冷徹秘書のムーンストーン

 慣れた病院通いの筈だったが、翌日の彼はご機嫌がよろしくなかった。部屋を訪れたときから堀内の言葉にまともに返事すらしてくれない。ここまで酷いのは久しぶりだ。医師と話して少しでも落ち着いてくれればいいと思ったが、更に不機嫌になって診察室から出てくるのだからどうしようもない。不機嫌すぎて堀内と話すのも嫌なのだろう。それならさっさと退散するまでだと思うのに、部屋までついてこいと言うのだから訳が分からない。
「苛々が消えないようでしたら安定剤でも飲んだらどうですか?」
 部屋に帰った途端に玄関の壁を殴った彼に、流石に口調が投げやりになった。
「……うんざりだと思っているのか?」
 キッチンに向かっていた彼が突然振り向いて言うから、理解するのに時間が掛かる。
「俺みたいな奴の病院通いに付き合うのは嫌になったんだろ?」
「今更なんです?」
 何度一緒に病院に行っていると思うのだ。
「嫌になんてなっていません。困っているのは、今のあなたのその態度です」
「昨日どこに行った?」
 突然話が変わるのは調子が悪い証拠だ。だが思い当たる節があるので迂闊に返せない。
「何かいいことがあった筈だ。誰かと会ったのか?」
 何故分かるのだろう。だが別に隠すことでもない。
「行員時代の友人と食事に行ったんですよ」
「それはご立派な友人だな」
 銀行員という職業まで気に障るなら、もう打つ手なしだ。
「どうやら俺は帰った方がよさそうですね。いつもの薬の時間に電話します」
 安定剤を拒否するように寝室に向かってしまった彼を追い、それだけ言って退散することにした。苛々が消えないのか、彼が今度はベッドの傍のサイドテーブルを打つ。その様子にこっちの心までボロボロにされそうだ。
「デザイナーでしょう? 大事な手が傷つきますから物に当たらないで……」
 くださいと近づいた瞬間だった。
「……っ」
 不意討ちで腕を引かれて抱き寄せられる。今テーブルを打ったばかりの手が頬に触れたと思った瞬間、上向かされた顔に彼の顔が近づく。え? と思う間もなく唇が触れた。彼の少し硬めの髪が頬を擽る。これは一体なんだと思ううちに、唇を割って彼の舌が侵入してくる。
「なんのつもりです!」
 そこで我に返って彼を突き飛ばした。堀内の反撃が予想以上だったのか、彼が肩を押さえて眉を寄せる。だがその顔に反省の色はない。
「あなたがこの手の乱暴を働く人間だとは思いませんでした。何が副社長ですか。こんなことを余所でやったら犯罪です。その程度のことも分からなくなったんですか?」
 堀内にしてもかなり酷いことを言った。だが彼は動じない。
「犯罪ね」
 彼の口角が上がって、責めている筈のこちらがゾクリとする。
「初めてじゃない。あのときは訴えなかっただろ? ああ、あのムーンストーンが口止め料だと思ったのか?」
 ついさっきまでメンタルクリニックに行っていた男とは思えなかった。その鋭い眼光に、思わず後退ってしまう。
「俺が全部忘れたとでも思っていたか?」
「……なんの話でしょう」
「上着を脱いで、シャツのボタンを外してみろよ。いつもそこに何を下げている?」
「……っ」
 伸びてきた手を払った拍子に壁にぶつけてしまった。構わず寝室を出てしまう。玄関に投げてあった鞄を掴んで走り出た。追ってくる気配はないのにエレベーターまで走ってボタンを連打する。直通で駐車場まで下りて、さっさと車を発進させてしまった。さっきぶつけた手の甲が痛んで泣きたくなる。
「卑怯だ」
 フロントガラスを睨みながら、呟かずにいられなかった。
 ずっと知らないフリをしていたなんて卑怯だ。あの夜のことなど忘れたように振る舞うから、こっちも知らん顔でいたのに。ただの秘書として傍にいる堀内を彼はどう思ってきたのだろう。悪趣味だ。それにさっきのキスはなんだ。一体人をなんだと思っているのだ。次から次へと不満は湧くのに、唇に残る感触がそんなものは掻き消してしまう。
 いつもの力のない視線ではなかった。目に光が宿っていた。本来の彼が戻ってきているのなら嬉しい。どんな彼でもついていくが、可能なら以前の彼に戻ってほしい。彼自身がそれを望んでいる筈だから。だがあんな形ではない。
 信号待ちで胸元からムーンストーンを引き出した。彼は覚えていた。秘書として会う前に堀内と会っていることを。プラチナでネックレスを作る直前に、二人の間に何があったのかも。
「ならどうしろというんだ」
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