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[chapter:【マネキンは踊らない】]
[i:7cm以下のヒールはハイヒールとは言わない。
これが私の生き方だった。]
電球の切れたネオンはカラフルではあるもののどこか歪な印象を与える。歓楽街はいつだって面倒ごとを抱えている。
赤いハイヒールに制服の出で立ちは、アンバランスだ。通行人にも同じ印象を与えるようで、中年をとうに過ぎた男が私に群がる。嫌悪感のあまり凄むと、私の春が売り物ではないと気付いて逃げ出していった。すかさず、私は数歩先を蠢く呪霊に八つ当たる。
「おいこらいつまで歩かせんだよ。まだ着かねえならお前の上に乗せろ、スケボさせんぞ」
任務を終え、ひどく抽象的な説明を受け、帰ってきたときには時計の針は午前0時を回っていた。砂を噛み締めたような後味の悪さがあった。少なからず近しい人との別れがこんなに早く来るなんて、覚悟はしていても、現実に受け入れることは容易くなかった。
生き別れることと死に別れることはどちらが辛いのだろう。悔いのない死に方なんてない。悔いのない生き方なんてない。せいぜい好きな地獄を選べる自由はあるけれど。
思わず髪を掻き毟る。らしくないことばかり考えてしまう。明日も早いんだからシャワー浴びて寝るかと、お気に入りのvlogを流しながら服を脱ぐ。
ふと振り向いた窓辺に、呪霊がいた。
芋虫の形をしたそれは彼の名を一度呟いたきり押し黙った。私は慌てて制服を着なおす。詰問し、体を絞めても呪霊の態度に変化はなかった。焦れた私が彼の行方を問うと、待っていたかのように芋虫は呻きながら赤い靴を吐き出した。履いてみろと幻聴が響く。私はそれを力任せに壁に叩きつけた。揶揄うのもいい加減にしろ。
何度裂こうが釘を刺そうが、すぐさま靴は再生する。傷一つつけられなかった。それは薄らと彼の残穢を纏って、所有者を待っている。
───死んでいる人には付いていかないように。
祖母の躾は当たり前に厳しかった。
ねえ、おばあちゃん。知っている人でも生きている人でも、危ない目にあうと分かっていたら、ついて行ったらダメじゃない?
ヒールは私の足にぴたりと吸い付いた。足は勝手に動き出す。踊るように夜の外気を踏みしめた。
私は祖母との約束を破った。
ふと目線をあげると若い女と目が合った。射るような目付きだった。反射的に睨むと途端に逸らされる。他人に見定める視線を送っているくせに、いざ自分に向けられると酷く怯える。きっと自分がどれくらい意地汚い顔をしているのか知らないんだ。
風俗嬢たちの視線を受けながら私は建物の中に踏み入った。
足音が響かない廊下があるなんて初めて知った。靴裏が張り付くほど寂れたモーテル。こんな廃墟じみた場所で盛ることができるんだろうか。利用客はいい性癖を持っている。
受付には錆びついたBGMがかかっていた。一応、窓口を覗いて見るが人気はなかった。廻覧料金くらいは払ってやるかと思い、指定の金額を自動販売機にねじ込んでみた。缶ジュースの代わりにルームキーが出てきた。
「初ラブホの相手が呪霊って私の気持ち、アンタわかる?」
「◼️◼️◼️◼️◼️◼️」
「は?」
部屋は男女の交わりだけを目的としたもので、素っ気ないベットと浴室があるだけだった。すすり泣くような喘ぎ声がそこかしこから洩れていた。
廊下の端で靴は止まった。傾いた扉に手をかけると、内側から開いた。中から大口を開けた呪霊が現れ、流れるように私の半身を呑み込んだ。腰骨が嫌な音をたてる。
「隠れんぼは嫌いなのよ。......どういうつもり」
「どうもこうもないさ。強いて言うなら、生き方を決めたんだ。決意表明ってとこかな。つまり、わかりやすく言えばそちらに残る気はないんだ」
どうしてと聞くより先に、私の疑問を彼は全て言い当てた。変わらぬ姿があった。削げた相貌の中で瞳だけが爛々としている。よっぽど良いことがあったに違いない。
「くだんねえ。呪霊飲みすぎて奴らとIQ同レベルに下がったんじゃない?」
「失礼だな。君だって同類だ。もっとも故郷に捨てられた、の間違いだろうけどね」
「こっちから捨ててやったのよ。アンタとは違う」
呪術師が1人、寝返ったところで、世界は変わらない。その思想には意味がない。現に誰もアンタに連れ添っていない。
「───意味はあるよ。私は傲慢だからね」
夏油はこちらに手を差し伸べた。それこそ無意味だ。私は身動きがとれない。
「共犯にはならねえよ、決まってんだろ。夏油さんは一線を超えないと思ってた......堕ちるなら1人で充分でしょ」
「それは、まあ、同感だな。野薔薇はそう言うと思ってたよ。......せいぜい仲間を大事にしな」
私の半身は依然、呪霊の口内に呑まれている。どろりとした唾液が皮膚を溶かしていく。
