鬼滅
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片手を挙げると、蝶が人差し指に落ちてきた。
それは彼女の髪飾りと同じ色をしていた。
部屋の中で飼えないか。数匹を籠に捕らえてみたが、いずれも翌朝には羽がばらけていた。
死骸は黒髪の女が臥せっているようにも見えた。
後味が悪かった。せめて供養を、と羽を集めて庭先に埋めてやった。
【あなたの眠りが咲くころに】
一
私は美しい女に因縁があるらしい。
髪を結う。紅をさす。
身なりを整えているだけだった。
色気付く暇があったら鍛錬しろ、それか一体でも多く鬼を倒して来い。かつて私達を怒鳴りつけたのは階級がはるかに上の隊士だった。声の勢いとは裏腹に目の奥を滲ませていた。確か、妹が”いた“と話していた気がする。
色気を振りまく暇も相手もないし、慢心しているわけでもない。
気合いが入るんだ。着飾っていると特に。
水面や刃に映る自分が綺麗だとどこまでも戦える気がする。自らを鼓舞するための戦化粧だ。
綺麗な人は強い。───少なくとも私の姉はそうだった。
あとは、そう、毒にあたって一晩中吐き続けた後も顔色の悪さを紅で誤魔化せる。私たちが持ちうる武器の一つ。
綺麗なことは強いこと。強いことは綺麗なこと。
屋敷の少女たちの髪に揺れる飾りは心をしっかりと持ってほしいからと願って、姉と私で化粧道具と共に与えた物だった。刃を持たない彼女たちに鎧を着せたかった。
心の拠り所は大それたものでなくていい。
ふとした瞬間に思い出したり、視界に入るくらいのものでいい。
形あるモノはいずれ壊れてしまうけれど、形のない思いは恒久的に続いていく。人がいる限り、“永遠”は確かに存在すると私は願ってやまない。
ཐིཋྀ
カァァァ。カァァァ。
伝令!伝令!南南東!南南東!南南東!×××山ノ御殿ニ鬼ノ出没アリ!×××山ノ御殿ニ鬼ノ出没アリ!
「悪鬼滅殺」
私は続く言葉を口でなぞった。上空を飛ぶ鴉の鳴き声は正直言って耳障りだ。
間髪入れず両の目を突いて、その勢いのまま地面に鬼の顔ごと串刺しにする。
次いで、腕。次いで脚。その都度、毒の量を鞘の中で変えて刺す。首に打ち込む量は増やしておこう。
毒の調合は難しい。実際に使うまで効果がわからないからだ。
毒が回り始めるまでどれくらい。毒で苦しむ時間はどれくらい。死に至るまでどれくらい。
鬼の上背、体重、何人喰らったか。
きりきりと鞘を回して毒の配合を変える。
右に二回、左に戻して一回。蝶番に当て嵌まる鍵を探っているようだ。錠前を開けたとして、その中に希望などありはしないけれど。
「────うん。思ったより早く死ぬのね」
懐中時計の秒針を数えて、記録する。ふと、既視感を覚えた。そうだ、これは幼い頃の記憶。私は時計を睨みながら生薬を湯掻いていた。どんな些細なことでも、何か言えば傍らに寄り添う父は私の頭を撫でてくれた。
視界が滲む。駄目だ。
泣いてはいけない。泣くのは今から目を背けたいからだ。
笑ってはいけない。笑うのは過去に未練があるからだ。
「しのぶちゃん、倒せたか?」
「はい。記録もできました」
先輩隊士が駆け寄ってくる。崩れた鬼の残骸を見て口笛を吹いた。
理解ある人で良かった。中には首が切れないのは鬼狩り失格だと揶揄する同胞もいるから。
私は油とマッチ棒を取り出す。脇腹に受けた傷のせいで呼吸が安定しない。針と糸では間に合わない。焼いて塞いでしまおう。
廊下は手足と千切れた胴体が散乱しており、華美な装飾と相俟って地獄絵図となっていた。
死体はどれも兜を身につけて武具も持っていた。ここまでして数体の鬼には敵わないのか。
「どなたもいませんか?助けに来ました」
襖を開けては生存者を探す。他の隊士と隠たちも屋敷中を駆け巡っていた。
私の近くで衣擦れの音が聞こえる。倒れており重なった几帳をどかす。その下で伽羅を纏った黒髪が動いた。
「誰ぞ?」
