冷徹秘書のムーンストーン
「そこは無理をされなくても」
つい言葉が出てしまう。
「私は激務だと思っていませんし、巧さんも回復途中です。巧さんはお医者様でもスタッフでも好き嫌いが激しいので、余計な刺激を与えない方がいいと思いますし」
「ええ。お二人のような仕事はできませんが、足が必要なだけなら私も休日に呼び出していただいて構いませんので」
山瀬の援護射撃に救われる。
「そうか。じゃあしばらく三人で頑張ってもらおうか。馬鹿な父親と思われるだろうが、今は巧が無事に生きていてくれればそれでいいんだ。以前のように仕事をしてほしいなどと贅沢なことは言わない。世間から批判されるようなことさえしなければ、副社長のポジションのまま護ってやりたいと思っているんだ」
それが彼なりの償いなのだろう。
今夜は山瀬にも楽しんでほしいという敬助の気遣いで、会社の車ではなくタクシーで来ていた。帰りもタクシーに乗せてもらって、自宅マンションの傍まで戻ってくる。
「余計な刺激を与えない方がいい、か」
タクシーを降りて一人になったところで、思わず零れる。
さっきの台詞は嘘ではない。だが言葉の下にもう一つ気持ちが隠れている。副社長秘書として、合田の一番傍にいるのは自分だ。そこに新たな人材など登場してほしくなかった。佐藤にも山瀬にも家庭があるから、そういう意味での心配はない。だがそこに新たに若い男でも入られてしまえば、余計な心配が増えそうで嫌なのだ。冷徹を通り越して冷酷だと思ってきた自分にとって初めての感情。合田と出会ってから知ったもので、煩わしいのに振り払えない。そんな下心を持っていると知られれば秘書など解任されてしまう。だから今後も厳重に隠していく。
「ん?」
考えごとをしながら歩いていて、街灯の前に人が立っていることに気づかなかった。すぐ傍まで来てから気づいて足を止める。堀内より少し背の高い男だろうか。前を通らなければ部屋に戻れないが、時間が時間だから慎重になる。遠回りして彼に気づかれないように戻ろうか。そう考えたところで、彼がふと顔を上げる。
「堀内さん、久しぶり」
「高井さん?」
声を掛けられて驚いた。行員時代の同僚、高井素直 だ。
「どうしてここに」
駆け寄って聞けば彼がふっと表情を和らげる。一年数ヵ月振りだが、笑うと泣きそうに下がる眉が懐かしい。行員時代彼の人柄に何度救われただろう。
「堀内さんに会いたいと思って」
ストレートな言葉に瞬いた。よく考えればおかしな台詞でもないが、普段合田のような分かりにくい男の相手をしているから、普通のことが新鮮に感じられる。
「あ、別におかしな意味じゃないんだ。今の部署で主任に昇進したから、これなら堀内さんに会いに行けるって思って。ずっと助けてもらってばかりだったから、お礼をしたいと思っていたんだ」
彼が言い訳のように重ねる言葉が、なんだかじんと胸に沁みた。素直という名前の通り、彼の言葉には裏表がない。友人などいらないと思っていた堀内の心を変えてくれた、行員時代唯一の思い出の人物なのだ。
「確か東京第二センターでしたっけ? 住宅ローン全般でしょう? 主任って凄い」
「うん。堀内さんに会いたくて頑張ったんだ」
「さっきからなんですか、それ。別に連絡先も変わっていないんだし、主任にならなくても会おうと思えば会えたでしょう?」
「ううん」
笑って返せば、彼は逆に笑顔を引っ込めてしまう。
「ちゃんとしないとと思ったんだ。堀内さんには迷惑を掛けてしまったから、弱いままで会いに行けばまた迷惑になると思って」
「……別に銀行を辞めたのは高井さんのせいじゃないし、そんな深刻にならなくても」
なんのことを言っているのか分かって、話を有耶無耶にした。相手もそこに拘るつもりはないらしく、またふっと表情を緩めてくれる。
「今度食事に行かない? あのとき送別会もできなかったから、ご馳走させてほしいんだ」
「それなら、ご飯くらいご馳走になろうかな」
それで彼の気が済むなら食事くらい付き合おうと思った。彼のせいでないのは事実だが、罪悪感を覚えるのも無理はない。
「でも、ごめん。少し仕事が厄介で、土日も約束できそうにないんです。平日の夜なら大丈夫だと思いますけど、呼び出しがあればすぐに向かわないといけなくて」
合田がいつ何をしでかすか分からないのだ。
「そんな事情でお酒も飲めないんですけど、それでいいなら」
「もちろん。じゃあ、来週の金曜はどうかな? お店選びは僕に任せて」
かなり我が侭なことを言ったのに彼は動じなかった。まるで堀内の仕事内容など初めから知っていたとでもいうように、全部受け入れて、念のため連絡先が変わっていないことを確認して去っていく。
『会えてよかった。お店が決まったら連絡するね』
部屋でメッセージを見たところで、ここは部屋に入れてお茶でも出すところだったかと気づくが、秘書の仕事を離れた途端に気が利かなくなるのだから仕方がない。
『俺も会えてよかった。来週楽しみにしています』
『俺も凄く楽しみ』
堀内の無礼を気にする様子もなく、屈託のない言葉が返ってくる。
「相変わらずいい人……」
呟いて、久しぶりに心の武装を全て解いたような、穏やかな気持ちに包まれていた。