文句も懇願も吐き出せず、ただただ焦りが喉奥で沸騰している。夏油を留めたい。彼を失うことは呪術師にとって大損だ。争うより先に、夏油の掌が私の目を覆った。彼が一言、二言何かを呟く。腕を軋ませながら私は無理やり霊の口唇を破って、彼の手の甲に釘を突き刺す。でも間に合わない。
私の頭の中に黒々としたものが広がった。
---------
ハイブランドの店内は規則正しく整頓されていて、生活感がまるでない。決して多くはない商品は、私を浮き立たせて落ち着かなくさせる。
『ドラッグもキまらないし、タバコも酒も全然、縋らせてくれない。だから、わたしは憂鬱になったら、車を呼んでティファニーに行くの。そうすると途端に気分が落ち着くの』
とある娼婦の独白だ。私は違うけど。
並べられたマネキンはモノトーンで統一されており、ご丁寧によそ行きの笑みを浮かべていた。うっかり生身の人間と間違えてしまいそうなくらい精巧に造られている。夜中にでも動き出しそうだ。
店員が示した金額が予想外に少なくて、財布をあさる手が止まった。インテリアの様に本棚の中に鎮座した商品は、どれもこれも値札が貼られてないから正確な値段はわからない。どうやら私はシーズン終わりの入れ替え期に来たようだった。型が落ちる季節の変わり目。私が目をつけていたものはとっくに流行遅れになっていた。あんなに欲しかったはずのショルダーが急に褪せて見える。
───買うけどな。
目についた新作の腕時計も会計にねじ込んで、色彩を無理やり蘇らせた。
店員は流石に顔色は変えないものの明らかに戸惑っていた。トレーには私が出した現金と男が出したクレカが仲良く並んでいる。
「───如何なさいますか?」
「現金で」「一括で」
ハリボテのようだ。この生活をおくっていることが。小さな液晶端末の向こう側の世界はあっけなく手に入った。東京の空は狭くてどこまでも自由だ。
モノトーンで統一された紙袋は過剰包装で恐ろしく嵩張る。あと数軒行きたい店がある。焦らなくても欲しいものは逃げない。でも、今行かないと逃げてしまう気がする。急がないと欲しい気持ちが逃げてしまう。
「......虎杖でも呼ぶか」
寮から出る時、彼はコンビニを意味もなくうろついていた。きっとまだうろついているだろう。
アイコンをタップして通話画面を開く。1コール、2コール。男の手が私から端末を取り上げた。私は振り向かないまま、Cのロゴが踊る紙袋を男の胸ぐらに叩きつけた。
「もしかしてストーカーしてる?」
「もちろん」
夏油は糸目を更に細めてコール音を切った。この間、結局虎杖は電話に出なかった。すかさず端末を奪い返す。
「次はどこ?」
「は?ポチったが?買い物する気が失せるのよ。夏油先輩がいると」
高速で端末をフリックする。代金引換を迷わず選択して、日時指定のページに進む。
先に支払われてしまったことがトラウマになった。奢られるのは今回が初めてじゃない。
未成年だからローンは組めない。クレカの審査もなかなか通らない。性に合わないが仕方なく貯めた金で綺麗な物を買いたかった。
「可愛い後輩を喜ばせたかっただけだよ」
「喜んでいい限度を超えてるのよ。それくらいはあたしにもわかる」
金を払ってもらう側の人間はそれなりの“人間”だと思う───お金の代償は時間だったり、年齢だったり───金銭に換えられないものを犠牲にできる人。
私はどうだろう?そう告げると夏油は態とらしく困った声色を出した。
「君の思想は面白いね。私は一々そこまで考えなかったよ」
「特級って吐くほど金持ちなのね」
「ああ、使い道がないんだ。自分のためだけに使うのは気が引ける」
「じゃあタワマンからバラ撒けば?」
「いいね。野薔薇も一緒にやろうか」
「冗談」
美々子と菜々子に使ってあげて。
初めて会った時、2つの小さな顔は怪我で潰れていた。頻繁に会うことはないが夏油のもとで楽しく暮らしているんだろう。寮の別館から明るい声が時折聞こえてくる。
地図にも載らない村には、治外法権が運びる。田舎特有のそれを私は嫌というほど身にしみている。一歩間違えれば私も彼女たちと同じ運命を辿っていたかもしれない。そう思うと他人事とは思えなかった。
2人の庇護者をそうそう邪険にできない理由だった。
---------
夜の形をした帳は昼との境目を曖昧にする。
暗い雨の中に閉じ込められた魚たちは共食いを始めた。盛大な悪あがき。血肉がアスファルトに叩きつけられ、奇妙な旋律を描く。傘を放り出していたから、制服は瞬く間に赤く汚れた。
殺戮は思いの外、早く終わり、骨だけとなった彼等は巨大な白骨死体となって、こちらに向き直った。
「生け捕りにして博物館とかに持っていけばバズらないかしら」
「仮に私が職員だとして、いらないな。こんなひ弱な標本は」
夏油が手持の呪霊を嗾けると、魚は帳の外へ逃れようと必死にヒレを瞬かせた。
夜の水槽はこんな風なんだろうか。観客が2人だけの特等席。祓うのが億劫なほどに、ほのかに光る魚たちは鮮やかだった。
雨に濡れた路地裏は靴音が鈍く響く