「私は鬼狩りです。庭にいた鬼は倒しましたが、まだ隠れているおそれがあります。一緒にここから出ましょう」
「......鬼狩りさま」
呟くと少女は脱力した。取り縋っていたのは若い女の亡骸だった。
乱れた髪が流血と混ざり、床に弧を描く。
彼女は伏せたまま緩やかに泣いていた。
「わたくしだけ、残ってしまった」
私は巡査ではないし、法曹家でもない。知る必要も裁く必要もない。ただ、ここで何が起こったのか知りたくなった。
「余興でしたの」
霧雨のような細い声だった。
「鬼が見たいと当主が所望されました。仕えの手立て達と競わせたいと申されました」
途切れ途切れの話だった。
一族の伝統行事だったという。
年に一度の鬼やらい。豆を蒔いて福を呼び込む追儺の儀式。ここは鬼のために建てた御殿。
家族だけで行っていた小さな行事は、家が財を成すにつれ歪んでいった。
屋敷に囲った鬼を奉公人皆で追い出し陽に当てる。負傷者には分厚い金一封を。死んだものにはその遺族に、十年は遊んで暮らせる見舞金を。
欲に目が眩んだ人間は鬼になる。
私は鬼を厭う。嫌悪を抱いている。
それに勝る感情を人に擁するとは思わなかった。
人も鬼も表裏一体なのか。その当主はどこで糸をかけ間違えたんだ。
「死ねばいい」
「......言われなくとも」
とっさの呪詛は少女が受け取ってしまった。彼女に向けたものではなかった。
「皆を止められなかったのですから、わたくしも同罪です」
理解を求めてはいけない。秘密を暴いてはいけない。正しさを求めてはいけない。
年端もいかない、たった一人の少女に罪を背負わせてはいけない。
「介錯していただけますか?わたくしひとりでは死ぬことも儘ならない」
短刀はどこから現れたのか。少女はそれを手首にあてた。
死をもって償うと決めた。
彼女が口にする懺悔は咎人のものと遜色なかった。
「......あなたには次がある。誰かが間違ったことをしたら次は止められるように、生き残った者が責任を継いでいく必要があると思うの」
慰めは意味をなさない。わかっている。いくら説いても覚悟を決めた人はその決意を曲げようとしない。この子だって私と別れた後、自決してしまうかもしれない。でも一時でいい、彼女が背負っているものを私にも分けてほしかった。
山を一つ越えてたどり着いた先に別の豪邸があった。惨劇の知らせを知ってか知らずか、辺りは静まり返っていた。
在らん限り声をかけたが、主人が戻ったというのに迎えはなかった。門は閉ざされたままで、冷たく私たちを拒んだ。
彼女はどろりとした目で生家を見上げた。繋いでいた手が離れる。なまえは私に向かって深々と腰を折った。
「では、ごきげんよう」
この場にそぐわない華やかな笑顔だった。
わかっている。その言葉に応えてはいけない。
ཐིཋྀ
「しのぶはお医者さんも目指した方がいいんじゃない?姉さん、しのぶに診てもらった方が治りが早い気がするの」
ぐちぐち怒りながら自分で自分の点滴を換えていた私に姉さんはおっとりと笑いかける。
あれから三日三晩飲まず食わずだった。なまえを連れてぼろぼろになりながら駆け込んだ町医者では碌な治療ができず、結局蝶屋敷まで戻る羽目になった。
藤の紋を掲げておきながらまともな設備も揃ってないなんて、モグリか藪医者だ。
「そりゃそうよ、私が作った薬は濃度濃いめにしてるんだもん。器具だって包帯だっていつも煮沸してから使ってるし、清潔にしてた方が治りが早いし予後もいいの」
私はこの褒め言葉は素直に受けとろうと思った。
まろびでた臓物を体内に押し込めて針と糸で縫い止める、その場にあるもので止血する。応急処置はやっぱり姉さんの方が上手だ。
でも、知識量だけなら姉さんより私の方があるかもしれない。柱になってから姉さんは昼夜問わず、任務に忙殺されている。まだまだ下っ端の私は空き時間が多かった。勉強する時間が取れるのは良いが、それ以上にもっと実戦をこなしたい。
