冷徹秘書のムーンストーン

 週明けまで待てずに、翌日彼のマンションに向かった。今朝は薬の時間の電話にも出てくれなかった。ラインが既読になるから心配はないと思うが、こんな状態を続けるのはメンタルによくない。どうせどれだけ言い争おうと、秘書として雇われているのだから簡単には離れられない。言いたいことがあるなら全部言ってもらおう。そう気持ちを強くしてインターホンを押す。開けてくれなければ敬助から預かっているスペアキーで入るまでだ。そう思ったが、エントランスは開けてくれたし、部屋の鍵も掛かっていない。
「なんですか、その格好?」
 リビングとキッチンにいないから制作部屋を覗いたところで思わず声を上げた。彼がスーツ姿でアクセサリー作りに掛かっている。それも着慣れたものでなく、堀内が取材用に揃えた上等なものだ。ネクタイまで締めた姿は、当然だが制作に相応しくない。
「どこかに行ってきたんですか?」
「いや」
 無視されるのを覚悟で聞けば平坦な声が返ってきた。
「瑛が、こういうの好きだと思って」
「え?」
 予想外の答えに頭がついていかない。だがふと昨日のことを思い出す。高井はいいスーツを着ていた。多分それを言っているのだ。
「別にスーツが好きな訳ではありません」
「じゃあ、あの男が好きなのか?」
 漸く振り向いた彼に、場違いと知りながら胸が苦しくなった。なんて魅力的で厄介な男だろう。男の色気を宿した顔立ち。強い意思を持つ眉が不満げに寄せられる様子が、堀内の心を容赦なく惹きつける。
「昨日は失礼しました。彼はお世話になった友人です。特別な感情はありません」
 彼の傍に膝をついて言えば、とりあえず納得してくれたのか表情が元に戻った。だがそのままヤットコを放り出して、彼はその場に倒れてしまう。
「疲れたのなら休みましょう? 制作はまたいつでもできます」
「……俺にはもう無理だ」
 珍しくストレートな弱気だった。
「感情に振り回される馬鹿な男だと思っているだろう? でも仕方ないんだ。作ろうとすると母親の顔がちらついて、俺はいつも作れなくなる」
「お母様?」
「ああ。俺を散々虐待した母親だ」
 とてもデリケートな過去だから、何も言えずに続きを待つことしかできない。
「おかしいだろ? 虐待してきたのは母親なのに、全部父親のせいにして迷惑になるようなことばかりしている。そうやって母親の存在を忘れようとしているのに、『不倫相手に息子がデザインしたアクセサリーを贈った』って記事が母親を傷つけたと思うと、もう作っちゃいけないような気がするんだ」
 初めて聞く本音だった。彼は虐待されていた当初から彼女を庇っていた。痛い思いをしながら山瀬にさえ打ち明けなかった。心はとても複雑で、一つの理由だけが彼を苦しめている訳ではないと分かっている。それでも彼の苦しみの一片に触れられたような気がして心に静寂が訪れる。心が落ち着けば、思考が自分らしい速度で回り出す。
「俺はずっとあの母親に囚われ続ける」
「では断ち切りましょう」
 至極冷静に言葉が出ていた。
「お母様に会いに行きましょう。半端な距離だから苦しいんです。やるなら徹底的にやらないと。楽な格好に着替えて待っていてください。俺の車を持ってきます」
 そう言って、彼の返事も聞かずに部屋を出た。母親の華子の病院の場所なら頭に入っている。合田が逃げていればそれでいいと思ったが、彼はラフな格好に戻って堀内を待っていてくれる。一時間後には海辺の街を目指して走っていた。迷いはありそうだが、合田は黙って堀内の車の助手席に収まっている。
「二時間掛からずに着きますから」
 合田が過ごした別荘のある街でもあった。トラブルのあとで妻を転院させたと敬助が言っていた。合田が別荘に移ったのはその更にあとだから、彼女の病院が傍にあると分かった上で引越したのだ。敬助なら他にも別荘を持っているだろうし、無意識だとしても、合田の心の中で彼女の存在はなくせないものなのだ。甘えたいのではなく、父親から護ってやりたいという、幼い頃の気持ちのままなのかもしれない。健気な話だが、彼自身も本調子でない今、一度けじめをつけた方がいい。
「起こしますから、眠っていてください」
「いや、いい」
 短く言って、彼は眠らずに窓の外を眺めていた。別に嫌な空気ではないので、黙って運転を続けて、時々そっと彼の様子を盗み見る。無理矢理連れてきたようなものなのに機嫌はそれほど悪くなさそうで、スムーズに車を走らせる。
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