---
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
[chapter:清搔き雀]
鳥屋につく。
鶏には成れない。種は身を結ばないから。
鷹にも成れない。夜目がきくのは夜鷹という。
鳥屋には鷹にも、鶏にも成れなかった雀がいた。
卵から孵ったばかりのそれは小さく羽ばたき、女の皮膚を啄んだ。
鼻が布団に落ちると、それを合図にして堰を切ったように赤白い膿がぼたぼたと零れ、肉色の花が狂い咲いた。鼻がついていた孔に指を這わせるが、梅の毒は神経を犯し、痛むことはなかった。
彼女は垢だらけの包帯を顔の中心に巻きつける。顔に開いた穴は、増えるばかりだ。まず片目が腐り、周りの骨が溶けた。ついで鼻が落ちた。きっと次は口が捥げる。
「お前......それ......」
「───いい見世モンだろ?」
デンジは顔を、体を、背けて逃げようとしたが、アキに抱きしめられて動きを封じられた。
「アンタにまで病気が移っちまう。さっさと失せろよ」
涙は枯れた。けれど目からは透明な血が溢れる。
アキは包帯を毟り取り、孔に口をつけて膿を啜った。
「これで共犯だろ……1人にはさせねえから、俺もデンジと一緒に死んでやるよ」
止めてくれと身をよじるが、アキの舌は這いずり回る。梅の毒に即効性はない。ひどく遅行性だ。何年も何十年もかけてゆっくり身体を蝕む。
だから、沈めよう。
春に死んだ人は、春の花になる。
凡庸で凡才で、俺はそんな人生に満足していたのに。
そう思いながらも早川アキは原稿用紙を赤字で線引きしていく。
出版社に勤めて早いもので3年が経った。学生気分は頭のどこかで残るものの、社会人としてどうにか働いている。
アキは学生時代はもっぱら剣道に打ち込んでいたから、てっきり武道採用で警察官にでもなると周囲は信じ込んでいたし、当の本人もそのつもりでいた。(なお、少しばかり小説を書いて文芸雑誌に投稿したことはなかったことにしたい過去の一つだった。理由は単純で、人数が足りないから兼部してくれと文芸部に泣きつかれ、渋々入部したためであった。まさか執筆させられるとは夢にも思わなかった。非常に不本意だった)
しかしながら、不幸なことに試合中の怪我で左腕が使い物にならなくなった。利き腕でなかったことは不幸中の幸いで、日常生活には支障をきたすことはなかったが、選手生命と進路はきれいさっぱり絶たれた。
志破れて山河あり。アキ自身は負傷することも想定内だったからさほど落ち込まなかった。けれど、アキの試合を毎回見に来て、楽しそうに応援していた弟の落ち込み様が酷かった。警察官には成れないが、他種の公務員には成れる。なぜかアキの方がタイヨウを励ましていた。
「公務員試験っていちいちめんどくさいし大変だよ?アキくんさあ、やりたい事とかないんだったらうちの会社に来ない?編集部でさ、良さげな後輩いたら連れてくるように言われてるんだよね。剣道部なら体力も忍耐力もあるだろうってことらしいよ。単純で笑えるよね!」
剣道部で散々世話になった姫野にそう誘われて、断る理由も、断らない理由も特になかった。姫野曰く安定しているのは公務員で、給料がいいのは会社員。
試験を一発で合格できる保証はどこにもない。いい歳していつまでも親の厄介者になるわけにはいかない。アキは考えを改め、有り難く今の会社に入った。
会社勤めと剣道部がどう関係あるのかは深く考えなかった。体力だとか忍耐力はどの職種でも必要だから、くらいには考えていたけれど。
新人の仕事は第一に仕事に慣れること、第二に担当作家に顔を覚えてもらうこと。これだけで良い。
新人教育係は脳をアルコールで溶かしながらそう説いた。編集者といえば、作家と一緒に作品を作り上げて、完成したそれを世間に出すのが仕事なんじゃないか?という青臭い理想論は、ものの3ヶ月で消え失せた。そんな神業は新人にはできない。それどころか顔を覚えてもらうことだって、原稿をもらうことだって、なかなかできなかった。小説家の先生とやらは異常に繊細だったのだ。
締め切りに間に合わない!もう書けない!と言って泣きだし、間に合わないから逃げますと言って脱走し、才能ないからやめますと言って本当に連載をやめてしまったり。アキはその都度なだめて、走り回って連れ戻し、10以上歳の離れた相手を時には叱って、なんとか完成した原稿を受け取った。
もはや編集者じゃなくて問題児を抱えた小学校の先生だ。
今回の早川アキの人生は笑っちゃうくらい平凡な人生だった。きっと小説の題材になんてならないくらいに。
とはいえ仕事の性質上、問題はどうしたって起こる。
事の発端は担当していた俳優が失踪したことだった。
恋愛映画浪漫映画。ひとつ飛んで青春映画。出演した映画の全てが連日満員御礼となる。この俳優の名前は〇〇と言った。朗々とした声に、鼻筋が通った精悍な顔立ちは銀幕によく映えた。加えて人格者でもあった。人気絶頂ともなれば不遜な態度となる輩も多いが、彼のざっくばらんとした性格は、下積み時代からなんら変わらなかった。なんでも幼少期にかなり苦労したとか。天は二物どころか三物も四物も与えるらしい。
そんな今をときめく映画俳優〇〇は半自叙伝的な小説を書いていた。それは間も無く封切りとなる彼主演の新作映画の公開に合わせて出版される、はずだった。
「────マキマさん、〇〇がトびました……家まで行ってきます」
「わかった。念のため撮影所にも連絡しておくね。最悪の場合も考えておこう」
彼と2、3日連絡が取れないことはよくあった。それでも律儀に、撮影が長引いて家に帰れなかったと後から電話や手紙が折り返された。それが、家にも帰らない。恋人の元にもいない。遊郭に入り浸っている噂も聞かない。
既存作家の脱走癖に慣れていたアキは、彼についてもまあこんなこともあるだろう。そのうち帰ってくるだろうくらいに捉えていたし、周囲の反応も概ね似ていた。手だれが揃う編集部には、大騒ぎする人もおらず静かだった。
───息子が失踪しました。
〇〇の母親の静かな声でその静寂が破られた。
『誰も理想を望むな』
血飛沫じみた墨汁が壁一面を汚していた。
失踪した彼はギリギリまで藻搔いていた。筆跡で、部屋の荒れ具合で、そう読みとれた。
1人の人間として向き合ってくれ。少しくらい考えてくれ。好きなようにさせてくれ。
早川アキは文字通り頭を抱えた。こんなに追いつめられるくらいなら、もっと前に相談してくれたら良かったのに。こちらとしてもいくらでも(とは断言できないまでも)手の打ちようがあった。本の発売は映画の公開に合わせているから、多大なる人件費と宣伝費が掛けられている。莫大な負債を、残された家族に抱え込ませる気か。
たかが数字じゃない。カネはあっけなく人を殺すんだぞ。
「この……この度は息子が御迷惑をおかけしましたこと…本当に、本当に申し訳なく…」
「やめて下さい。映画も本もこちらの方でなんとかします。〇〇さんを無事に見つけることが大切です」
〇〇の母親はやはりというべきか、年老いてなお美貌を保っていた。『僕の母親は元々芸者でさ、唄も踊りも上手いんだ。本が出来上がったらさ、妓楼にでも遊びに行こうよ。早川くん、行ったことある?吉原もいいな。案内するからさ』と嬉しそうに〇〇は語っていたっけ。
しかし、その相貌もロクに眠っていないのだろう、青ざめ大いにやつれていた。