とにかく毒の精度を上げたかった。私は鬼の首が切れないんだから今のままではどうしようもない。無闇に鍛錬しても意味がない。私の筋力で出来ることなんてたかが知れているんだから。
姉さんも華奢だけど私よりずっと上背があるから、ずっと力も強い。どんな鬼の頸も切れるし、素手でもぎ取れる。
虫一匹殺せない顔をしてカナエ姉さんはなかなか怖い。この間だってそう、蝶屋敷のみんなで都会に行った時のこと。私達にしつこく絡んできた柄の悪い男達は姉さんによってしばらく歩けない体にされていた。
薬草学、解剖学、細胞学。手に入る知識はなんでも欲しかった。一つの選択が生死を分けるのなら、選ぶのに迷う暇はない。患者が一人増えるごとに責任という重しが背骨を曲げていく。
ただ、楽しみながら学んでいた頃には戻れない。
鬼殺隊に病人はいない。
もちろん広義の意味で。みな生き残ることに重きを置いていないからだ。
病気や欠損、致命傷を負った者は傷を治さないまま潔く死んでいく。
暗黙の了解で惨めに生き永らえるより、即死が望ましいとされていた。散りの美徳というらしい。
きちんと手当てをすれば復帰できるかもしれないのに。未来の可能性には縋れないのか。
「とりあえずうちに来ればいいのよ。助かる可能性はゼロじゃないんだから」
「頼もしいわ!みんなに言っとかなくちゃ。痛いの我慢するより、さっさと治しちゃったほうがいいものね〜」
姉さんは私の隣で眠るなまえの布団をかけ直して頭を撫でた。彼女はこの屋敷に戻ってからずっと眠り続けている。外傷のせいというよりも精神的な傷のせいだろう。
「お家から誰もお見舞いに来ないのね......あんな目にあって......心配じゃないのかしら」
「姉さんも手紙読んだじゃない。あんな家、この子が帰る場所なんてない」
鴉を通じてなまえの実家と許婚のもとに手紙を届けたが、双方の反応は著しく薄かった。
鬼囲いの罪が白日の下に晒されたため、彼女の家は壊滅状態だった。
次期当主にはなまえの一族とは無関係の人間が立ち、用無しとばかりに手切れ金が幾ばくか送られてきた。
許婚の家からはいわくつきの娘を嫁にもらいたくないと激しい拒絶の返答があった。
「うーん......そうねえ......私たちだけで色々言ってても仕方ないから、なまえちゃんは今はもう少しだけ眠っててもらいましょう。回復第一で!」
急ぐ必要はないもの。そう言いつつも姉さんは「早く起きて〜」となまえの頬をつつく。
「また、妹が増えちゃった」
「そうね。本当だったら、家族が増えることは喜ばしいけれど......」
みんな鬼のせいで行き場を失ってしまった。
これ以上、義妹が増えませんように。私たちはいつもそう願っているのに。
二
人生はその一部を抜き取れば悲劇に見えるが、その実、人生は喜劇だ。
皆、舞台の上では役者。
もしも台本があるとすれば、私の人生は即興だけでつくられている。それも私以外が好き勝手に踊りまわる独壇場。全く思い通りにはいかない。
私はいつも除け者で、大切な人たちは勝手に現れて、勝手に退場して行く。
そんなの許さない。私は死ぬことにだって意味を作りたかった。
血が止まらない。鬼に裂かれた傷は深く、体の向こう側が見えそうな程だった。
「──────ご、め......まき、こで......しまっ......」
「喋らないで、お願い。あなたを助けたいの」
焦る。手が震えて止血がうまくできない。
鬼の首を掻っ切る方が楽だ。死に逝く人を看取るなんてこと、とてもじゃないけどわたしにはできない。
ཐིཋྀ
蝶屋敷に留まりたいと直談判した際、彼女達は隊士にならないと約束して欲しいと小指を差し出した。
わたしは一度死んでいる。けれど蝶の導きで生まれ直した。救われた分、今度はわたしが誰かを助けたい。わたしの一族のせいで奪ってしまった命の数だけ人を守りたい。
蝶屋敷で目覚めた時から、しのぶさんに拾ってもらった時からずっと考えていたことだった。
大それた望みだ。こんな糸のような声と体で、恥ずかし気もなく言えたものだ。