彼と2人、こうして肩を並べるのは何度目だろう。私が生きているうちにあと何回足並みを合わせるのだろう。
「雑魚は野薔薇に任せるよ」
「......サボる気?」
「悟じゃあるまいし。可愛い子には旅をさせろって言うだろ?私は呪詛師を叩きたいんだ」
「あっそ。喩えが間違ってるわよ。あたしは夏油先輩の娘じゃないけど」
ホルダーから釘を取り出す。そんなに侮られるほど弱くはない、そう言外に示したかった。
けれど、夏油が雑魚と称した呪霊を片付けられる確信はない。特級のいう雑魚の基準は軒並みバグっている。自分より弱ければみんなそれだ。私にとっては、この魚たちは手強い。頭上を尾鰭が過ぎるたびに、鱗の一枚一枚に呪力が隙間なく込められているとわかる。
後ろに向かってバイバイと手を振りながら彼の姿が消えた。すぐに呪詛師の悲鳴が聞こえる。
ぐずぐずしている暇はなさそうだ。私は息づくと身構える。空間に釘を散らした。
「───共鳴り」
私の喉笛に喰らい付いた魚は、奇妙に呻き臓物を撒き散らした。薄目で見ると大型の和鋏が宙に浮いていた。夏油に操術されたもの。
「......にしても、タイミング良いな」
口にしてみると、思わずため息が漏れた。
呪詛師の遺体は呪霊が運んできた。夏油は指一本触れたくないと言いたげに距離を開けて戻ってきた。
夏油の[[rb:視線 > 態度]]は相手によって温度が変わる。私への視線は何度と言えばいいのだろう。熱くもないし、かといって冷たくもない。
「好きでもない女を助けて楽しい?」
「普通かな」
「あっそう。私も普通だわ。......助けてくれてありがとう夏油センパイ」
「野薔薇が“こっち側”で良かったよ」
彼はつまらなそうに黒々とした球体を弄ぶ。
差別主義者はどの界隈にもいる。珍しいことではない。そういう私だって博愛主義ではない。いつだって取捨選択をしている。“椅子”にいない人間のことまで、ご丁寧に構っていられない。
だけど、ここまで強い[[rb:人間 > レイシスト]]に出会ったのははじめてだった。彼は物理的にも立場的にもとてつもなく強い。それを思い知らされる度、私は嫌悪感を抱く。仮に私が呪術師でなかったら?才能がなかったら?私が私である以上、無意味な詮索だと知っているが問わずにはいられない。
殺す相手が変わるだけじゃない?
柄が軋むほど強く握りしめる。だからなんだって言うんだ。黙れ。
夏油は取り込むと言ったものの、球体をげんなりとした様子で見つめている。子供が風邪薬を無理やり飲まされる様な浮かない顔。
「呪霊って見るからに不味そうね」
「味が良かったら皆がこぞって狩るだろうね。野薔薇は知りたい?」
意図が汲めず、返答が遅れた。
狭まる視界。次に何をされるのか、気づいた時には呼吸を奪われていた。ふざけたように唇同士を重ねて、けれど、すぐに後悔した。押し寄せてくる不快感に耐えられず、思いっきり嘔吐いた。生乾きの雑巾を口に突っ込まれたような味がして、それが私のファーストキスの味になってしまった。
夏油は私に何の感情も抱いていないと、わかってしまった。
......この言い方は違う。私は夏油に1ミリだって何かを期待していた訳じゃない。夏油は本命相手に軽々しく手を出す人間ではない。大切なものは家族と称した檻に閉じ込めて、雁字搦めに監禁して仕舞うような人間だ。
「最悪ッ......何この味......二重の意味で訴えんぞ!未成年に手ぇ出してただで済むと思ってんのか?!」
「私だって未成年だよ」
「嘘つけ!!」
「酷い味だと思わないか?私が独りで味わうのは勿体ないと思うんだ」
私はどんな表情をしているのか、彼はどんな表情をしているのか、暗がりのせいで窺い知ることはできない。私の喉は悪態を吐きながらも、どうにか胃内容物を晒すことを堪えている。毎回毎回、これを味わっていたのか。狂いたくもなる味だ。正気じゃいられない。
私は夏油を殴る代わりに白骨死体の残骸を踵で抉った。この男は苦手だ。愛想よく微笑まれても、蛇に睨まれたような居心地の悪さがある。
靴が汚れるよ、そう言いながら彼は私の手を取って無理やり揺らした。身長差があるせいで、ぶら下がるような形になる。不格好なダンス。
「わがままかよ。強いってだけであんたのわがままとか差別思想が許されて羨ましい」
「野薔薇、差別は必要だよ。区別と言い換えても良い」
───伏黒も無口で誤解されやすい性格だ。誰に対しても壁を作っているが、それは警戒心から来るもので一度打ち解けてしまえばなかなか面白いところもある。
虎杖は例外だ。アイツはコミュ力お化けだから。こちらが壁を作ったところでブチ壊してくる。五条は規格外。夏油は壁を作っているのかすらわからない。胡散臭い笑顔の裏で何を考えているんだか。
夏油の顔を掴むと無理やりこちらに引き寄せる。面食らった様子が可笑しい。わずかに開いた唇に噛みついた。生暖かいものが肌の間を伝った。
味わい慣れた血の味のおかげで少しは舌の痺れが治まった。