「迷惑ばかりおかけして……下げる頭もございません。どうぞ、資料になりそうな物はなんでも持っていってください。写真を撮っていただいても構いません」
ここまでひと息で言うと、彼女は不自然に言葉を切った。それに気づいたアキが続けるように先を促すと、おずおずといった様子で母親は口を開いた。
「警察への届け出は......今しばらく控えた方がよろしいでしょうか」
「私は一会社員ですので、断言できませんが
報道規制はかかるかと思います。撮影会社とご相談いただいた方が…」
「ええ、ええ。承知致しました」
この号外ネタは自分が先に持ち帰るべきだろうか。優秀な記者は自ら話題を作り出すという。
ネタは雑談から引き出していけ、でもタネは女の胎にでも出させとけ、という先輩の下卑た教えが、改めて身にしみた。
『───誰も理想を望むな。宗教染みた成功者の影が自分とだぶる。喜ばしくなんか、ない。毎日失敗ばかりだ』
アキは〇〇がよく使っていた言い回しを真似て筆を走らせる。
『その証拠に、満足に仕事も選べない。ほら、何もできない。独りじゃなにもできないんだ。僕以外の誰かによって生み出されたものだけが他人に渡り、はじめて産声をあげる』
脳内に疼く感覚を掴んで紙の上に落としていった。
いつの間にか〇〇とアキの思考は共鳴していた。
産声を上げる前の胎児たち、どうか幸せに。俺(僕)よりは幸せに。
---------
「おめでとう!!代作者早川先生!!!売り上げ鰻登りらしいな!」
「おはよう御座います野茂さん。俺は冷や汗モンでしたけど、クビが繋がったんなら良かったです」
結論からいうと、〇〇は見つからなかった。彼は永遠に喪われてしまった。
川辺に打ち上がった遺体は水分をたっぷり含んで、かつての爽やかな美貌のカケラもなかったという。
当然、葬儀は行われない。彼は概念として生かされたままで映画は封切りとなり、本はめでたく出版された。
母親からこっそり送られてきた手紙には、喟然とした文章が至極きれいに綴られていた。
────息子は早川さんに何より感謝しておりました。〇〇を親身に支えてくださいまして──────
アキは“感謝”の文字に爪を食い込ませた。
〇〇は情が薄いようにも見えなかった。かといって情が厚いようにも見えなかった。
人気者の彼のことだ、友達だって恋人だって抱え切れないほどいただろう。なのにどうして少しばかり一緒に仕事をしただけの自分に、そこまで縋るんだ。なにが彼を殺したんだ。
アキの様々な葛藤を他所に、重版出来の声が今日も今日とて鳴り響く。
---------
女の首元に顔を埋めると安物の香が薫った。
「───何度来たって変わんねえよ。悪いこたあ言わねえ、アンタ帰れよ」
「うるせえな」
女の胸元から伸びた縄を見て、アキはとっさに目を逸らした。埋め込まれてそう日が経っていないのか、赤黒い肉芽が生々しかった。
「遣手になんて言われたか知らねえけど、ここはよぉ......趣味のわりぃオッさんしか来ねえ、拷問部屋みてえな見世なんだよ。アンタは歳くってもねえし、趣味悪くもないだろ?もっとキレイなとこに行けよ......それかホントに仕事で来てんのか?」
「......そうだ」
嘘つけ。
言い放ち、女郎は半裸のまま部屋をうろつく。
「ヤんねーなら俺寝てもいい?腹減って動けねえ。客がいる時は腹出ねえよーにって食わせてもらえねえんだ......待てよ客がいなくても食ってねえじゃん俺」
「こっちは客だぞ、少しは空気読めよ。あと服着ろよ」
〇〇が遺した文章には妓楼の女について書かれてあった。もちろん出版にあたってその部分は削った。本人もそうとわかっていたのか、たまたま思い出したから書いておくと言った風で、女のことは詳しくは記されていなかった。
ただならぬ仲であったのだろう、香典代わりに───上司に急かされたから赴いただけで、アキは全く乗り気ではなかったが───本を携えて見当をつけていた見世を訪れた。
『アイツ、死んだんだろ?』
アキを見て、本を見て女は言った。
公表はしていない。どこから漏れたんだ。アキはとっさに違うと答えた。けれど、声は力なく響いた。女はアキの言葉を否定した。
是非を問う余裕はアキにはなかった。彼は友人だったのだから、だから彼のためにここまで来た。
本を手渡したが、女は文字が読めないと言った。半ば無理やり押し付けると、受け取ったはいいが開こうともしなかった。
『寂しい寂しいって泣きながら[[rb:俺 > わたし]]んこと抱いてたんだ』
自分が自分でいられないっていつも泣いてたぜ。どういうことだったんだろうな。おかしいよな、恋人だって金だってたくさん持ってるのに。羨ましいぜ。なのに、こんなとこまで来て、俺みてえな汚い女に縋るなんてよ。
アキが女に名を問うと不思議な名を言い返した。漢字は?と聞くと、女はカタカナだと言った。
『そう。デンジ、な。アンタは?』
『アキ』
『......かん、じは?』
『カタカナ』
『んッ.....おんなじかよ』
安物の香はなんだかイラつきを悪化させた。
「食いもん持ってねえの?」
「持ってねえよ」
生前の〇〇の様子が知りたくて、アキはデンジの見世に通っているが、肝心なことは何一つわからないままだった。彼が死んでから随分月日が経つが、ひょっこり顔を出すんじゃないかと頭のどこかで思っている。
昔の馴染み客が死んだところで、商売女にはどうでもいいことらしい。それより自分の空腹の方が重要らしかった。
「精液飲ませてくんねえ?」
「......まじでやめろ」
「〇〇っつー名前だったってのもさっき知ったんだぜ。ロクに覚えてねえ」
「デンジの記憶力をアテにした俺が悪いって言いてえんだろ」
「先に言っといてくれりゃあ覚えてたぜ。コイツ死ぬかもしれねえから、よく見とけって」
「死ぬってわかってる奴なんていない」
「怒んなよ、悪いと思ってるから俺ん記憶をひっくり返してんだろ」
デンジは敷物の上にアキを押し倒すと、首を傾げて口に吸い付いてきた。色気も何もない、ただの接触だった。デンジは空腹のせいかすぐに呼吸が荒くなる。吐息の中でアキの舌を甘噛みした。
「抱いてくれたら思い出すかもな」
「俺に被虐趣味はないし、この状況で女抱けるほど器用じゃねえよ」
「どんな状況なら良いんだよ?仕事になんねえよ。あとで怒られんの俺だぜ?いいから抱け」
「金やるからやめろ」
「金なんざヤクザに全部持ってかれんだろ!それより肉よこせ」
糸切り歯がアキの肉を抉った。驚きと痛みでとっさに殴りつける。面白いくらいに血が飛び散った。女の体は想像以上に柔らかかった。アキが自分の行いに後悔する間もなく、拳が飛んできた。しばし無言のまま殴り合う。薄い壁越しにうるさいと怒声が飛んできた。2人は睨み合ったまま固まる。
先に視線を外したのはデンジだった。
彼女はのろのろと箪笥から端切れを取り出して、顔に巻き付けた。
「商売道具壊すなよなぁ。借金死ぬほどあんだから稼ぎ落ちたらどーすんだよ」
「俺からとればいいだろ」
「あーはいはい。ついでに身請けしてくんねえ?借金は臓器売ってどうにかすっけど、どうにかした後身体しんどいっつーか怠くなるって聞いてよぉ」
「気軽に言うんじゃねえ」
きっとデンジの借金よりデンジ自身の値段の方が安い。かなり通い詰めているが、デンジの体に怪我がなかったことは無い。彼女は安い値段でぞんざいに扱われている。
