冷徹秘書のムーンストーン

 すぐに山瀬の車がエントランス前までやってきて、ほんの一瞬七月の暑さに晒されただけで、快適な車内に避難することができた。彼の仕事ぶりに触れて、堀内も気持ちの落ち着きを取り戻す。
「先に坊ちゃんの家にお送りして、そのあと堀内さんの家にお送りします。どこか寄りたいところはありますか?」
「瑛も俺の家で降ろしてくれ。山瀬さんはそこで上がりでいい」
「ちょっと!」
 何を勝手なことを言っているのだと彼を睨みつけてしまった。直帰の予定なのに、何故まだ付き合わなければならないのだ。
「秘書を過労死させるつもりですか?」
「そうじゃないけど、もう少し瑛と話したいんだ。貰いものの珍しいお茶があるから飲んでいけばいい」
 どうせそのお茶を淹れるのも堀内だろうと思うが、ミラー越しに哀れみの表情を見せる山瀬を困らせたくなくて、言うことを聞く羽目になる。
「分かりました。でも三十分だけですよ」
「やった。やっぱり瑛は優しい」
「全く」
 無邪気にはしゃいで、その後すぐに目を閉じてしまう彼にため息が落ちた。社長の父親に甘えることなく看板デザイナー兼広報として手腕を発揮していた頃の影は微塵もない。今は肩書きをやらなければズルズル落ちていきそうだと案じて与えられた、実態のない副社長のポジションにいる。ジュエリーデザインの方も取材に合わせて無難なデザインのものを一つ二つ作る程度で、それだって出来上がらないことが続いたのだ。ドタバタに懲りて、最近は新作ができたタイミングで見栄えのいい写真を撮り溜めて、あとから取材相手に渡すという方法を取っている。
「すみません。お薬を飲んでいるんですよって、お酒はお止めしたんですけど」
 山瀬の申し訳なさそうな声に我に返る。
「山瀬さんのせいではないですよ。もう昨日の夜から飲んでいたみたいですし」
 合田は今、父親名義のマンションで一人暮らしをしている。堀内と山瀬と弁護士の佐藤という男の三人で面倒を見ているが、流石に一日中監視する訳にはいかないので、夜にお酒を飲まれてしまえば仕方ないのだ。堀内は独り身だから泊まり込みの世話ができない訳ではないが、却って自信喪失させそうだからと父親の敬助けいすけが反対する。それがなくてもずっと一緒にいるのはハードルが高い。勝手気ままに振る舞う彼と向き合うためには、一人心を鎮める時間が必要。というのは言い訳で、二人きりで過ごせば、彼に対して密かに抱く複雑な感情に苦しむ羽目になりそうだから。全く、何故こんな面倒な男と出会ってしまったのだろう。
「巧さん、着きましたよ。一度起きてください」
 エントランス前で肩を揺すってみるが、彼は目を覚まさなかった。対面の仕事のストレスが大きかったし、朝晩二回飲む薬の影響もあるだろう。だが流石に自分より大きな彼を七階の部屋まで運ぶ自信はない。
「巧さん。またすぐ寝ていいですから、部屋まで歩いてください」
「……うん。瑛、ついてきて」
「部屋まで一緒に行きますよ。はい、降りて歩いてください」
 山瀬が目顔で手を貸しましょうかと言ってくれるが、今日はどうやら歩いてくれそうだ。山瀬と別れて、エレベーターに乗せて部屋まで連れていく。
「はい、到着。手を洗ったら好きなだけ寝てください」
 そう言って支えていた腕を離せば、彼がまっすぐ制作部屋に向かってしまった。2LDKの部屋の一つが寝室で、もう一つが制作部屋。出掛けている間にハウスキーパーを頼んでおいたから、掃除と洗濯が済んで、冷蔵庫には簡単な料理が用意されていた。家事をしないくせに在宅時にハウスキーパーが来ることを嫌うから、高い報酬を払って条件を全て呑んでくれる家事代行会社と契約している。費用は全て敬助持ちとはいえ、我が侭もいいところだ。
「瑛、見て」
 部屋から呼ばれて向かえば、フロアマットの上に座った彼が、ネックレスを一つ持ち上げてみせた。
「新作ですか?」
「うん。昨日できた」
「いい出来じゃないですか。もう完全復帰も遠くないですね」
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