---------
夏油の掌が私の目を覆った。
「好きでもなかったけど、嫌いでもなかったよ......さよなら野薔薇」
一語一句、あたしの嫌いな言葉だった。
───私の目は、私の耳はありもしないものを魅せられている。
気を抜いた瞬間、視界が思い出に犯される。繰り返し鼓膜に響くのは彼の声だった。
恋人だってこんな執念深いことはしない。
ひとりさせるからと、寂しくないようにと言って、お節介にも彼が残していった[[rb:術 > すべ]]だった。さよならだとわかっていたのに、引き止めることに夢中で、夏油なりの好意に気づかない振りをした私を、彼はどう思っていたのか。
独りになると、彼が“いた”ときの事を思い出す。
好きではなかった。かといって嫌いでもなかった。セフレだったと言えばそれまでの話だが、けれど、彼は私が故郷と名付けた椅子に座っていた。
昨日のことのように思う。結局、田舎者なんだ、私は。高層ビルを見上げるたびに憧憬が先走るんだから。同じように、彼を見上げるたびに......。
故郷はとうに捨てた。故郷と名付けた椅子が頭の中にあるからそれで良い、帰りたいと思わないのだから必要ない。
小さな島国のこれまた小さな村に生まれた私は、読み書きよりも先に常識というものを覚えた。その常識とやらは、世間一般の常識というものではなく、そこの村でしか通用しない類のひどく偏屈なもの。
今も昔も私は早熟ではあったが成熟はしていなかったんだ。都会に来さえすれば世界が広がると信じていたのだから。ただの一分も疑わなかったのだから。
幸か不幸か果たしてそれは正しかった。
スクランブル交差点は人が多いせいか、人に混じって幽霊がいるらしい。そんなに人恋しいのか、そんなに寂しいのか。
……そういう私も、交差点の幽霊とたいして変わりないのだろう。
きっと彼が東京にいないのだから、世界中探したってどこにもいないのだろう。そんなこと知っている。
それでも、誰に向かってでもなく、行く当てもなく呟いてみる。
ねえ、そこにいるなら出てきてくれない?隠れんぼは嫌いなのよ。
雑踏が動き出してはじめて、自分が横断歩道の前にいたことに気づく。私は誰に会おうとしていたんだ。彼は待ち合わせなんかしなくても、いつも私を迎えにきてくれていたのに。
いつになってもあの言葉が忘れられないのは、もう過去のことだから、なのか、それとも過去だから忘れられないのか。
残穢みたいね、どうしようもないくらいに。ほんとにやっかいだ。
思い出ばかりが残る渋谷だった。
憧れていたブランドを見かけ、ショーウィンドウ越しに覗いてみるが、買う気が起きない。
丁寧に陳列された黒髪のマネキンは、無機質な笑顔を浮かべていて感情が読み取れない。笑顔は一番の無表情だと今更気づいた。
雑踏はいつのまにか動きを止めていた。皆がぽかんと口を開けて空を見上げている。私はつられて見上げることはせず、通行人たちの表情をぼんやりと観察する。大型パネルを見ているにしては視線が定まっていない。私はいつでも動けるよう、腰につけたホルダーに手を掛けた。
すると、風に煽られながら薄墨色の紙が落ちてきた。思わず手近なビルを仰ぎ見る。
「......冗談でしょ」
咄嗟に掴んだ紙幣は肖像画に目隠しが施されていた。悪趣味。私よりむしろ五条が喜びそうな光景だ。
バラ撒かれ続けるそれを捨てることもできず、かといって仕舞うこともできず、馬鹿みたいに立ち尽くしたまま、私は一万円札を見つめた。
---------
その日、奇妙な術を使う人間を捕らえたと夏油は耳にした。門の外は慌ただしく猿が駆け回っている。耳障りだと思う。汚い猿が数匹死んだところで代わりはいくらでもいる。
特に驚きもなく夏油は頷いた。したり顔でやってきた猿は拍子抜けした表情で、けれどめげることもなくつまらない口上を述べた。彼は全く持って興味がなかった。呪術師か、呪詛師かはたまた呪霊か。まあ誰かしらは乗り込んでくるかもしれないと予想はしていたからだ。
こちらに、と案内された部屋の中で女が椅子に縛りつけられていた。
夏油は様子を伺う。見知らぬ人間だった。
若い女だ。例え術式がなくとも、適当に情けをかけて言いくるめれば従うだろう。それから風俗にでも沈めれば多少は金になる。
───災難でしたね。うちの幹部が失礼をしたようで、
言いながら夏油は女に近寄ると、目線を合わせようと身をかがめる。部屋の暗がりには呪霊を忍ばせることも忘れない。服から覗く肌の至る所に打撲の跡があった。女はうなだれたまま荒く呼吸している。拷問されたと言われても納得がいくほどの有り様だ。猿どもは全く容赦がない。彼はため息をついた。せっかくの才能が使い物にならなくなったらどうしてくれる。
女は乞うこともなく、静かに座している。
夏油は遅まきながら疑問に気づく。拉致され暴行されたというのに、女のこの落ち着き様はなんだ?本当に単身で乗り込んできたのか?
