冷徹秘書のムーンストーン

 次の一週間はオフィスの方に出社した。取材の仕事もないし、合田には山瀬とハウスキーパーがいるから、来なくていいと言うならそれでいいのだ。幸いなことに仕事はいくらでもあった。合田がしでかしたトラブルのその後を確認したあと、病院のレセプトや処方箋の控えを確認して記録をつける。彼の仕事の収支画面を開けばため息が漏れた。また口止め料で大金を使ってしまった。敬助がポケットマネーで補填してくれるからいいのだが、合田には副社長室で座っていてもらった方が損は出ない。辛い時期を乗り越えて復活してほしいと思ってきたが、近頃そんな日が来るのだろうかと思うことが増えた。秘書が信じてあげなくてどうすると、自身を鼓舞するのにも限界がある。
 敬助から頼まれた資料や食料品を部屋に届けたりはしたが、それも回数を控えていた。不機嫌なままの彼が堀内を空気のように扱う。気に障るようなことをして体調まで悪化させたくなかった。朝晩の薬の時間に電話をすれば一応出てくれる。機嫌が直るまではそれでよしとしよう。そう自分を納得させるが、堀内も人間だから心にやりきれないものを抱えてはいる。
 考えたくないことから気を逸らすには、別のことをするのがいい。そう開き直って、土曜は佐藤に待機を代わってもらった。
「頼ってもらってよかった。巧さんのことは任せてください」
 気持ちよく引き受けてくれた彼に礼を言って、そのまま高井に連絡を入れる。美術館に行くと伝えたら、電話越しでも分かるくらいに喜んでくれた。
「よかった。お休みが取れたんだね」
 自分の希望が叶うことより、堀内の身体を案じてくれる。その優しさに鬱々とした気持ちが少し晴れた。開館直後の美術館を見て、その後ランチにしようという彼の計画に不満はない。最寄り駅を聞いて電車で向かうつもりでいたが、当日彼は車で迎えに来てくれる。
「わざわざすみません。遠回りになるのに」
「ううん。堀内さんに僕の運転を見せたかったから」
 無邪気な言葉だが、乗ってきたのは究極のエコカーと言われる高級車で、多分八百万は下らない。
「ちゃんと自分で働いたお金で買ったんだよ。親のお金じゃない」
 走り出した車内で子どもじみた言い方をする彼が好ましい。
「親に買ってもらったなんて思う筈がないでしょう? 乗り心地もいいし、いい車」
「ありがとう。堀内さんに褒められると嬉しい」
 思ったことをそのまま言葉にする彼の傍は居心地がよかった。合田のように言外のものを読むのに神経を使わなくていい。本来人間はこっちが正しいのだと、当たり前の感覚に戻った気分だ。
 訪れた美術館は思っていたよりずっと本格的なものだった。入口を入れば、扉の左右にいたスーツ姿の係員に「いらっしゃいませ」と頭を下げられる。少し進むと、ソファーに座って知恵の輪が楽しめるスペースがあった。単純な作りのものから複雑怪奇なものまで様々なものが並べられていて、「ご自由にお楽しみください」というプレートが出ている。
「勝負する?」
「俺は強いからやめておいた方がいいですよ」
「それは燃える」
 そんなやりとりをして二人で知恵の輪を手に取った。知恵の輪は昔から得意だ。高井相手でも負ける訳にはいかない。そんな謎の意地で絡み合う金属に触れて、簡単に二つの輪を外してしまう。
「流石堀内さん。でも知恵の輪のレベルが違いすぎたかもしれないから、もう一勝負」
 そんなことを言って楽しむ高井と、気が済むまで知恵の輪で遊んだ。どうでもいいことに夢中になる時間が、今は楽しくて仕方がない。
「これじゃ、閉館まで入り口で過ごすことになりそう。中も見たいからもう終わり」
「じゃあ、あと一回だけ」
 何度負けても楽しそうな彼にねだられて、彼に勧められる知恵の輪を手にする。その輪が思いがけず綺麗で、ふと合田の姿が浮かんだ。彼は今も石や金属に向かっているだろうか。上手くいかない制作に苛立っていないだろうか。今日は何かあれば佐藤に連絡するように言ってあるが、体調不良を我慢したりしないだろうか。一つ思えばつらつらと考えてしまって、最後は高井に大差で負けてしまう。
「堀内さんに勝ってしまった。流石僕」
「……自画自賛」
「いいじゃん。諦めない精神は僕の長所だから。じゃあ、僕が気持ちよく勝ったところで次に行こうか」
 さりげなく次のスペースに誘導してくれたのは、堀内の気が逸れていたのを見抜いたからだ。にこにこと笑っていながら彼は鋭い。そして優しい。その態度に救われる。
 進んだ先には海外の騙し絵が並んでいて、撮影可の絵の前で係員に二人並んで写真を撮ってもらった。
「奥に凄いものがあるんだ。堀内さんも驚くよ」
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