こちらからも小指を差し出す。何もせず諦めたくなかった。このままの体と思想では満足に生きていくことすらできない。どうか鍛えてください。
困ったような顔のままカナエさんは頷いた。
「なまえの言うことも一理あるわね。ゆっくりでいいの。まずは自分の足で歩けるようになりましょう」
鍛錬は基礎体力をつけることから始まった。わたしの手足ときたら、生まれてこのかたまともに使ったことがないせいで筋力がほぼなかった。
細かい血管は常に破れて吐息と尿は赤く錆びついた。全身筋肉痛のままアオイに体の筋を伸ばされて、いつも悲鳴をあげていた。
基礎体力がついたら、手の皮が破れるまで竹刀の素振り、打ち込み。分厚い瓢箪を用いて呼吸の練習。
渋っていたのが嘘のようにカナエさんは容赦がなかった。日に日に訓練は辛辣になる。優しいのは口調と表情だけだ。
もしかして、わたしが音を上げるのを待っているのだろうか。このまま稽古はどこまで続くのだろう。ぞっとするが、止めたいとは言えなかった。
「なまえは私が思ってたより聞かん坊ね」
桜花が雨に攫われる頃。稽古終わりのことだった。カナエさんに滅多打ちにされ、床に伏せたまま動けないでいると、彼女はわたしの頭を膝の上に乗せた。
「お稽古、辛くないの?」
「はい......いいえ」
「どっち?」
「お雛様だったわたしには辛いです。でも少し前までできなかったことができるようになって、わたしがわたしじゃないみたいです」
「いい子いい子。姉さん、なまえはここから出したくないなぁ」
過ぎてしまったことを懐かしむかのように、カナエさんは言葉を紡ぐ。わたしは今まで入隊したいとはっきりと口にしたことはなかった。けれどお見通しのようだった。
彼女はわたしがさっき粉々にした瓢箪のかけらを見つめる。
「もう無理って言ってくれるの待ってたけど、なまえが全然めげないから嬉しいような、悲しいような。......複雑よ」
「やっぱりそうでしたか」
「......最終選別に行っても、ちゃんと帰ってくるって約束できる?」
「はい。這ってでも帰ってきます。わたしの家はここしかありません」
「良かった。なまえの家だと思ってもらえて、私は嬉しい」
桜に負けないくらいの芳香がカナエ姉さんの髪から漂う。わたしの頬に数滴、雨が落ちてきた。
「必ず生きて戻ってくるのよ。生き抜く術はもう叩き込んだからね」
ཐིཋྀ
ここは鬼の宴が狂い咲く牢獄の中。
手繰り寄せた髪をぶちぶちと引きちぎった。許婚の好みに合わせて伸ばした甲斐あって、身丈ほどの長さがある。撚り合わせて身を縛りつける。
「帰ろう。もう少しで夜が明ける」
けれど、握った手は力なく滑り落ちていった。
藤花に囲まれて7日間を生き延びた後、屋敷に戻ると姉妹たちは喜声をあげて抱きしめてくれた。
破れた着物を替えて、手当てをしてもらって、痛む体を抱えて寝ていたらカナヲが布団に潜り込んできた。
「......」
「なあに?」
「なまえちゃんおかえり」
「うん」
彼女は口元だけで微笑むとわたしの髪を撫でた。
「髪どうしたの?」
「止血するのに切っちゃった。短いのも似合うでしょ」
カナヲはわたしの服をめくった。痣とかすり傷がほとんどだった。
「大怪我した人も助けてたんだね」
「......助からなかったけどね」
選別にはカナヲが先に向かっていた。本当は一緒に行きたかったが、彼女は黙って行ってしまったから同期にはなれなかった。勝手に行くなんて酷い。
わたしの稽古が終わる度に「選別に行かないでほしい。なまえはここにいてほしい」と滅多に感情を露わにしないカナヲから何度もお願いされていたから、訝しんでいたが、まさか先を越されるとは思いもしなかった。だってカナヲが刀を握る姿を見たことなかったから。
彼女は呼吸も刀捌きも誰にも教わらず、カナエ姉さんの稽古を数度見ただけで覚えてしまったという。正直言ってあり得ない。ものすごく才能があるんだと思う。