思考は突然湧いた痛みによって、無理やり中断させられた。赤いピンヒールの先が足袋にめり込んでいた。血管が破れ、体液が勢い良く溢れ出す。
女は何事か呟いた。懐かしい声だった。
無理やり女に両手を掴まれ、揺さぶられる。不格好なワルツ。
「あたしの男を返せ」
頭の中に黒いものが広がる。夏油は動けない。彼女の術式はよく知っている。
部屋の外で爆音が響いていた。待ちに待った感動の再会だ。泣きそうだ。女を喰い殺すのが先か、夏油の心臓が爆ぜるのが先か。
独眼の女はこちらを見てにたりと嗤った。
[i:7cm以下のヒールはハイヒールとは言わない。
これが私の生き方だった。]
電球の切れたネオンはカラフルではあるもののどこか歪な印象を与える。歓楽街はいつだって面倒ごとを抱えている。
赤いハイヒールに制服の出で立ちは、アンバランスだ。通行人にも同じ印象を与えるようで、中年をとうに過ぎた男が私に群がる。嫌悪感のあまり凄むと、私の春が売り物ではないと気付いて逃げ出していった。すかさず、私は数歩先を蠢く呪霊に八つ当たる。
「おいこらいつまで歩かせんだよ。まだ着かねえならお前の上に乗せろ、スケボさせんぞ」
任務を終え、ひどく抽象的な説明を受け、帰ってきたときには時計の針は午前0時を回っていた。砂を噛み締めたような後味の悪さがあった。少なからず近しい人との別れがこんなに早く来るなんて、覚悟はしていても、現実に受け入れることは容易くなかった。
生き別れることと死に別れることはどちらが辛いのだろう。悔いのない死に方なんてない。悔いのない生き方なんてない。せいぜい好きな地獄を選べる自由はあるけれど。
思わず髪を掻き毟る。らしくないことばかり考えてしまう。明日も早いんだからシャワー浴びて寝るかと、お気に入りのvlogを流しながら服を脱ぐ。
ふと振り向いた窓辺に、呪霊がいた。
芋虫の形をしたそれは彼の名を一度呟いたきり押し黙った。私は慌てて制服を着なおす。詰問し、体を絞めても呪霊の態度に変化はなかった。焦れた私が彼の行方を問うと、待っていたかのように芋虫は呻きながら赤い靴を吐き出した。履いてみろと幻聴が響く。私はそれを力任せに壁に叩きつけた。揶揄うのもいい加減にしろ。
何度裂こうが釘を刺そうが、すぐさま靴は再生する。傷一つつけられなかった。それは薄らと彼の残穢を纏って、所有者を待っている。
───死んでいる人には付いていかないように。
祖母の躾は当たり前に厳しかった。
ねえ、おばあちゃん。知っている人でも生きている人でも、危ない目にあうと分かっていたら、ついて行ったらダメじゃない?
ヒールは私の足にぴたりと吸い付いた。足は勝手に動き出す。踊るように夜の外気を踏みしめた。
私は祖母との約束を破った。
ふと目線をあげると若い女と目が合った。射るような目付きだった。反射的に睨むと途端に逸らされる。他人に見定める視線を送っているくせに、いざ自分に向けられると酷く怯える。きっと自分がどれくらい意地汚い顔をしているのか知らないんだ。
風俗嬢たちの視線を受けながら私は建物の中に踏み入った。
足音が響かない廊下があるなんて初めて知った。靴裏が張り付くほど寂れたモーテル。こんな廃墟じみた場所で盛ることができるんだろうか。利用客はいい性癖を持っている。
受付には錆びついたBGMがかかっていた。一応、窓口を覗いて見るが人気はなかった。廻覧料金くらいは払ってやるかと思い、指定の金額を自動販売機にねじ込んでみた。缶ジュースの代わりにルームキーが出てきた。
「初ラブホの相手が呪霊って私の気持ち、アンタわかる?」
「◼️◼️◼️◼️◼️◼️」
「は?」
部屋は男女の交わりだけを目的としたもので、素っ気ないベットと浴室があるだけだった。すすり泣くような喘ぎ声がそこかしこから洩れていた。
廊下の端で靴は止まった。傾いた扉に手をかけると、内側から開いた。中から大口を開けた呪霊が現れ、流れるように私の半身を呑み込んだ。腰骨が嫌な音をたてる。
「隠れんぼは嫌いなのよ。......どういうつもり」
「どうもこうもないさ。強いて言うなら、生き方を決めたんだ。決意表明ってとこかな。つまり、わかりやすく言えばそちらに残る気はないんだ」
どうしてと聞くより先に、私の疑問を彼は全て言い当てた。変わらぬ姿があった。削げた相貌の中で瞳だけが爛々としている。よっぽど良いことがあったに違いない。
「くだんねえ。呪霊飲みすぎて奴らとIQ同レベルに下がったんじゃない?」
「失礼だな。君だって同類だ。もっとも故郷に捨てられた、の間違いだろうけどね」
「こっちから捨ててやったのよ。アンタとは違う」
呪術師が1人、寝返ったところで、世界は変わらない。その思想には意味がない。現に誰もアンタに連れ添っていない。
「───意味はあるよ。私は傲慢だからね」
夏油はこちらに手を差し伸べた。それこそ無意味だ。私は身動きがとれない。
「共犯にはならねえよ、決まってんだろ。夏油さんは一線を超えないと思ってた......堕ちるなら1人で充分でしょ」
「それは、まあ、同感だな。野薔薇はそう言うと思ってたよ。......せいぜい仲間を大事にしな」
私の半身は依然、呪霊の口内に呑まれている。どろりとした唾液が皮膚を溶かしていく。
