冷徹秘書のムーンストーン

 そう言われて進んだ先には屏風が展示されていた。展示用のロープが張られた先で、恐ろしい顔の鬼が二体描かれた黒屏風が存在感を表わしている。
「江戸時代にあったものを、同じ技法で明治になってから復元したものらしいんだけど、凄い仕掛けなんだよ」
 高井が傍にいた係員に合図を送れば、白手袋をした彼がそっと屏風の右上部分に触れる。途端に鬼の絵が消えた。
「何……?」
 鬼の代わりに金箔に描かれた桜の絵が現れて、何が起こったのか分からなかった。
「近づいてみて。ほら、ここなんか分かりやすい」
 促されてロープぎりぎりのところで目を凝らせば、ブラインドのような作りになったものが一度に回転して絵が変わったのだと分かる。作られたのが江戸時代ならかなりの技術だ。
「この桜の絵を美しく見せるために、わざと表側は鬼の絵なんだって。僕はどちらの絵も充分素晴らしいと思うけど」
 流石、幼い頃から美しいものに触れてきた人間だ。無機質な堀内の人生にも一つ新しい価値観が追加されて、今日ここに来てよかったと思う。
「そろそろ出ようか。混んできたらこの屏風の仕掛けも決まった時間にしかやらなくなるから、早く来られてよかった」
「いいものを見せてくれてありがとうございます」
「お気に召していただけてよかった」
 以前も来たことがあるだろうに、高井は堀内以上に楽しんでいるようだ。
「ランチ予約しておいたんだ。こっちも僕のお勧め」
「今日は俺が払うと約束したのに。あまり高いところだと払えませんよ」
「美術館のついでにランチも僕に任せてもらう方が嬉しいんだけどな」
「ついでってなんですか」
 軽口を交わしながら建物を出て、すぐ傍にあるイタリアンレストランに向かう。高井のお勧めだけあって、こちらも文句のつけようのないいい店だ。昼夜一組ずつしか予約できないという個室で、ランチのコースメニューをいただくことになった。前菜から始まって手打ちパスタが二種、フィレ肉のローストはA5ランクだ。一皿に綺麗な菓子のように盛りつけられたパスタが目から楽しませてくれる。
「嫌じゃなければ、少し副社長さんのことを聞いてもいいかな」
 このランクの食事に慣れているのか、高井が器用にカトラリーを操りながら聞いてくる。
「守秘義務違反になるようなことは言わなくていいけど、なんていうか、仕事先でトラブルを起こすような病気なのかな?」
 言葉を選ぶように聞かれて、堀内も慎重に当たり障りのない答えを返す。
「偶々不運が重なっただけで、トラブルというほどのことはないんです。相手側の失礼に合田さんが怒ったり、契約違反の条件を出されて仕事が白紙になったり、その程度です」
「でも以前の仕事に戻れないほど体調はよくないんだよね?」
 何故かこの話題の高井の攻撃は厳しい。
「社長のトラブルでかなり嫌な思いをしたので、少し世間から離れているだけです。嫌なことが続いて何もかも嫌になることなんて、俺たちにもあるでしょう?」
 立場上話せないだけでなく、合田の病気については不確かなことが多かった。診断名は不安障害だが、彼の症状に当てはまらない点も多い。多分心の病は診断が難しくて、それでも病名をつけないと薬の処方のしようがないから、近いものを当てるのだろう。合田は特定のものに強い恐怖を感じることはないし、動悸やめまいや吐き気もほとんどない。だが苛々したり眠れなくなったりの症状は彼を苦しめて、そこは医師が改善しようと尽力してくれている。秘書になってから病気については本気で勉強した。いや、正確にはもっと前、一夜を過ごして翌朝彼に冷たく突き放されたときから、どうにか彼の態度を病気のせいにしたかった。
「堀内さんが苦労しているのはよく分かったよ」
 人間のできている高井が、堀内の気持ちを察して話を終わりにしてくれる。
「じゃあ、別のことを話したいんだけど」
 ドルチェのあとのカフェに辿り着く頃、高井が心做しか緊張気味に堀内を見つめた。
「どうしたんですか、いきなり?」
 銀行を辞めて父親の会社の役員になるとでも言うかなと思ったが、切り出されたのは全く別の話だ。
「恋人になってくれないかな?」
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