商品に感情なんてない。だから客が何をしたっていい。当たり前のように彼女は嘯いた。
殴り返してきたのは少なからずアキを好いているから。
「......アイツに自分が死んだら泣いてくれって言われてたんだった。殴られたせいで思い出したぜ。アキとアイツって似てんだな。俺は泣けねえから......代わりにアキが泣いてくれよ」
傍らに置いた本の表紙を撫でるばかりで、デンジはこちらに見向きもしない。
アキは自分の視界が滲んでいる理由にようやく気づいた。
身近な死は死を呼び寄せるらしい。不幸なことは連鎖する。
鼻が布団に落ちると、それを合図にして堰を切ったように赤白い膿がぼたぼたと零れ、肉色の花が狂い咲いた。鼻がついていた孔に指を這わせるが梅の毒は神経を犯し、痛むことはなかった。彼女は垢だらけの包帯を顔の中心に巻きつける。顔に開いた穴は、増えるばかりだ。まず片目が腐り、周りの骨が溶けた。ついで鼻が落ちた。きっと次は口が捥げる。
「お前…それ……」
「───いい見世モンだろ?」
デンジは顔を、体を、背けて逃げようとしたが、アキに抱きしめられて動きを封じられた。
「アンタにまで病気が移っちまう。さっさと失せろよ」
涙は枯れた。けれど目からは透明な血が溢れる。
アキは包帯を毟り取り、孔に口をつけて膿を啜った。どの怪我が原因だろうか。いつから患っていたのか。デンジは口を開けば抱け抱けとうるさいくせに、いざ引き寄せると拒んでいたのは、こういうことか。
「これで共犯だろ。……1人にはさせねえから、俺もデンジと一緒に死んでやるよ」
止めてくれと身をよじるが、アキの舌は這いずり回る。梅の毒に即効性はない。ひどく遅行性だ。何年も何十年もかけてゆっくり身体を蝕む。
惚れた男に抱かせないでおいて良かったと、それだけが救いだったのに。
---------
川は水面に黒い布を広げて、凪いでいた。行き着いた先は幸せな結末でも、惨劇の結末でもなく、ありふれた心中だった。
今世では添い遂げることも別れることもできなかったが、このまま泡となって消えることができるのなら、成就したも同然だ。
心中立てなんかいらねえから口を吸ってくれ。
そう言ってせがむと、アキは躊躇うそぶりを見せた。
手立てはいるだろ
今があるなら、俺はそれでいいんだよ
デンジが舌を出して喘いでみせると、ようやくアキは口の端から溢れた唾液を啜り舐めた。
それからデンジを抱え上げ、脚の付け根を自らの腰に招くと入水した。粘膜がこすれ合う感触にデンジは喉を震わせた。
惚れた男に抱かれると、体は勝手に動く。そんなこと今まで知らなかった。
生温い水の中で唇が触れ合った。せびるように角度を変えて、唇が舌でこじ開けられる。唾液と空気が口内に流れ込み、肺腑は徐々に沈んでいく。水中では音が聞こえない。目も耳も奪われて、心拍だけが響く。
それじゃあ、来世で。
--------
大正__年__月。玉川のほとりに男女2人の遺体が打ち上がった。遺体の損傷は激しく、ともすれば塵の塊りにも見えた。皮膚はただれ、川縁で削り取られた跡が窺えた。駆けつけた警官たちが水死体を引き上げると、それぞれの眼孔からぼたりと鮒がこぼれ落ち、その場にのたうちまわった。まだ年若い巡査は顔を背け、途端に引きつけを起こしたように嘔吐した。
2つの手は固く結びつき、溶け合って1つの肉の塊となっていた。
品川心中、曽根崎心中、六本木心中、ワンピース心中。心中沙汰を題材にした娯楽が多いのはきっと、みな悲しい恋に焦がれているからだ。
それはそうと、心中した男女は、来世では兄妹に生まれ変わるらしい。
[newpage]
[chapter:春に沈める]
春の明るい日差しは憂鬱を悪化させる。
「バカがうつるからデンジとは口きかねえ。ひ弱がうつるからタイヨウとも話したくねえ」
「「えッ!!??」」
「アキ兄ひでえ!?オウボウだぁああ鬼っアクマ!!母さん母さんッお兄ちゃんがイジワル言う!!」
「うるせえ!!騒ぐんじゃねえ!いっつも俺ん邪魔ばっかしやがって!!!」
どうにかこうにか、弟と妹を部屋から締め出した。アキは扉に背を預け、そのままずるずると床に腰を下ろした。
いい加減にしろよ。家じゃ本も読めねえのかよ。
気が済むまでぶつぶつと悪口を呟いた。それから、机に置いた本を急いで開く。
心中した男女は、来世では兄妹に生まれ変わる。
いかにも胡散臭い本だった。それでも先程の文章が頭から消えないのは心当たりがあるからだ。
「マジかよ……」
記憶の端に思い浮かぶのは妹によく似た女だった。アキは舐め合った肌の味までも覚えていた。
───最期にアンタに会えてよかった……なあ、未練なんてないから、もういいから、はやく殺してくれよ
『親子、夫婦、兄弟、兄妹、姉妹、双子。これ以外にも固有名詞を挙げだすとキリがない。面倒だから“きょうだい”だとか“かぞく”とでも示しておくことにしよう。“きょうだい”は必然的に顔が似る。似ない“きょうだい”もいるけれど。それでもやはり、同じ家に住んで同じ食事をして同じ生活をしていると、必然的に似てくるものらしい』
本当にそうなのか?家族といえども別の人間だ。適当なこと言って結論付けてんじゃねえよ。
アキには反論したいことが山ほどあった。作者は誰なのかと本をひっくり返すが、まったく知らない名前が記されていた。ついでにいうと題名の漢字も間違えているし、いかにもオカルト染みている。こんな本、借りてくるんじゃなかった。
アキは宇宙の本が読みたかった。学校の図書館で目をつけていた本を借りたかったのだが、人気があるらしく、アキが行ったときにはすでに無かった。
まあ、でも、なるほど。元が敵同士だったのなら、相入れない面があることや、漠然とした苛立ちを覚えることも腑に落ちる。信憑性の有無はともかくとして、こういう考え方は良いかもしれないとアキは思った。分かり合えないことは人間の性なのだから。
2000年代半ばを過ぎて割と科学が進んでも、来世だの前世だのに囚われているのは、みんな揃って現状に満足していないからだろう。
少しばかりマセていたアキは無理やり自分を納得させた。
暴言を吐きつつも妹たちの面倒を見るのは嫌いではない。ただ、いつも胸騒ぎがした。
服に隠された肌の色や体の線。少し低めの体温。
それらを認識する度に静脈が沸き立つような、居ても立っても居られないような、そんな衝動にも似た感情が湧き上がる。
────劣情だと気付くには、まだ早かった。
「ちょっとお兄ちゃん!」
入試の直前期、関係代名詞と戦っている最中、いつのまにか部屋に乱入してきた母親によって、イヤホンをむしり取られた。一瞬でα波は消し飛んだ。
「......なんか用?」
「さっきから呼んでるのに返事もしないで!まったく!デンジちゃん風邪ひいて寝てるんだから、ちょっとみててあげてよ。母さんスーパーに買い物行きたいの。……あ、そうだ今日の夕飯なに食べたい?」
「なんでもいい」
なんでもいいじゃ困るわ、なおも言いつのる母をよそにアキはシャーペンを投げ出して、デンジの部屋に駆け込んだ。
いつから寝込んでたんだ。まったく知らなかった。
暑いのかそれとも単に寝相が悪いのか、デンジにかかっている毛布は半分くらいずり落ちていた。
「アキ兄……ノド痛え…」