文句も懇願も吐き出せず、ただただ焦りが喉奥で沸騰している。夏油を留めたい。彼を失うことは呪術師にとって大損だ。争うより先に、夏油の掌が私の目を覆った。彼が一言、二言何かを呟く。腕を軋ませながら私は無理やり霊の口唇を破って、彼の手の甲に釘を突き刺す。でも間に合わない。
私の頭の中に黒々としたものが広がった。
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ハイブランドの店内は規則正しく整頓されていて、生活感がまるでない。決して多くはない商品は、私を浮き立たせて落ち着かなくさせる。
『ドラッグもキまらないし、タバコも酒も全然、縋らせてくれない。だから、わたしは憂鬱になったら、車を呼んでティファニーに行くの。そうすると途端に気分が落ち着くの』
とある娼婦の独白だ。私は違うけど。
並べられたマネキンはモノトーンで統一されており、ご丁寧によそ行きの笑みを浮かべていた。うっかり生身の人間と間違えてしまいそうなくらい精巧に造られている。夜中にでも動き出しそうだ。
店員が示した金額が予想外に少なくて、財布をあさる手が止まった。インテリアの様に本棚の中に鎮座した商品は、どれもこれも値札が貼られてないから正確な値段はわからない。どうやら私はシーズン終わりの入れ替え期に来たようだった。型が落ちる季節の変わり目。私が目をつけていたものはとっくに流行遅れになっていた。あんなに欲しかったはずのショルダーが急に褪せて見える。
───買うけどな。
目についた新作の腕時計も会計にねじ込んで、色彩を無理やり蘇らせた。
店員は流石に顔色は変えないものの明らかに戸惑っていた。トレーには私が出した現金と男が出したクレカが仲良く並んでいる。
「───如何なさいますか?」
「現金で」「一括で」
ハリボテのようだ。この生活をおくっていることが。小さな液晶端末の向こう側の世界はあっけなく手に入った。東京の空は狭くてどこまでも自由だ。
モノトーンで統一された紙袋は過剰包装で恐ろしく嵩張る。あと数軒行きたい店がある。焦らなくても欲しいものは逃げない。でも、今行かないと逃げてしまう気がする。急がないと欲しい気持ちが逃げてしまう。
「......虎杖でも呼ぶか」
寮から出る時、彼はコンビニを意味もなくうろついていた。きっとまだうろついているだろう。
アイコンをタップして通話画面を開く。1コール、2コール。男の手が私から端末を取り上げた。私は振り向かないまま、Cのロゴが踊る紙袋を男の胸ぐらに叩きつけた。
「もしかしてストーカーしてる?」
「もちろん」
夏油は糸目を更に細めてコール音を切った。この間、結局虎杖は電話に出なかった。すかさず端末を奪い返す。
「次はどこ?」
「は?ポチったが?買い物する気が失せるのよ。夏油先輩がいると」
高速で端末をフリックする。代金引換を迷わず選択して、日時指定のページに進む。
先に支払われてしまったことがトラウマになった。奢られるのは今回が初めてじゃない。
未成年だからローンは組めない。クレカの審査もなかなか通らない。性に合わないが仕方なく貯めた金で綺麗な物を買いたかった。
「可愛い後輩を喜ばせたかっただけだよ」
「喜んでいい限度を超えてるのよ。それくらいはあたしにもわかる」
金を払ってもらう側の人間はそれなりの“人間”だと思う───お金の代償は時間だったり、年齢だったり───金銭に換えられないものを犠牲にできる人。
私はどうだろう?そう告げると夏油は態とらしく困った声色を出した。
「君の思想は面白いね。私は一々そこまで考えなかったよ」
「特級って吐くほど金持ちなのね」
「ああ、使い道がないんだ。自分のためだけに使うのは気が引ける」
「じゃあタワマンからバラ撒けば?」
「いいね。野薔薇も一緒にやろうか」
「冗談」
美々子と菜々子に使ってあげて。
初めて会った時、2つの小さな顔は怪我で潰れていた。頻繁に会うことはないが夏油のもとで楽しく暮らしているんだろう。寮の別館から明るい声が時折聞こえてくる。
地図にも載らない村には、治外法権が運びる。田舎特有のそれを私は嫌というほど身にしみている。一歩間違えれば私も彼女たちと同じ運命を辿っていたかもしれない。そう思うと他人事とは思えなかった。
2人の庇護者をそうそう邪険にできない理由だった。
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夜の形をした帳は昼との境目を曖昧にする。
暗い雨の中に閉じ込められた魚たちは共食いを始めた。盛大な悪あがき。血肉がアスファルトに叩きつけられ、奇妙な旋律を描く。傘を放り出していたから、制服は瞬く間に赤く汚れた。
殺戮は思いの外、早く終わり、骨だけとなった彼等は巨大な白骨死体となって、こちらに向き直った。
「生け捕りにして博物館とかに持っていけばバズらないかしら」
「仮に私が職員だとして、いらないな。こんなひ弱な標本は」
夏油が手持の呪霊を嗾けると、魚は帳の外へ逃れようと必死にヒレを瞬かせた。
夜の水槽はこんな風なんだろうか。観客が2人だけの特等席。祓うのが億劫なほどに、ほのかに光る魚たちは鮮やかだった。
雨に濡れた路地裏は靴音が鈍く響く
彼と2人、こうして肩を並べるのは何度目だろう。私が生きているうちにあと何回足並みを合わせるのだろう。
「雑魚は野薔薇に任せるよ」
