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【三日月と竹取】
重ねた唇はこの部屋の空気より乾燥してひび割れていた。
自室から城下を見ると日の出かと見紛うほどに一帯が煌々と燃えていた。
火の手は数刻もせずここにもまわるだろう。
身の危険を嫌というほど感じているのに、根が生えたように体が動かないのはもう諦めてしまっているためだ。
わたしは座したまま筆を持ち直した。一文字書いては線で消して。数行書いては紙を破る。
何も思いつかない。書き残すことがあるほど大した人生ではなかった。流されるままに生きて、流れ着いたところで絶望する生き方をしていた。わたしは自分のことも満足に決められなかった。
蝶よ花よと育てられ、意思を持たないようにと強く願われていた。甘やかし放題で、欲しいものも要らないものも与えられて、情操教育を放棄されたのだから可愛らしい姫に育つはずなんてない。
いつも誰かの指示に従って右往左往しては頭の中でぶつぶつ文句を言って、周囲に当たり散らして不機嫌になる立派な性悪になってしまった。
「辞世の句なんてあらかじめ用意しとくものです。いざ必要になった時に慌てても遅いですよ」
「ふぅん......なら雑渡も考えてるんだ?」
「いえ、定年迎えてから考えます」
「早期退職届あげる。今一句考えとけば?」
気配を消して真後ろに現れるところは相変わらずで、こんな状況下でも、いつものやり取りをしているせいか恐怖心が薄れていく。幼少期からずっと一緒だった。初恋は彼だった。一度だって甘やかしてくれたことはなかった。
わたしの行く末に変わりなんてないのに。
城が落ちた以上、この忍びだってもう無関係の人間だ。
みんなでドクタケ城にでも再就職したら?
退職届と殴り書きした封書を手渡そうとするが避けられてしまった。
「それはちょっと、」
こうしている間にも鮮やかな橙色と煤が増えていく。でも、彼だけなら逃げ切れる。
どうか見捨ててほしい。優しい人は何としてでも生き延びてほしい。
「お前たちが忠義を誓った殿はもういないし、わたくしもいなくなる。この城はもうじき落ちるのよ。わかるでしょ、お前はもう自由なのよ。ぐずぐずしていないでお行き」
「死ぬおつもりですか」
「もちろん。わたくしは独りで逝く」
「お供します」
「だめ」
「なぜ」
なぜって。
雑渡は目を半月のように細めて笑う。聞き分けがないわたしを馬鹿にしているような口ぶりだった。あのね、聞き分けがないのはあなたの方。
「身内の罪だからよ。父がいくさで奪った命の供養をしたい。わたくし一人の首で賄えるものではないけれど、せめて地獄で償いをしたい」
「殊勝な心がけですが、それは殿の罪であってあなたは関係ないでしょう。無意味に巻き込まれるのは馬鹿げてます」
「馬鹿なのよ、格好良く死ぬ覚悟なんてないし、かといって生き延びる未来も見えない。だってタソガレドキの身内だと知られれば、」
最後まで言い切れず言葉を区切った。
みんな死んでしまった。親しい者もそうでない者も。わたしだけが生き延びていいはずがない。甘やかされていたのもわがままが許されていたのも、一国の姫という立場があったからだ。
自国のために、いずれは他国に嫁ぐ役目があったからだ。わたしは役目が果たせなかった。役立たずだ。せめて、無様にのたうち回って死ぬことしかできない。
「......仕方ない。ではあなたの顔を焼きます。姫様だとわからなくすれば、ここを出てから辱められることはないですから」
「焼くよりわたくしの首を切りなさい。敵方に持っていけば雑渡の手柄になるでしょう」
言いながら名案だと気づく。これでわたしも誰かの役に立てる。高名のためなら生死にこだわらない。
髪を括って首を差し出す。これ以上話を続ける気はなかった。そろそろ時間だ。俯いた拍子に咳き込むと口の中に血の味が広がった。咄嗟に口を抑えたが溢れた血は袖をどんどん濡らしていく。
上目遣いに見た彼の表情は変わらない。きっと見慣れているんだろう。彼がどれほどの人々の最期を見届けたのか、詮索する気はないけれど。
「私は姫に助けられましたから、この先の命は全てあなたのものです」
「義理堅いのね。じゃあ命令よ、わたくしの分までせいぜい長生きなさい。もう二度と助けられないもの」
幼い眠り顔は疲労を濃く滲ませていて、声がけをためらってしまった。
「あ......姫さま...!」
「休んでなさい。お前まで倒れてしまったらどうするの」
尊奈門は寝ぼけ眼で喚いていたが、───ありがとうございます────構わず頭を撫でてやると再びまぶたを閉じた。
「───私一人のために不眠不休ですよ。殴ってでも休ませようとしたんですがね」
「あの子は雑渡のためならなんでもしたいのよ」
黄色く爛れた肌は滲み出る体液に覆われていて、とても皮膚とは言い難い。
彼の頭をわたしの膝の上に置いて、濡れそぼった包帯の結び目を緩めた。
「生き地獄と言われました。治りが悪ければこのまま死ぬだろうと」
包帯を取り替える。
「でも、あなたに看取ってもらえるなんて私は果報者だ」
包帯を取り替える。
「姫の自室の真下に埋めてくださいませんか。好きな時に化けて出たい」
包帯を取り替える。
包帯を取り替える。
「姫様、」「お前はわたくしの物なのだから勝手に死ぬなんて許さない」
「......御意に」
血と膿でふやけた口を舌でこじ開けて薬湯を流し入れた。わたしの気が済むまで舌を絡める。
3年近く続いたこんなやりとりのせいで直接肌を触れ合わせることに麻痺していった。
「何度でも助けていただきたい」
「無力な小娘に何を言うの。今まで助けてもらったのはわたくし達の方。はやくお行き。充分でしょ、お前の顔はもう見飽きたの」
眩暈がする。
もしかしたら雑渡はここにはいなくて、わたしは今際の際に幻覚を見ているのだろうか。三途の川では会いたい人に会えるという。
「名残惜しいです、姫様」
抱き寄せられ口元が触れる。唇を重ねたまま何度も角度を変えて、生じた摩擦は焔よりも熱を持っていた。
「......勝手なことを」
「あなたが毒で倒れてから攫っても良かったんですが、手遅れになると解毒がややこしいので」
口吸いの折に押し込まれた丸薬は喉奥に溶けて消えた。
「勝手なことを」
「勝手なのは、あなたですよ。私が仕える主君は今や姫さまだけなんですから」
「生き地獄ってご存知?」
「ええ、3年ほどいました」「あなたが死のうが生きようが勝手ですが、その度に私が骨を折りますので、そこはご承知いただきたい。気に病むのならこれからは念仏でも唱えて暮らせばいい」
手間をかけさせるな、腹括れ。
部下をいびる時と同じ口調で雑渡は私を諭す。
「死ぬことが悪いことみたい」
「はい、姫に関しては」
炎は広がり続ける。どうやってここから逃げ出すというのだろう。軟膏の匂いと滑った包帯の感触が蘇る。
「火事には慣れています。もう同じ轍は踏まない」
「また看病してあげてもいいのよ?」
「それは有り難い」
梁のひとつが落ちる。それを合図に内部は崩れていく。
「二度と戻らぬ覚悟はできましたか?」
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