「バカは風邪ひかねえっていうけどバカも風邪ひくんだな」
「わかってねえな…バカはカゼひいても、カゼひいたことに気づかねえんだよ」
水差しはほぼカラになっていたので、アキは一度台所に向かう。いくつか氷を入れてから生ぬるい水道水で容器を満たした。
こうしてまともにデンジの顔を見たのは、こうして話しをするのはいつぶりだろう。記憶にあるデンジより、少しだけ大人びている気がする。一緒に暮らしているが、いつもすれ違っていた。物理的にも比喩的にも。もちろん意図的にアキがそうしたのだけれど。
部屋に戻ると、デンジはベッドの中で起き上がりぼんやりと壁を見つめていた。アキを見とめるとふらふらするし、だりいと言って笑った。
「なんで笑ってんだ。気味悪いな…ちゃんと寝てろよ」
「今日は俺と話してくれんだな?」
「病人相手にシカトしねえよ」
デンジの首元まで毛布を引き上げようとしてアキの手は止まった。考えてみればあと何回デンジと会話できるんだろう。東京の高校に行ってしまえば、そう気軽に帰省出来なくなる。
だから、帰ってくるつもりはなかった。下手したら一生。
数週間もせずに受験は始まる。そして苦もなく受かるはずだ。確実に滑り込めるところだけを選んだのだから。これがきっと、デンジとの最後の会話だ。
「入学したらろくに帰って来れなくなる。俺が出ていくまでには治せよ」
「東京だっけ?アキは遠いとこに行っちまうな。元気でやれよ」
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
デンジは眠ったふりをしたまま動かない。
アキはデンジが寝たふりをしていることに気づいていない、らしい。まさかデンジの方から尋ねるわけにもいかないから本当のところはわからないけれど。
時折、一言二言とデンジの名前を呟く、その声色は水分を含んでいる。泣いているのかもしれない。
暗がりの中で手を伸ばすが、拒絶するかのように強く掴まれる。そのまま縫い止められてしまった。
────どうして、アキは俺を受け入れてくれないんだ。
『話しかけるな、馴れ馴れしくするな』
デンジに吐く暴言は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。
「ぁっ…ん…っ」
上顎を擦って、デンジの縮こまった舌を絡めとった。
舌を甘噛みされ、吸われると息が上手くできない。苦しさに眠ったまま身をよじる。
息継ぎのために離れた口付けが名残惜しい。そう感じて酸素に喘いだまま、「アキ」と声に出さず唇を動かせば、先ほどよりも口付けはさらに深まった。
誘ったのはデンジからで、誘わせたのはアキからだった。
東京の雪には重さがない。そう、感じた。
北ではうず高く聳え立つ雪の柱の間を通学していた。白い壁の上には真っ青な空がのぞいていて吸い込まれそうだった。
こちらでも交通機関は乱れるし、道路はアイスバーンになるけどどこか人工的にも思えた。人も雪も。味気ない。
北海道はほぼ車社会だから、暖房を痛いくらいきかせたバスか親の車で通学していた。こちらに来るまで徒歩5分という距離が長いのか短いのか知らなかった。
アキが進学した高校は全国から生徒が集まるため、寮かもしくは学校が借り上げているマンションのどちらかが選べた。料金は大差ない。違いといえば寮は使い古しの家具付き食事付き、門限あり、縦社会。マンションは家具なし、食事なし、門限なし、縦横社会なし。
好きな方を選べと言われたので、アキは迷わずマンションを選んだ。
ほとんど学校でだべっているので、部屋には椅子とベッドがあれば充分だ。
こちらでは時間の流れが遅く感じた。普通は逆らしい。田舎の時間は遅く、都会の時間は速く過ぎるという。
壁につけたカレンダーは、デンジと別れた月のままだった。
「アキー、おかえりー」
「......は?」
玄関に持たれてデンジがいた。アキはとっさに後ろを振り返った。誰もいなかった。
「帰り遅えな。バイトか?」
「いや、」
「追試?」
「ちげえよ」
「んー......なんでも良いか。早く入れてくんねえ?雪だるまになっちまう」
五畳一間。部屋にあるのは椅子とベッド。収納がちらほら。ルームツアーは以上で終わり。
「きれいにしてんだな。にしても物がねえけど」
「お前の部屋が終わってんだろ」
「最近はタイヨウが掃除してるから、きれいだぜ」
「パシらせないで自分で掃除しろよ」
アキは頭を抱えてうずくまった。なんだこの会話は。数年の歳月をまったく感じさせなかった。
「あ、風呂あんじゃん。入っていい?」
「......泊まる気か?」
「おう。かーちゃんから連絡きてんだろ」
端末を見る。ずっと音楽を聞いていたせいで通知が切れていた。
冬休み、東京、デンジ、よろしく。
目に飛び込んできた文字だけを脳は認識する。
『帰ってこないの?』この返答はどうしようか。
「帰って来そうにないから俺が来たってわけ」
デンジは背負っていたリュクをひっくり返した。
どさどさと食べ物や着替えが床に落ちる。
「こっちの冬もなかなかきついな。ヒコーキ超遅れてんの」
惨いことをしてやりたい。数年ぶりに顔を見たら、喜びよりも先に怒りが湧いた。
「ムリすんな。アキにはできねえから」
心の声を読み取ってデンジは言う。
「アキは思ってること全部顔に出んだよ」
デンジはちゃっかり風呂場に入り、蛇口をひねった。冷たいままの水が流れていく。でも、そのうち温くなるだろう。
デンジの服に手をかける。唇を噛んで、舌を引き摺りだしてやる。
慣れ親しんだデンジの肌は、記憶のものと変わりなかった。
「アキから襲ってくれんなら、手間が省けていいな。どうやってその気にさせようかずっと考えてたけど、」
「兄妹で気持ち悪いこと言うな」
「兄妹っつても生まれる前は他人だろ」
デンジの歯は尖っていて、時々アキの舌が引っかかる。
血で塗れた遊女が頭から離れなかった。
約束をした。それだけを覚えている。
忘れたのか?デンジは問う。「肉親を愛したら死ぬ以外、報われねえよ」
「おかしいよな。あいつ、まあまあ良いやつだったし、友達だって恋人だって死ぬほどいたんだぜ?それくらい、なんでもないと俺は思うんだけどな」
自殺した彼もまた、血のつながった他人を愛した。
百年かけて記憶を消して、百年かけて思い出した。
デンジは変なところで律儀だったな。感心するよりも呆れた。体液が染み込んだ奥座敷で聞いたことを、デンジはまだ覚えていた。
舐め上げた胸元は肉付きが悪く、乾燥していた。
体は冷たくて骨と皮ばかりが目立つ。唾液を飲み込ませても、脚を割り開いても熱は生まれない。
腰を掴んで揺すると仙骨が当たった。
「......いつからだ?いつから思い出した?」
「産まれた時から。アキが覚えてなくても俺が覚えてるからいいかなって。なかなか抱いてくれないのはイラついたけど」
浴槽の水は溢れて部屋へと流れていく。
水に沈んだまま互いの手首を切り合った。傷口から溢れた血は水面に薄れていく。
デンジは息を吐き出して縁に手をかけた。
「俺が先に逝くからアキは遅れて来いよ。心中しちまったらまた兄妹になるから、俺はいいけどアキはヤだろ」
「わかった」
もし生まれ変われるなら、この世の終わりみたいな世界であれば血が繋がっていようとなかろうと、倫理なんてどうでもよくなるんじゃないか。
アキは妹を見殺しにしながら思案する。