「こら、カナヲ!駄目じゃない!なまえは帰ってきたばっかりなんだから寝かせてあげなきゃ」
しのぶさんの怒った声がして布団がバサっと勢いよく捲られた。
「......しのぶ姉さん」
「あ、ごめんなさい」
カナヲの代わりに何故かわたしが謝った。
カナヲは追い出されても追い出されてもわたしのところにおずおずと戻ってくるから、しのぶ姉さんは諦めたみたい。でも眉を吊り上げたまま「私語厳禁」と言い放ってわたし達の会話を封じた。
「なにこれザンバラじゃない。無理やり切ったんでしょう」
「引きちぎりました......余裕なくて......」
「あの刀は飾りじゃないのよ」
鬼の血で濡れた刃を使って、切った髪を同胞の止血に使いたくなかった。
わたしは膝で微睡むカナヲの髪を櫛でといて、しのぶさんはわたしの千切れた髪に鋏を入れてくれる。その手つきがあまりに優しかったから、思わず口が緩んでしまった。昔の口吻はとっくに捨てたはずだったのに。
「......姉がいましたの、腹違いでしたけれど。わたくしたちはとても仲が良かった......」
あの人はわたしの侍女だった。
血を分けた姉妹でも妾胎と本妻胎では処遇が大きく異なる。あの頃はそういうものだとなんの疑いも持たなかった。
姉は田舎の名主に嫁ぐか、使用人として本家に残るか問われた時、一縷の迷いもなくわたくしの側にいることを選んだ。
ひっつめ髪に着古した絣の着物の中で、柔く白い肌があった。彼女が美しかったのはきっと、覚悟を決めていたからだ。
本妻として格下の家に嫁げば立場と生活は必ず保証される。跡取りを産めば、持て余す程の待遇を受けられる。そんな花道を躊躇いなく捨てた。妹のわたしがひとりになってしまうという理由だけで。
両親は互いに愛人を持っていてわたくしのもとにはほとんど顔を見せない。だから、愛着というものは微塵も湧かなかった。
不憫に思ったのだろう、散々可愛がってくれた。
産みの親を殺されたことより実の姉を殺されたことの方が許せなかった。
ほしいものはなんでも手に入った。どこに行くにも籠を使っていたから、土を踏むことなんてなかった。生まれた時から身支度は他人の手を借りていた。雛壇の一番上に飾られて、大勢の使用人に傅かれて暮らしていた。
それもこれもあの人がいないなら、必要ない。
「そう。そうだったの......結局、あの時はまともな葬いができなかったわね」
「良いんです。思い続けることが死んだ人への餞だと思います。あの時から......わたくしを人として育てて下さってありがとう存じます......おねえさま」
三
右足を軸にして大きく踏み込み、刀を翻す。一息の間に九つの斬撃が弧を描いて鬼の体を裂く。
その軌跡は、大きく花弁を孕んだ芍薬を形作っていた。
殺傷は瞬く間に鬼の体に吸い込まれ、皮膚が再生される。落胆する暇もなく血鬼術が繰り出された。鬼が袖を振ると風が巻き起こる。目に見えない斬撃は鎌鼬のように体を削いでいく。
月に叢雲、花に風。とても相性が悪い。
どうにか紙一重で躱し、息を強く吐き出した。崩れた姿勢のまま体を横に捻る。回転の勢いで鬼を斬りつけた。『陸ノ型、渦桃』
姉さん、わたしここまで戦えるようになったよ。
走馬灯はよぎらない。わたしは一度は死んだ身だ。もう一度死に直すだけ。負けると分かっていても引けない時がある。それが今だった。
後悔、焦燥、未練。それ以上に強く思うのは、何がなんでも出来ることをしたいという我が儘。
カナエ姉さんも最期はこんな気持ちでいたのだろうか。彼女の背中には傷一つなかったという。
死闘はいつだって孤独だ。
わたしと
鬼さん鬼さん、こちらへどうぞ。
地獄の道案内なら喜んで引き受けましょう。早かれ遅かれ、わたしも巡るのだから。
───── 必ず生きて戻ってくるのよ。
未だ、桜は芽吹かない。雨ばかりが降りしきる。
ごめんなさい、カナエ姉さん。しのぶ姉さんの妹がまた減ってしまうけれど、わたしは死ぬことにだって理由がほしい。