「......サボる気?」
「悟じゃあるまいし。可愛い子には旅をさせろって言うだろ?私は呪詛師を叩きたいんだ」
「あっそ。喩えが間違ってるわよ。あたしは夏油先輩の娘じゃないけど」
ホルダーから釘を取り出す。そんなに侮られるほど弱くはない、そう言外に示したかった。
けれど、夏油が雑魚と称した呪霊を片付けられる確信はない。特級のいう雑魚の基準は軒並みバグっている。自分より弱ければみんなそれだ。私にとっては、この魚たちは手強い。頭上を尾鰭が過ぎるたびに、鱗の一枚一枚に呪力が隙間なく込められているとわかる。
後ろに向かってバイバイと手を振りながら彼の姿が消えた。すぐに呪詛師の悲鳴が聞こえる。
ぐずぐずしている暇はなさそうだ。私は息づくと身構える。空間に釘を散らした。
「───共鳴り」
私の喉笛に喰らい付いた魚は、奇妙に呻き臓物を撒き散らした。薄目で見ると大型の和鋏が宙に浮いていた。夏油に操術されたもの。
「......にしても、タイミング良いな」
口にしてみると、思わずため息が漏れた。
呪詛師の遺体は呪霊が運んできた。夏油は指一本触れたくないと言いたげに距離を開けて戻ってきた。
夏油の[[rb:視線 > 態度]]は相手によって温度が変わる。私への視線は何度と言えばいいのだろう。熱くもないし、かといって冷たくもない。
「好きでもない女を助けて楽しい?」
「普通かな」
「あっそう。私も普通だわ。......助けてくれてありがとう夏油センパイ」
「野薔薇が“こっち側”で良かったよ」
彼はつまらなそうに黒々とした球体を弄ぶ。
差別主義者はどの界隈にもいる。珍しいことではない。そういう私だって博愛主義ではない。いつだって取捨選択をしている。“椅子”にいない人間のことまで、ご丁寧に構っていられない。
だけど、ここまで強い[[rb:人間 > レイシスト]]に出会ったのははじめてだった。彼は物理的にも立場的にもとてつもなく強い。それを思い知らされる度、私は嫌悪感を抱く。仮に私が呪術師でなかったら?才能がなかったら?私が私である以上、無意味な詮索だと知っているが問わずにはいられない。
殺す相手が変わるだけじゃない?
柄が軋むほど強く握りしめる。だからなんだって言うんだ。黙れ。
夏油は取り込むと言ったものの、球体をげんなりとした様子で見つめている。子供が風邪薬を無理やり飲まされる様な浮かない顔。
「呪霊って見るからに不味そうね」
「味が良かったら皆がこぞって狩るだろうね。野薔薇は知りたい?」
意図が汲めず、返答が遅れた。
狭まる視界。次に何をされるのか、気づいた時には呼吸を奪われていた。ふざけたように唇同士を重ねて、けれど、すぐに後悔した。押し寄せてくる不快感に耐えられず、思いっきり嘔吐いた。生乾きの雑巾を口に突っ込まれたような味がして、それが私のファーストキスの味になってしまった。
夏油は私に何の感情も抱いていないと、わかってしまった。
......この言い方は違う。私は夏油に1ミリだって何かを期待していた訳じゃない。夏油は本命相手に軽々しく手を出す人間ではない。大切なものは家族と称した檻に閉じ込めて、雁字搦めに監禁して仕舞うような人間だ。
「最悪ッ......何この味......二重の意味で訴えんぞ!未成年に手ぇ出してただで済むと思ってんのか?!」
「私だって未成年だよ」
「嘘つけ!!」
「酷い味だと思わないか?私が独りで味わうのは勿体ないと思うんだ」
私はどんな表情をしているのか、彼はどんな表情をしているのか、暗がりのせいで窺い知ることはできない。私の喉は悪態を吐きながらも、どうにか胃内容物を晒すことを堪えている。毎回毎回、これを味わっていたのか。狂いたくもなる味だ。正気じゃいられない。
私は夏油を殴る代わりに白骨死体の残骸を踵で抉った。この男は苦手だ。愛想よく微笑まれても、蛇に睨まれたような居心地の悪さがある。
靴が汚れるよ、そう言いながら彼は私の手を取って無理やり揺らした。身長差があるせいで、ぶら下がるような形になる。不格好なダンス。
「わがままかよ。強いってだけであんたのわがままとか差別思想が許されて羨ましい」
「野薔薇、差別は必要だよ。区別と言い換えても良い」
───伏黒も無口で誤解されやすい性格だ。誰に対しても壁を作っているが、それは警戒心から来るもので一度打ち解けてしまえばなかなか面白いところもある。
虎杖は例外だ。アイツはコミュ力お化けだから。こちらが壁を作ったところでブチ壊してくる。五条は規格外。夏油は壁を作っているのかすらわからない。胡散臭い笑顔の裏で何を考えているんだか。
夏油の顔を掴むと無理やりこちらに引き寄せる。面食らった様子が可笑しい。わずかに開いた唇に噛みついた。生暖かいものが肌の間を伝った。
味わい慣れた血の味のおかげで少しは舌の痺れが治まった。
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夏油の掌が私の目を覆った。
「好きでもなかったけど、嫌いでもなかったよ......さよなら野薔薇」
一語一句、あたしの嫌いな言葉だった。
───私の目は、私の耳はありもしないものを魅せられている。
気を抜いた瞬間、視界が思い出に犯される。繰り返し鼓膜に響くのは彼の声だった。
恋人だってこんな執念深いことはしない。