「悪魔がいるようなとこなら、全部許されそうだな」
鳥屋につく。
鶏には成れない。種は身を結ばないから。
鷹にも成れない。夜目がきくのは夜鷹という。
鳥屋には鷹にも、鶏にも成れなかった雀がいた。
卵から孵ったばかりのそれは小さく羽ばたき、女の皮膚を啄んだ。
鼻が布団に落ちると、それを合図にして堰を切ったように赤白い膿がぼたぼたと零れ、肉色の花が狂い咲いた。鼻がついていた孔に指を這わせるが、梅の毒は神経を犯し、痛むことはなかった。
彼女は垢だらけの包帯を顔の中心に巻きつける。顔に開いた穴は、増えるばかりだ。まず片目が腐り、周りの骨が溶けた。ついで鼻が落ちた。きっと次は口が捥げる。
「お前......それ......」
「───いい見世モンだろ?」
デンジは顔を、体を、背けて逃げようとしたが、アキに抱きしめられて動きを封じられた。
「アンタにまで病気が移っちまう。さっさと失せろよ」
涙は枯れた。けれど目からは透明な血が溢れる。
アキは包帯を毟り取り、孔に口をつけて膿を啜った。
「これで共犯だろ……1人にはさせねえから、俺もデンジと一緒に死んでやるよ」
止めてくれと身をよじるが、アキの舌は這いずり回る。梅の毒に即効性はない。ひどく遅行性だ。何年も何十年もかけてゆっくり身体を蝕む。
だから、沈めよう。
春に死んだ人は、春の花になる。
凡庸で凡才で、俺はそんな人生に満足していたのに。
そう思いながらも早川アキは原稿用紙を赤字で線引きしていく。
出版社に勤めて早いもので3年が経った。学生気分は頭のどこかで残るものの、社会人としてどうにか働いている。
アキは学生時代はもっぱら剣道に打ち込んでいたから、てっきり武道採用で警察官にでもなると周囲は信じ込んでいたし、当の本人もそのつもりでいた。(なお、少しばかり小説を書いて文芸雑誌に投稿したことはなかったことにしたい過去の一つだった。理由は単純で、人数が足りないから兼部してくれと文芸部に泣きつかれ、渋々入部したためであった。まさか執筆させられるとは夢にも思わなかった。非常に不本意だった)
しかしながら、不幸なことに試合中の怪我で左腕が使い物にならなくなった。利き腕でなかったことは不幸中の幸いで、日常生活には支障をきたすことはなかったが、選手生命と進路はきれいさっぱり絶たれた。
志破れて山河あり。アキ自身は負傷することも想定内だったからさほど落ち込まなかった。けれど、アキの試合を毎回見に来て、楽しそうに応援していた弟の落ち込み様が酷かった。警察官には成れないが、他種の公務員には成れる。なぜかアキの方がタイヨウを励ましていた。
「公務員試験っていちいちめんどくさいし大変だよ?アキくんさあ、やりたい事とかないんだったらうちの会社に来ない?編集部でさ、良さげな後輩いたら連れてくるように言われてるんだよね。剣道部なら体力も忍耐力もあるだろうってことらしいよ。単純で笑えるよね!」
剣道部で散々世話になった姫野にそう誘われて、断る理由も、断らない理由も特になかった。姫野曰く安定しているのは公務員で、給料がいいのは会社員。
試験を一発で合格できる保証はどこにもない。いい歳していつまでも親の厄介者になるわけにはいかない。アキは考えを改め、有り難く今の会社に入った。
会社勤めと剣道部がどう関係あるのかは深く考えなかった。体力だとか忍耐力はどの職種でも必要だから、くらいには考えていたけれど。
新人の仕事は第一に仕事に慣れること、第二に担当作家に顔を覚えてもらうこと。これだけで良い。
新人教育係は脳をアルコールで溶かしながらそう説いた。編集者といえば、作家と一緒に作品を作り上げて、完成したそれを世間に出すのが仕事なんじゃないか?という青臭い理想論は、ものの3ヶ月で消え失せた。そんな神業は新人にはできない。それどころか顔を覚えてもらうことだって、原稿をもらうことだって、なかなかできなかった。小説家の先生とやらは異常に繊細だったのだ。
締め切りに間に合わない!もう書けない!と言って泣きだし、間に合わないから逃げますと言って脱走し、才能ないからやめますと言って本当に連載をやめてしまったり。アキはその都度なだめて、走り回って連れ戻し、10以上歳の離れた相手を時には叱って、なんとか完成した原稿を受け取った。
もはや編集者じゃなくて問題児を抱えた小学校の先生だ。
今回の早川アキの人生は笑っちゃうくらい平凡な人生だった。きっと小説の題材になんてならないくらいに。
とはいえ仕事の性質上、問題はどうしたって起こる。
事の発端は担当していた俳優が失踪したことだった。
恋愛映画浪漫映画。ひとつ飛んで青春映画。出演した映画の全てが連日満員御礼となる。この俳優の名前は〇〇と言った。朗々とした声に、鼻筋が通った精悍な顔立ちは銀幕によく映えた。加えて人格者でもあった。人気絶頂ともなれば不遜な態度となる輩も多いが、彼のざっくばらんとした性格は、下積み時代からなんら変わらなかった。なんでも幼少期にかなり苦労したとか。天は二物どころか三物も四物も与えるらしい。
そんな今をときめく映画俳優〇〇は半自叙伝的な小説を書いていた。それは間も無く封切りとなる彼主演の新作映画の公開に合わせて出版される、はずだった。
「────マキマさん、〇〇がトびました……家まで行ってきます」
「わかった。念のため撮影所にも連絡しておくね。最悪の場合も考えておこう」
彼と2、3日連絡が取れないことはよくあった。それでも律儀に、撮影が長引いて家に帰れなかったと後から電話や手紙が折り返された。それが、家にも帰らない。恋人の元にもいない。遊郭に入り浸っている噂も聞かない。
既存作家の脱走癖に慣れていたアキは、彼についてもまあこんなこともあるだろう。そのうち帰ってくるだろうくらいに捉えていたし、周囲の反応も概ね似ていた。手だれが揃う編集部には、大騒ぎする人もおらず静かだった。
───息子が失踪しました。
〇〇の母親の静かな声でその静寂が破られた。
『誰も理想を望むな』
血飛沫じみた墨汁が壁一面を汚していた。
失踪した彼はギリギリまで藻搔いていた。筆跡で、部屋の荒れ具合で、そう読みとれた。
1人の人間として向き合ってくれ。少しくらい考えてくれ。好きなようにさせてくれ。
早川アキは文字通り頭を抱えた。こんなに追いつめられるくらいなら、もっと前に相談してくれたら良かったのに。こちらとしてもいくらでも(とは断言できないまでも)手の打ちようがあった。本の発売は映画の公開に合わせているから、多大なる人件費と宣伝費が掛けられている。莫大な負債を、残された家族に抱え込ませる気か。
たかが数字じゃない。カネはあっけなく人を殺すんだぞ。
「この……この度は息子が御迷惑をおかけしましたこと…本当に、本当に申し訳なく…」
「やめて下さい。映画も本もこちらの方でなんとかします。〇〇さんを無事に見つけることが大切です」
〇〇の母親はやはりというべきか、年老いてなお美貌を保っていた。『僕の母親は元々芸者でさ、唄も踊りも上手いんだ。本が出来上がったらさ、妓楼にでも遊びに行こうよ。早川くん、行ったことある?吉原もいいな。案内するからさ』と嬉しそうに〇〇は語っていたっけ。
しかし、その相貌もロクに眠っていないのだろう、青ざめ大いにやつれていた。