幾度目か、強く息を吸い込んだ。
ཐིཋྀ
自分の咳で目が覚めた。喉が焼けるように痛む。
横を向いたら、アオイと目が合った。彼女が立ち上がると膝に乗せていた洗濯物が全て床に落ちた。彼女は構わずわたしに取り縋る。
「なまえ!なまえ!!」
「ぁ......、ぁおぃ」
「ずっと起きなくて......なまえ......意識が戻ってよかったぁ......!」
「うん......うん......」
勝てたんだ。わたしは。
体の違和感と鈍痛からは目を逸らした。
「なまえ、落ち着いて聞いて。右腕がね、神経がめちゃめちゃになってて......切るしかなかったんだって。肺も随分やられちゃったみたいで」
「......安いもんだよ。腕と肺の代わりに鬼を倒せたんだもん」
わたしを溺れさせる勢いで、アオイは水を飲ませてくれた。喉は通るようになったが、声がひしゃげて上手く出なかった。でも、大したことじゃない。
意識が途切れる寸前、もう気力だけで鬼の頸を捩じ切った。それからのことは覚えていない。鴉の鳴き声の中でわたしは眠りに落ちた。
「姉さんとカナヲは?」
「しのぶ様はいらっしゃるし、カナヲは出先だけどなまえが起きたこと伝えればすぐ帰ってくると思う。待ってて!」
水差しを放り投げてアオイは部屋を出ていった。
「なまえ、私たちとの約束を守ってくれてありがとう」
「はい、しのぶ姉さん」
互いの小指を絡ませる。
姉さんが次に言う台詞はわかっている。遮って口火を切った。
「師範、わたしにも医学と薬のことを教えてください。今まで通り稽古にも励みますから」
「......あなたはとても頑張っているけど、今まで通りには戦えないの。これ以上辛い思いをしないでほしいの......できれば鬼殺隊を辞めてお婆さんになるまで長生きしてほしいのよ」
「辞めたくありません。どうやって生きろと言うんですか。せめて違う戦い方を身につけたいんです。少しでもしのぶさんの知識や思いを繋いでいきたいんです。どうかお願いします」
いつ誰がいなくなってもいいように。
残された人が代わりに歯車を回さなきゃならない。教授される相手はわたしでなくても構わないが片腕をなくした今、そしてこれから一番時間を持て余すのはわたしだ。潔く去ることなんてできない。未練がましくあなたのそばに居座りたい。出来ることはなんでもしたい。
予感がするんだ。それは惨劇前の気配。
突然止んだ鬼の襲来。不気味なほど静かな夜。
最終局面はいつ訪れるかわからない。それに向けてしのぶさんは命をかけている。今まで以上に。
どれほどの覚悟を持っているのか計り知れない。例え相打ちになったとしても必ずカナエ姉さんの仇を取るだろう。
あなたがいなくなってからの方が長い人生になるだろう。もしこれから先、生きていくなら。
残していってほしい。しのぶさんが生きていた証を。すべてわたしに下さい。
ཐིཋྀ
別れ際の願いは、どうしてこんなにも残酷なんだろう。
なまえがあんまりにも追い詰めた表情をするから、とっさに姉と同じ台詞が口からこぼれ出た。
カナエ姉さんの笑顔と口調を真似ていたら、いよいよ性格まで似てきたらしい。願いはいつだって同じ。
きっとなまえも私に同じ言葉をかけたいに決まっている。
片腕だけになっても燦然と笑う彼女は雛人形よりも美しかった。
柳の枝より細かった脚は筋肉がつき、濡れたようにぬめり、腰に流れていた髪は首まで短くなった。
カナヲとは違った意味で手がかかる子だった。手がかかる子ほど可愛いというのに違いはないけれど。
彼女は大きな材木問屋の一人娘で何不自由なく、お雛様みたいな暮らしをしていた。着替えも食事も自分でしたことがなかったと話していた。順当にいけば華族の妾になるはずだった。だから復讐なんかしなければ良かったのに、こんな苦労は似合わない。口元だけで笑う姿は本当に人形のようだった。きれいな打掛を纏ったなまえの姿を思い出す。