ひとりさせるからと、寂しくないようにと言って、お節介にも彼が残していった[[rb:術 > すべ]]だった。さよならだとわかっていたのに、引き止めることに夢中で、夏油なりの好意に気づかない振りをした私を、彼はどう思っていたのか。
独りになると、彼が“いた”ときの事を思い出す。
好きではなかった。かといって嫌いでもなかった。セフレだったと言えばそれまでの話だが、けれど、彼は私が故郷と名付けた椅子に座っていた。
昨日のことのように思う。結局、田舎者なんだ、私は。高層ビルを見上げるたびに憧憬が先走るんだから。同じように、彼を見上げるたびに......。
故郷はとうに捨てた。故郷と名付けた椅子が頭の中にあるからそれで良い、帰りたいと思わないのだから必要ない。
小さな島国のこれまた小さな村に生まれた私は、読み書きよりも先に常識というものを覚えた。その常識とやらは、世間一般の常識というものではなく、そこの村でしか通用しない類のひどく偏屈なもの。
今も昔も私は早熟ではあったが成熟はしていなかったんだ。都会に来さえすれば世界が広がると信じていたのだから。ただの一分も疑わなかったのだから。
幸か不幸か果たしてそれは正しかった。
スクランブル交差点は人が多いせいか、人に混じって幽霊がいるらしい。そんなに人恋しいのか、そんなに寂しいのか。
……そういう私も、交差点の幽霊とたいして変わりないのだろう。
きっと彼が東京にいないのだから、世界中探したってどこにもいないのだろう。そんなこと知っている。
それでも、誰に向かってでもなく、行く当てもなく呟いてみる。
ねえ、そこにいるなら出てきてくれない?隠れんぼは嫌いなのよ。
雑踏が動き出してはじめて、自分が横断歩道の前にいたことに気づく。私は誰に会おうとしていたんだ。彼は待ち合わせなんかしなくても、いつも私を迎えにきてくれていたのに。
いつになってもあの言葉が忘れられないのは、もう過去のことだから、なのか、それとも過去だから忘れられないのか。
残穢みたいね、どうしようもないくらいに。ほんとにやっかいだ。
思い出ばかりが残る渋谷だった。
憧れていたブランドを見かけ、ショーウィンドウ越しに覗いてみるが、買う気が起きない。
丁寧に陳列された黒髪のマネキンは、無機質な笑顔を浮かべていて感情が読み取れない。笑顔は一番の無表情だと今更気づいた。
雑踏はいつのまにか動きを止めていた。皆がぽかんと口を開けて空を見上げている。私はつられて見上げることはせず、通行人たちの表情をぼんやりと観察する。大型パネルを見ているにしては視線が定まっていない。私はいつでも動けるよう、腰につけたホルダーに手を掛けた。
すると、風に煽られながら薄墨色の紙が落ちてきた。思わず手近なビルを仰ぎ見る。
「......冗談でしょ」
咄嗟に掴んだ紙幣は肖像画に目隠しが施されていた。悪趣味。私よりむしろ五条が喜びそうな光景だ。
バラ撒かれ続けるそれを捨てることもできず、かといって仕舞うこともできず、馬鹿みたいに立ち尽くしたまま、私は一万円札を見つめた。
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その日、奇妙な術を使う人間を捕らえたと夏油は耳にした。門の外は慌ただしく猿が駆け回っている。耳障りだと思う。汚い猿が数匹死んだところで代わりはいくらでもいる。
特に驚きもなく夏油は頷いた。したり顔でやってきた猿は拍子抜けした表情で、けれどめげることもなくつまらない口上を述べた。彼は全く持って興味がなかった。呪術師か、呪詛師かはたまた呪霊か。まあ誰かしらは乗り込んでくるかもしれないと予想はしていたからだ。
こちらに、と案内された部屋の中で女が椅子に縛りつけられていた。
夏油は様子を伺う。見知らぬ人間だった。
若い女だ。例え術式がなくとも、適当に情けをかけて言いくるめれば従うだろう。それから風俗にでも沈めれば多少は金になる。
───災難でしたね。うちの幹部が失礼をしたようで、
言いながら夏油は女に近寄ると、目線を合わせようと身をかがめる。部屋の暗がりには呪霊を忍ばせることも忘れない。服から覗く肌の至る所に打撲の跡があった。女はうなだれたまま荒く呼吸している。拷問されたと言われても納得がいくほどの有り様だ。猿どもは全く容赦がない。彼はため息をついた。せっかくの才能が使い物にならなくなったらどうしてくれる。
女は乞うこともなく、静かに座している。
夏油は遅まきながら疑問に気づく。拉致され暴行されたというのに、女のこの落ち着き様はなんだ?本当に単身で乗り込んできたのか?
思考は突然湧いた痛みによって、無理やり中断させられた。赤いピンヒールの先が足袋にめり込んでいた。血管が破れ、体液が勢い良く溢れ出す。
女は何事か呟いた。懐かしい声だった。
無理やり女に両手を掴まれ、揺さぶられる。不格好なワルツ。
「あたしの男を返せ」
頭の中に黒いものが広がる。夏油は動けない。彼女の術式はよく知っている。
部屋の外で爆音が響いていた。待ちに待った感動の再会だ。泣きそうだ。女を喰い殺すのが先か、夏油の心臓が爆ぜるのが先か。
独眼の女はこちらを見てにたりと嗤った。
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