「迷惑ばかりおかけして……下げる頭もございません。どうぞ、資料になりそうな物はなんでも持っていってください。写真を撮っていただいても構いません」
ここまでひと息で言うと、彼女は不自然に言葉を切った。それに気づいたアキが続けるように先を促すと、おずおずといった様子で母親は口を開いた。
「警察への届け出は......今しばらく控えた方がよろしいでしょうか」
「私は一会社員ですので、断言できませんが
報道規制はかかるかと思います。撮影会社とご相談いただいた方が…」
「ええ、ええ。承知致しました」
この号外ネタは自分が先に持ち帰るべきだろうか。優秀な記者は自ら話題を作り出すという。
ネタは雑談から引き出していけ、でもタネは女の胎にでも出させとけ、という先輩の下卑た教えが、改めて身にしみた。
『───誰も理想を望むな。宗教染みた成功者の影が自分とだぶる。喜ばしくなんか、ない。毎日失敗ばかりだ』
アキは〇〇がよく使っていた言い回しを真似て筆を走らせる。
『その証拠に、満足に仕事も選べない。ほら、何もできない。独りじゃなにもできないんだ。僕以外の誰かによって生み出されたものだけが他人に渡り、はじめて産声をあげる』
脳内に疼く感覚を掴んで紙の上に落としていった。
いつの間にか〇〇とアキの思考は共鳴していた。
産声を上げる前の胎児たち、どうか幸せに。俺(僕)よりは幸せに。
---------
「おめでとう!!代作者早川先生!!!売り上げ鰻登りらしいな!」
「おはよう御座います野茂さん。俺は冷や汗モンでしたけど、クビが繋がったんなら良かったです」
結論からいうと、〇〇は見つからなかった。彼は永遠に喪われてしまった。
川辺に打ち上がった遺体は水分をたっぷり含んで、かつての爽やかな美貌のカケラもなかったという。
当然、葬儀は行われない。彼は概念として生かされたままで映画は封切りとなり、本はめでたく出版された。
母親からこっそり送られてきた手紙には、喟然とした文章が至極きれいに綴られていた。
────息子は早川さんに何より感謝しておりました。〇〇を親身に支えてくださいまして──────
アキは“感謝”の文字に爪を食い込ませた。
〇〇は情が薄いようにも見えなかった。かといって情が厚いようにも見えなかった。
人気者の彼のことだ、友達だって恋人だって抱え切れないほどいただろう。なのにどうして少しばかり一緒に仕事をしただけの自分に、そこまで縋るんだ。なにが彼を殺したんだ。
アキの様々な葛藤を他所に、重版出来の声が今日も今日とて鳴り響く。
---------
女の首元に顔を埋めると安物の香が薫った。
「───何度来たって変わんねえよ。悪いこたあ言わねえ、アンタ帰れよ」
「うるせえな」
女の胸元から伸びた縄を見て、アキはとっさに目を逸らした。埋め込まれてそう日が経っていないのか、赤黒い肉芽が生々しかった。
「遣手になんて言われたか知らねえけど、ここはよぉ......趣味のわりぃオッさんしか来ねえ、拷問部屋みてえな見世なんだよ。アンタは歳くってもねえし、趣味悪くもないだろ?もっとキレイなとこに行けよ......それかホントに仕事で来てんのか?」
「......そうだ」
嘘つけ。
言い放ち、女郎は半裸のまま部屋をうろつく。
「ヤんねーなら俺寝てもいい?腹減って動けねえ。客がいる時は腹出ねえよーにって食わせてもらえねえんだ......待てよ客がいなくても食ってねえじゃん俺」
「こっちは客だぞ、少しは空気読めよ。あと服着ろよ」
〇〇が遺した文章には妓楼の女について書かれてあった。もちろん出版にあたってその部分は削った。本人もそうとわかっていたのか、たまたま思い出したから書いておくと言った風で、女のことは詳しくは記されていなかった。
ただならぬ仲であったのだろう、香典代わりに───上司に急かされたから赴いただけで、アキは全く乗り気ではなかったが───本を携えて見当をつけていた見世を訪れた。
『アイツ、死んだんだろ?』
アキを見て、本を見て女は言った。
公表はしていない。どこから漏れたんだ。アキはとっさに違うと答えた。けれど、声は力なく響いた。女はアキの言葉を否定した。
是非を問う余裕はアキにはなかった。彼は友人だったのだから、だから彼のためにここまで来た。
本を手渡したが、女は文字が読めないと言った。半ば無理やり押し付けると、受け取ったはいいが開こうともしなかった。
『寂しい寂しいって泣きながら[[rb:俺 > わたし]]んこと抱いてたんだ』
自分が自分でいられないっていつも泣いてたぜ。どういうことだったんだろうな。おかしいよな、恋人だって金だってたくさん持ってるのに。羨ましいぜ。なのに、こんなとこまで来て、俺みてえな汚い女に縋るなんてよ。
アキが女に名を問うと不思議な名を言い返した。漢字は?と聞くと、女はカタカナだと言った。
『そう。デンジ、な。アンタは?』
『アキ』
『......かん、じは?』
『カタカナ』
『んッ.....おんなじかよ』
安物の香はなんだかイラつきを悪化させた。
「食いもん持ってねえの?」
「持ってねえよ」
生前の〇〇の様子が知りたくて、アキはデンジの見世に通っているが、肝心なことは何一つわからないままだった。彼が死んでから随分月日が経つが、ひょっこり顔を出すんじゃないかと頭のどこかで思っている。
昔の馴染み客が死んだところで、商売女にはどうでもいいことらしい。それより自分の空腹の方が重要らしかった。
「精液飲ませてくんねえ?」
「......まじでやめろ」
「〇〇っつー名前だったってのもさっき知ったんだぜ。ロクに覚えてねえ」
「デンジの記憶力をアテにした俺が悪いって言いてえんだろ」
「先に言っといてくれりゃあ覚えてたぜ。コイツ死ぬかもしれねえから、よく見とけって」
「死ぬってわかってる奴なんていない」
「怒んなよ、悪いと思ってるから俺ん記憶をひっくり返してんだろ」
デンジは敷物の上にアキを押し倒すと、首を傾げて口に吸い付いてきた。色気も何もない、ただの接触だった。デンジは空腹のせいかすぐに呼吸が荒くなる。吐息の中でアキの舌を甘噛みした。
「抱いてくれたら思い出すかもな」
「俺に被虐趣味はないし、この状況で女抱けるほど器用じゃねえよ」
「どんな状況なら良いんだよ?仕事になんねえよ。あとで怒られんの俺だぜ?いいから抱け」
「金やるからやめろ」
「金なんざヤクザに全部持ってかれんだろ!それより肉よこせ」
糸切り歯がアキの肉を抉った。驚きと痛みでとっさに殴りつける。面白いくらいに血が飛び散った。女の体は想像以上に柔らかかった。アキが自分の行いに後悔する間もなく、拳が飛んできた。しばし無言のまま殴り合う。薄い壁越しにうるさいと怒声が飛んできた。2人は睨み合ったまま固まる。
先に視線を外したのはデンジだった。
彼女はのろのろと箪笥から端切れを取り出して、顔に巻き付けた。
「商売道具壊すなよなぁ。借金死ぬほどあんだから稼ぎ落ちたらどーすんだよ」
「俺からとればいいだろ」
「あーはいはい。ついでに身請けしてくんねえ?借金は臓器売ってどうにかすっけど、どうにかした後身体しんどいっつーか怠くなるって聞いてよぉ」
「気軽に言うんじゃねえ」
きっとデンジの借金よりデンジ自身の値段の方が安い。かなり通い詰めているが、デンジの体に怪我がなかったことは無い。彼女は安い値段でぞんざいに扱われている。