私もかつてそうだった。彼女ほど桁外れに裕福ではなかったにせよ、一抹の心配もなく両親と姉に囲まれてただ、ただ幸せだった。薬学に興味を持ったのは父が褒めてくれたから、純粋に人を助けたかったから。憎しみを果たすための道具にするなんて考えもしなかった。
なまえの頬を包む。
平和な時代にこそ相応しい知識が有り余っている。鬼殺隊を辞めてからもずっと独りで生きていけるくらい、たくさん。
私は知識と時間の使い方を誤ったとは思わない。
看取ったこと、助けられなかったこと。取捨選択を迫られたこと。どの状況でも同じ精選を求められる。
なまえには別の戦場が待ち構えている。そこでは日輪刀が戦いの主役じゃない。
「時間がないんです。できる限り知識を叩き込みますから、私の代わりに全部持って行ってね」
ཐིཋྀ
しのぶさんと入れ違いにカナヲが現れた。部屋の外で会話を聞いていたんだろう、わたしの潰れた声に驚くことはなかった。
唇をほとんど動かさず、彼女は問うた。
「もし、私と師範に何かあったら屋敷のこと頼んでもいい?」
「もちろん。でもね、何かあってほしくないよ」
能面のようにつるりとした顔は、以前よりもひびが入って感情が出るようになった。吸い寄せられそうな微笑みだった。
「詳しい理由は言えない。私、上手く伝えられないの」
「言わなくていいよ」
「そうなの?」
きょとんとカナヲは伏せていた目を上げた。
あなたもわたしもこれからもっと学ばなきゃいけない。言葉だけが言葉じゃない。言葉じゃ言い尽くせないことが増えていく。
わたし達は少しの間、手を繋いでいた。もしかしたらこれが最後の会話になるかもしれないから、別れの代わりに。
ཐིཋྀ ཐིཋྀ ཐིཋྀ ཐིཋྀ
四
藤の花を幾重にも飲み込んで髪と瞳は色を変えた。紫色の毒はやがてこの臓腑をも蝕むだろう。
────覚悟はあるか?
自分に問いかけて、問いかけて。ついには崩れて形をなさなくなった言葉と共に、今日も薄紫を食む。
人生はその一部を抜き取れば悲劇に見えるが、その実、人生は喜劇だ。
皆、舞台の上では役者。
もしも台本があるとすれば、私の人生は即興だけでつくられている。それも、私以外が好き勝手に踊りまわる独壇場。全く思い通りにはいかない。
私はいつも除け者で、大切な人たちは勝手に現れて、勝手に退場して行く。
脚本の筋書きにはなかった、本来ならばあるはずのない策を部外者からの指摘で見つけた時の安堵と落胆を忘れはしない。私は死ぬことにだって意味を作りたかった。
心残りといえば、破顔の裏に取り付けた悲願が果たせなかったことくらいだ。
でも、どうせ誰かが勝手に引き継いでくれるだろう。真先に思い浮かぶのは竹を噛んだ幼顔だった。
かつて、私は呪われた。唯一の肉親に。
別れ際の願いはどうしてこんなにも残酷なんだろう。到底叶うはずがないと知りながらも、願わずにはいられなかった姉の呪い。心のどこかで、彼女を恨みながらも、結局私も姉を真似て義妹を呪う。
必ず先へ繋げるように。例え四肢をもがれようとも、盲いたとしても。
形見の飾りは二人で一つ。形あるモノはいずれ壊れてしまうけれど、形のない思いは恒久的に続いていく。人がいる限り、“永遠”は確かに存在すると私は願ってやまない。
その証左に、頬を赤らめて私の名を呼ぶ少女は、いつの間にか表情を取り戻していた。
───私がいなくなっても、もう大丈夫だ。
そう背丈が変わらない少女を無意識のうちに抱きしめた。きっと生き残るように、この脅迫めいた呪縛が解けないように。
姉さん、聞いて。優しいことは残酷なのよ。
何を投げ出しても、かけてくれた優しさに自分の全てを費やそうとしてしまうから。
私は身に染みて自己犠牲の意味を知っている。知っていながらも願わずにはいられなかった。
連鎖するこの呪いを償う時間はもうないけれど、せめて喜劇の幕開けは、次の世代に託そうと思う。
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