つい言葉が出てしまう。
「私は激務だと思っていませんし、巧さんも回復途中です。巧さんはお医者様でもスタッフでも好き嫌いが激しいので、余計な刺激を与えない方がいいと思いますし」
「ええ。お二人のような仕事はできませんが、足が必要なだけなら私も休日に呼び出していただいて構いませんので」
山瀬の援護射撃に救われる。
「そうか。じゃあしばらく三人で頑張ってもらおうか。馬鹿な父親と思われるだろうが、今は巧が無事に生きていてくれればそれでいいんだ。以前のように仕事をしてほしいなどと贅沢なことは言わない。世間から批判されるようなことさえしなければ、副社長のポジションのまま護ってやりたいと思っているんだ」
それが彼なりの償いなのだろう。
今夜は山瀬にも楽しんでほしいという敬助の気遣いで、会社の車ではなくタクシーで来ていた。帰りもタクシーに乗せてもらって、自宅マンションの傍まで戻ってくる。
「余計な刺激を与えない方がいい、か」
タクシーを降りて一人になったところで、思わず零れる。
さっきの台詞は嘘ではない。だが言葉の下にもう一つ気持ちが隠れている。副社長秘書として、合田の一番傍にいるのは自分だ。そこに新たな人材など登場してほしくなかった。佐藤にも山瀬にも家庭があるから、そういう意味での心配はない。だがそこに新たに若い男でも入られてしまえば、余計な心配が増えそうで嫌なのだ。冷徹を通り越して冷酷だと思ってきた自分にとって初めての感情。合田と出会ってから知ったもので、煩わしいのに振り払えない。そんな下心を持っていると知られれば秘書など解任されてしまう。だから今後も厳重に隠していく。
「ん?」
考えごとをしながら歩いていて、街灯の前に人が立っていることに気づかなかった。すぐ傍まで来てから気づいて足を止める。堀内より少し背の高い男だろうか。前を通らなければ部屋に戻れないが、時間が時間だから慎重になる。遠回りして彼に気づかれないように戻ろうか。そう考えたところで、彼がふと顔を上げる。
「堀内さん、久しぶり」
「高井さん?」
声を掛けられて驚いた。行員時代の同僚、
「どうしてここに」
駆け寄って聞けば彼がふっと表情を和らげる。一年数ヵ月振りだが、笑うと泣きそうに下がる眉が懐かしい。行員時代彼の人柄に何度救われただろう。
「堀内さんに会いたいと思って」
ストレートな言葉に瞬いた。よく考えればおかしな台詞でもないが、普段合田のような分かりにくい男の相手をしているから、普通のことが新鮮に感じられる。
「あ、別におかしな意味じゃないんだ。今の部署で主任に昇進したから、これなら堀内さんに会いに行けるって思って。ずっと助けてもらってばかりだったから、お礼をしたいと思っていたんだ」
彼が言い訳のように重ねる言葉が、なんだかじんと胸に沁みた。素直という名前の通り、彼の言葉には裏表がない。友人などいらないと思っていた堀内の心を変えてくれた、行員時代唯一の思い出の人物なのだ。
「確か東京第二センターでしたっけ? 住宅ローン全般でしょう? 主任って凄い」
「うん。堀内さんに会いたくて頑張ったんだ」
「さっきからなんですか、それ。別に連絡先も変わっていないんだし、主任にならなくても会おうと思えば会えたでしょう?」
「ううん」
笑って返せば、彼は逆に笑顔を引っ込めてしまう。
「ちゃんとしないとと思ったんだ。堀内さんには迷惑を掛けてしまったから、弱いままで会いに行けばまた迷惑になると思って」
「……別に銀行を辞めたのは高井さんのせいじゃないし、そんな深刻にならなくても」
なんのことを言っているのか分かって、話を有耶無耶にした。相手もそこに拘るつもりはないらしく、またふっと表情を緩めてくれる。
「今度食事に行かない? あのとき送別会もできなかったから、ご馳走させてほしいんだ」
「それなら、ご飯くらいご馳走になろうかな」
それで彼の気が済むなら食事くらい付き合おうと思った。彼のせいでないのは事実だが、罪悪感を覚えるのも無理はない。
「でも、ごめん。少し仕事が厄介で、土日も約束できそうにないんです。平日の夜なら大丈夫だと思いますけど、呼び出しがあればすぐに向かわないといけなくて」
合田がいつ何をしでかすか分からないのだ。
「そんな事情でお酒も飲めないんですけど、それでいいなら」
「もちろん。じゃあ、来週の金曜はどうかな? お店選びは僕に任せて」
かなり我が侭なことを言ったのに彼は動じなかった。まるで堀内の仕事内容など初めから知っていたとでもいうように、全部受け入れて、念のため連絡先が変わっていないことを確認して去っていく。
『会えてよかった。お店が決まったら連絡するね』
部屋でメッセージを見たところで、ここは部屋に入れてお茶でも出すところだったかと気づくが、秘書の仕事を離れた途端に気が利かなくなるのだから仕方がない。
『俺も会えてよかった。来週楽しみにしています』
『俺も凄く楽しみ』
堀内の無礼を気にする様子もなく、屈託のない言葉が返ってくる。
「相変わらずいい人……」
呟いて、久しぶりに心の武装を全て解いたような、穏やかな気持ちに包まれていた。