商品に感情なんてない。だから客が何をしたっていい。当たり前のように彼女は嘯いた。
殴り返してきたのは少なからずアキを好いているから。
「......アイツに自分が死んだら泣いてくれって言われてたんだった。殴られたせいで思い出したぜ。アキとアイツって似てんだな。俺は泣けねえから......代わりにアキが泣いてくれよ」
傍らに置いた本の表紙を撫でるばかりで、デンジはこちらに見向きもしない。
アキは自分の視界が滲んでいる理由にようやく気づいた。
身近な死は死を呼び寄せるらしい。不幸なことは連鎖する。
鼻が布団に落ちると、それを合図にして堰を切ったように赤白い膿がぼたぼたと零れ、肉色の花が狂い咲いた。鼻がついていた孔に指を這わせるが梅の毒は神経を犯し、痛むことはなかった。彼女は垢だらけの包帯を顔の中心に巻きつける。顔に開いた穴は、増えるばかりだ。まず片目が腐り、周りの骨が溶けた。ついで鼻が落ちた。きっと次は口が捥げる。
「お前…それ……」
「───いい見世モンだろ?」
デンジは顔を、体を、背けて逃げようとしたが、アキに抱きしめられて動きを封じられた。
「アンタにまで病気が移っちまう。さっさと失せろよ」
涙は枯れた。けれど目からは透明な血が溢れる。
アキは包帯を毟り取り、孔に口をつけて膿を啜った。どの怪我が原因だろうか。いつから患っていたのか。デンジは口を開けば抱け抱けとうるさいくせに、いざ引き寄せると拒んでいたのは、こういうことか。
「これで共犯だろ。……1人にはさせねえから、俺もデンジと一緒に死んでやるよ」
止めてくれと身をよじるが、アキの舌は這いずり回る。梅の毒に即効性はない。ひどく遅行性だ。何年も何十年もかけてゆっくり身体を蝕む。
惚れた男に抱かせないでおいて良かったと、それだけが救いだったのに。
---------
川は水面に黒い布を広げて、凪いでいた。行き着いた先は幸せな結末でも、惨劇の結末でもなく、ありふれた心中だった。
今世では添い遂げることも別れることもできなかったが、このまま泡となって消えることができるのなら、成就したも同然だ。
心中立てなんかいらねえから口を吸ってくれ。
そう言ってせがむと、アキは躊躇うそぶりを見せた。
手立てはいるだろ
今があるなら、俺はそれでいいんだよ
デンジが舌を出して喘いでみせると、ようやくアキは口の端から溢れた唾液を啜り舐めた。
それからデンジを抱え上げ、脚の付け根を自らの腰に招くと入水した。粘膜がこすれ合う感触にデンジは喉を震わせた。
惚れた男に抱かれると、体は勝手に動く。そんなこと今まで知らなかった。
生温い水の中で唇が触れ合った。せびるように角度を変えて、唇が舌でこじ開けられる。唾液と空気が口内に流れ込み、肺腑は徐々に沈んでいく。水中では音が聞こえない。目も耳も奪われて、心拍だけが響く。
それじゃあ、来世で。
--------
大正__年__月。玉川のほとりに男女2人の遺体が打ち上がった。遺体の損傷は激しく、ともすれば塵の塊りにも見えた。皮膚はただれ、川縁で削り取られた跡が窺えた。駆けつけた警官たちが水死体を引き上げると、それぞれの眼孔からぼたりと鮒がこぼれ落ち、その場にのたうちまわった。まだ年若い巡査は顔を背け、途端に引きつけを起こしたように嘔吐した。
2つの手は固く結びつき、溶け合って1つの肉の塊となっていた。
品川心中、曽根崎心中、六本木心中、ワンピース心中。心中沙汰を題材にした娯楽が多いのはきっと、みな悲しい恋に焦がれているからだ。
それはそうと、心中した男女は、来世では兄妹に生まれ変わるらしい。
[newpage]
[chapter:春に沈める]
春の明るい日差しは憂鬱を悪化させる。
「バカがうつるからデンジとは口きかねえ。ひ弱がうつるからタイヨウとも話したくねえ」
「「えッ!!??」」
「アキ兄ひでえ!?オウボウだぁああ鬼っアクマ!!母さん母さんッお兄ちゃんがイジワル言う!!」
「うるせえ!!騒ぐんじゃねえ!いっつも俺ん邪魔ばっかしやがって!!!」
どうにかこうにか、弟と妹を部屋から締め出した。アキは扉に背を預け、そのままずるずると床に腰を下ろした。
いい加減にしろよ。家じゃ本も読めねえのかよ。
気が済むまでぶつぶつと悪口を呟いた。それから、机に置いた本を急いで開く。
心中した男女は、来世では兄妹に生まれ変わる。
いかにも胡散臭い本だった。それでも先程の文章が頭から消えないのは心当たりがあるからだ。
「マジかよ……」
記憶の端に思い浮かぶのは妹によく似た女だった。アキは舐め合った肌の味までも覚えていた。
───最期にアンタに会えてよかった……なあ、未練なんてないから、もういいから、はやく殺してくれよ
『親子、夫婦、兄弟、兄妹、姉妹、双子。これ以外にも固有名詞を挙げだすとキリがない。面倒だから“きょうだい”だとか“かぞく”とでも示しておくことにしよう。“きょうだい”は必然的に顔が似る。似ない“きょうだい”もいるけれど。それでもやはり、同じ家に住んで同じ食事をして同じ生活をしていると、必然的に似てくるものらしい』
本当にそうなのか?家族といえども別の人間だ。適当なこと言って結論付けてんじゃねえよ。
アキには反論したいことが山ほどあった。作者は誰なのかと本をひっくり返すが、まったく知らない名前が記されていた。ついでにいうと題名の漢字も間違えているし、いかにもオカルト染みている。こんな本、借りてくるんじゃなかった。
アキは宇宙の本が読みたかった。学校の図書館で目をつけていた本を借りたかったのだが、人気があるらしく、アキが行ったときにはすでに無かった。
まあ、でも、なるほど。元が敵同士だったのなら、相入れない面があることや、漠然とした苛立ちを覚えることも腑に落ちる。信憑性の有無はともかくとして、こういう考え方は良いかもしれないとアキは思った。分かり合えないことは人間の性なのだから。
2000年代半ばを過ぎて割と科学が進んでも、来世だの前世だのに囚われているのは、みんな揃って現状に満足していないからだろう。
少しばかりマセていたアキは無理やり自分を納得させた。
暴言を吐きつつも妹たちの面倒を見るのは嫌いではない。ただ、いつも胸騒ぎがした。
服に隠された肌の色や体の線。少し低めの体温。
それらを認識する度に静脈が沸き立つような、居ても立っても居られないような、そんな衝動にも似た感情が湧き上がる。
────劣情だと気付くには、まだ早かった。
「ちょっとお兄ちゃん!」
入試の直前期、関係代名詞と戦っている最中、いつのまにか部屋に乱入してきた母親によって、イヤホンをむしり取られた。一瞬でα波は消し飛んだ。
「......なんか用?」
「さっきから呼んでるのに返事もしないで!まったく!デンジちゃん風邪ひいて寝てるんだから、ちょっとみててあげてよ。母さんスーパーに買い物行きたいの。……あ、そうだ今日の夕飯なに食べたい?」
「なんでもいい」
なんでもいいじゃ困るわ、なおも言いつのる母をよそにアキはシャーペンを投げ出して、デンジの部屋に駆け込んだ。
いつから寝込んでたんだ。まったく知らなかった。
暑いのかそれとも単に寝相が悪いのか、デンジにかかっている毛布は半分くらいずり落ちていた。
「アキ兄……ノド痛え…」
「バカは風邪ひかねえっていうけどバカも風邪ひくんだな」
「わかってねえな…バカはカゼひいても、カゼひいたことに気づかねえんだよ」
