内と申します」
窓の傍のベッドに近づいて頭を下げれば、華子が少しだけ微笑んだ。バスルームや洗面台のついた明るい室内に、特別室というものを理解する。
「先程連絡をくれた方ですね。ご足労いただきありがとうございます」
合田が驚きの表情を見せるが、女性の入院先に連絡もなしに向かうような失礼はしない。車を取りに戻ったときに病院と敬助には連絡済みだ。
「主人と息子がお世話になっております」
ベッドでも寝巻ではなく部屋着でいる彼女は、思ったよりずっとしっかりしていた。合田のように気持ちの波があるのかもしれない。
「こちらこそ、いつもお世話になっております。これはつまらないものですが」
堀内が手土産のお菓子を渡して話す間、合田は一歩下がった位置で動かずにいた。雑談が一段落したところで、「どうすればいい、俺は?」と聞いてくる。
「殴ればいいんじゃないですか?」
そこで漸く今日の目的を告げてやった。
「……殴る?」
「子どもの頃されたのと同じことをするんです」
聞こえている筈なのに、華子の表情は静かなままだ。
「気が済むまで殴れば、過去から解放されるんじゃないですか? 気持ちも安定して、以前のように制作もできるようになる」
合田が目を見開く。彼に振り回されるばかりだったから、こんなことは珍しい。
「昔されたことを返すだけです。罪悪感を持つ必要はありません。ここは病院ですから、怪我をしてもすぐに手当てしてもらえる」
「お前……」
「俺がいるとやりづらいでしょうから退室します。そうそう、うっかり買ってしまったんですけど、俺はいらないので差し上げます」
サイドテーブルに置いたのは折り紙の束だ。
「ではご自由に」
そう言い残して、本気で二人きりにしてしまった。病室を出た途端にばくばくと鼓動が騒いで、壁に背を当てて聞き耳を立ててしまう。
大丈夫。合田は母親を殴るほど自分を見失ってはいない。祈るような気持ちで指を組む。
三十秒弱の時間がとても長く感じられた。二人が静かに話し出す声と、合田がベッドの傍の丸椅子を引いた音に、ほっと胸を撫で下ろす。彼が過去の嫌な記憶に勝った。安堵の気持ちに包まれて、自分も落ち着くために深呼吸を繰り返す。
長く盗み聞きを続けるのも悪いので、その場を離れることにした。自販機でコーヒーを買って駐車場の車に戻る。
今日全ての蟠りが解決するとは思っていない。だが彼の回復の足掛かりになってくれればいい。自分はこれからも彼の回復を手助けしていく。アクセスの悪い病院だから、駐車場はガラガラで、欅が黄緑色の葉を広げる端の方に車を移動させて、ハンドルに腕を乗せて目を閉じる。位置が変わった車に戸惑うこともなく、彼は二十分程で戻ってきた。
「早かったですね。久しぶりなんですから、もっとじっくり話していてもよかったのに」
助手席に乗り込む彼は落ち着いていて、機嫌も悪くない。
「まだ長時間はきつい。色々思い出すこともあるから」
幸せな記憶より辛い記憶の方が多いのだろう。それはこれから幸せを積み重ねていけばいい。
「会話が続かないから、二人で折り紙なんかしてしまった」
その言葉にふっと頬が緩む。
「どうして折り紙を渡そうと思った?」
「山瀬さんが教えてくれたんですよ。幼稚園の頃、折り紙の指輪を作ってお母様にプレゼントしたって。お母様が凄く喜んでくれたんでしょう?」