冷徹秘書のムーンストーン

 そんな形の異動の話をされたところで潔く退職した。職場で堂々と男漁りをする人間も、被害に遭った部下を護れない上司も、困った女性行員より自身の無能ぶりを暴きそうな男を異動させるトップも、みな顔も見たくないほど軽蔑していた。銀行に未練はない。預金もある。ここにいては堀内の正常な思考まで侵されてしまう。そう思って引継ぎと有休消費を済ませてあっさり辞めてしまった。
 高井は心配して連絡をくれたが、親しくすることで『あの堀内の仲間』という印象を持たれるのは悪いと思った。
『落ち着いたらこちらから連絡します』
 それだけ返して、そこで関係が途切れていた。数年後、高井の周りの人間がみな堀内のことなど忘れた頃連絡しよう。そう思っていたのに、合田の秘書になってからは行員時代とは違う気苦労に忙殺されて、高井のことはすっかり頭から抜けていた。律儀にくれた年賀状で辛うじて異動したことだけ知っていた。そんな無礼な同僚に会いに来てくれるのだから、彼の人柄は健在なのだろう。また以前のような目に遭っていないか心配する気持ちもあるが、やはり綺麗なものが綺麗なままいてくれれば心和むというものだ。
 約束の日は合田の傍ではなく、本社ビルの勤務だったから、予定通り待ち合わせ場所に向かうことができた。ずっと合田の傍にいては予定も立てづらいだろうという敬助の配慮で、週に一度か二度オフィスに出勤することになっているのだ。行員時代の知識を活かして決算書や試算表のチェックをしたり、秘書室で合田のスケジュールの手配をしたりと、充実した時間を過ごさせてもらっている。
 合田からの呼び出しもなく、十分前には約束の場所に到着した。高井に指定された駅はそれほど混んでいなくて、これならライン一つですぐに会えそうだと、七時になるのを待つ。
「あ……」
 だがメッセージを打つまでもなく彼を発見してしまった。改札から出てくる人の邪魔にならないように、屋外券売機の向かい側の欅の前に立っている。
「ごめん。遅くなりました」
 駆け寄れば彼が微笑んで首を振った。
「まだ十分前。僕が早く着きすぎただけだよ」
 そう言われてまた新鮮な気持ちになる。合田の秘書になってから、約束は遅刻されるものという感覚に慣れていたが、考えてみればこっちが普通なのだ。
「駅から少し歩くんだ。車で迎えに来られたら格好よかったんだけど、それはまた今度ということで」
「俺相手に何を言っているんですか」
 梅雨明け宣言が出て気持ちのいい夕刻だった。まだ暗くなる前の空に、高井の整った横顔が映える。綺麗な二重瞼に高い鼻梁。それに色素の薄い髪と瞳がブランクを忘れさせてくれる。ベージュではなくグレー系に薄い瞳に、以前よく神秘的なものを感じたものだ。人柄だけでなく内面も美しい男。嫌なことを思い出す必要もないが、彼があの女の思い通りにならなくて本当によかったと思う。
「ここだよ。気に入ってもらえるといいんだけど」
 駅前の交差点を渡って進み、路地を一つ入ったところで指されたのは、鉄筋コンクリート三階建ての建物だった。和食処だと聞いていたから、意外な気持ちで黒い外壁を眺める。
「ここの店主は古いことに拘らない主義なんだ。おいしい料理を出すことが一番で、食材や調理器具の管理には近代的な建物の方がいいって言って、数年前に古い建物を建て替えてしまったんだ。僕も建て替え後の方がおいしくなったような気がして」
 つまりは常連ということだ。彼は実家のことをあまり話したがらないが、父親が現役の経営者というだけでなく相当な資産家なのだろう。ごく普通の家庭で育って、大人になってから食事のマナーを学んだ堀内とはスタートが違う。
「入ろう。張り切って個室を予約したんだ」
「俺相手にそこまでしなくてもいいのに」
「ふふ。だって内緒話がしたかったから」
 だが彼は嫌な感じが一切しない言い方をする。友人などいらないと思っていた堀内にとって、もしかしたら彼は神様からの 贈りものなのかもしれない。いつにない穏やかな気持ちの中で、そんな非現実的なことを思ってしまう。
「お酒は飲んじゃいけないんだっけ?」
 思ったよりずっと本格的な個室で向き合って、彼がそう聞いてくれた。
「呼び出しがあるかもしれないので。高井さんは気にせず飲んでください」
「ううん。一人で飲んでも面白くないからやめておく。そうだ。メニューに書いていない、いいお茶があるかもしれないから聞いてみよう」
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