水差しはほぼカラになっていたので、アキは一度台所に向かう。いくつか氷を入れてから生ぬるい水道水で容器を満たした。
こうしてまともにデンジの顔を見たのは、こうして話しをするのはいつぶりだろう。記憶にあるデンジより、少しだけ大人びている気がする。一緒に暮らしているが、いつもすれ違っていた。物理的にも比喩的にも。もちろん意図的にアキがそうしたのだけれど。
部屋に戻ると、デンジはベッドの中で起き上がりぼんやりと壁を見つめていた。アキを見とめるとふらふらするし、だりいと言って笑った。
「なんで笑ってんだ。気味悪いな…ちゃんと寝てろよ」
「今日は俺と話してくれんだな?」
「病人相手にシカトしねえよ」
デンジの首元まで毛布を引き上げようとしてアキの手は止まった。考えてみればあと何回デンジと会話できるんだろう。東京の高校に行ってしまえば、そう気軽に帰省出来なくなる。
だから、帰ってくるつもりはなかった。下手したら一生。
数週間もせずに受験は始まる。そして苦もなく受かるはずだ。確実に滑り込めるところだけを選んだのだから。これがきっと、デンジとの最後の会話だ。
「入学したらろくに帰って来れなくなる。俺が出ていくまでには治せよ」
「東京だっけ?アキは遠いとこに行っちまうな。元気でやれよ」
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
デンジは眠ったふりをしたまま動かない。
アキはデンジが寝たふりをしていることに気づいていない、らしい。まさかデンジの方から尋ねるわけにもいかないから本当のところはわからないけれど。
時折、一言二言とデンジの名前を呟く、その声色は水分を含んでいる。泣いているのかもしれない。
暗がりの中で手を伸ばすが、拒絶するかのように強く掴まれる。そのまま縫い止められてしまった。
────どうして、アキは俺を受け入れてくれないんだ。
『話しかけるな、馴れ馴れしくするな』
デンジに吐く暴言は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。
「ぁっ…ん…っ」
上顎を擦って、デンジの縮こまった舌を絡めとった。
舌を甘噛みされ、吸われると息が上手くできない。苦しさに眠ったまま身をよじる。
息継ぎのために離れた口付けが名残惜しい。そう感じて酸素に喘いだまま、「アキ」と声に出さず唇を動かせば、先ほどよりも口付けはさらに深まった。
誘ったのはデンジからで、誘わせたのはアキからだった。
東京の雪には重さがない。そう、感じた。
北ではうず高く聳え立つ雪の柱の間を通学していた。白い壁の上には真っ青な空がのぞいていて吸い込まれそうだった。
こちらでも交通機関は乱れるし、道路はアイスバーンになるけどどこか人工的にも思えた。人も雪も。味気ない。
北海道はほぼ車社会だから、暖房を痛いくらいきかせたバスか親の車で通学していた。こちらに来るまで徒歩5分という距離が長いのか短いのか知らなかった。
アキが進学した高校は全国から生徒が集まるため、寮かもしくは学校が借り上げているマンションのどちらかが選べた。料金は大差ない。違いといえば寮は使い古しの家具付き食事付き、門限あり、縦社会。マンションは家具なし、食事なし、門限なし、縦横社会なし。
好きな方を選べと言われたので、アキは迷わずマンションを選んだ。
ほとんど学校でだべっているので、部屋には椅子とベッドがあれば充分だ。
こちらでは時間の流れが遅く感じた。普通は逆らしい。田舎の時間は遅く、都会の時間は速く過ぎるという。
壁につけたカレンダーは、デンジと別れた月のままだった。
「アキー、おかえりー」
「......は?」
玄関に持たれてデンジがいた。アキはとっさに後ろを振り返った。誰もいなかった。
「帰り遅えな。バイトか?」
「いや、」
「追試?」
「ちげえよ」
「んー......なんでも良いか。早く入れてくんねえ?雪だるまになっちまう」
五畳一間。部屋にあるのは椅子とベッド。収納がちらほら。ルームツアーは以上で終わり。
「きれいにしてんだな。にしても物がねえけど」
「お前の部屋が終わってんだろ」
「最近はタイヨウが掃除してるから、きれいだぜ」
「パシらせないで自分で掃除しろよ」
アキは頭を抱えてうずくまった。なんだこの会話は。数年の歳月をまったく感じさせなかった。
「あ、風呂あんじゃん。入っていい?」
「......泊まる気か?」
「おう。かーちゃんから連絡きてんだろ」
端末を見る。ずっと音楽を聞いていたせいで通知が切れていた。
冬休み、東京、デンジ、よろしく。
目に飛び込んできた文字だけを脳は認識する。
『帰ってこないの?』この返答はどうしようか。
「帰って来そうにないから俺が来たってわけ」
デンジは背負っていたリュクをひっくり返した。
どさどさと食べ物や着替えが床に落ちる。
「こっちの冬もなかなかきついな。ヒコーキ超遅れてんの」
惨いことをしてやりたい。数年ぶりに顔を見たら、喜びよりも先に怒りが湧いた。
「ムリすんな。アキにはできねえから」
心の声を読み取ってデンジは言う。
「アキは思ってること全部顔に出んだよ」
デンジはちゃっかり風呂場に入り、蛇口をひねった。冷たいままの水が流れていく。でも、そのうち温くなるだろう。
デンジの服に手をかける。唇を噛んで、舌を引き摺りだしてやる。
慣れ親しんだデンジの肌は、記憶のものと変わりなかった。
「アキから襲ってくれんなら、手間が省けていいな。どうやってその気にさせようかずっと考えてたけど、」
「兄妹で気持ち悪いこと言うな」
「兄妹っつても生まれる前は他人だろ」
デンジの歯は尖っていて、時々アキの舌が引っかかる。
血で塗れた遊女が頭から離れなかった。
約束をした。それだけを覚えている。
忘れたのか?デンジは問う。「肉親を愛したら死ぬ以外、報われねえよ」
「おかしいよな。あいつ、まあまあ良いやつだったし、友達だって恋人だって死ぬほどいたんだぜ?それくらい、なんでもないと俺は思うんだけどな」
自殺した彼もまた、血のつながった他人を愛した。
百年かけて記憶を消して、百年かけて思い出した。
デンジは変なところで律儀だったな。感心するよりも呆れた。体液が染み込んだ奥座敷で聞いたことを、デンジはまだ覚えていた。
舐め上げた胸元は肉付きが悪く、乾燥していた。
体は冷たくて骨と皮ばかりが目立つ。唾液を飲み込ませても、脚を割り開いても熱は生まれない。
腰を掴んで揺すると仙骨が当たった。
「......いつからだ?いつから思い出した?」
「産まれた時から。アキが覚えてなくても俺が覚えてるからいいかなって。なかなか抱いてくれないのはイラついたけど」
浴槽の水は溢れて部屋へと流れていく。
水に沈んだまま互いの手首を切り合った。傷口から溢れた血は水面に薄れていく。
デンジは息を吐き出して縁に手をかけた。
「俺が先に逝くからアキは遅れて来いよ。心中しちまったらまた兄妹になるから、俺はいいけどアキはヤだろ」
「わかった」
もし生まれ変われるなら、この世の終わりみたいな世界であれば血が繋がっていようとなかろうと、倫理なんてどうでもよくなるんじゃないか。
アキは妹を見殺しにしながら思案する。
「悪魔がいるようなとこなら、全部許されそうだな」
1/2ページ