鬼滅
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【ふたりはふたつに分かたれた】
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
私は眠ったふりをしたまま動かない。体を緩ませて只々、触れ合いに身を委ねる。
お兄ちゃんは私が寝たふりをしていることにとっくに気づいているはずなのに。
時折、一言二言と私の名前を呟く、その声色は水分を含んで部屋の中に滲んでいく。
泣いているのかもしれない。
抱きしめようとして暗がりの中で手を伸ばすが、強く掴まれ一纏めにされ、そのまま布団に縫い止められてしまった。
誰よりも大切だからと、大好きだと言って頬を拭って抱きしめたいのに。
どうして、私を受け入れてくれないの。
───話しかけるな、馴れ馴れしくするな、お前は俺の妹じゃない。
私に吐く暴言は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
そうだね、兄妹ならこんなことしない。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。
「ふぁっ…ん…っ」
しつこく上顎を擦って、縮こまった舌を絡めとられる。
舌を甘噛みされて、口から引きずり出されたまま強く吸われると息が上手くできなくて、眠ったまま身をよじる。
息つぎのために離れた唇に、名残惜しさを感じた。酸素に喘いだまま「好き」と声に出さず、唇を動かせば口付けはさらに深まった。
かさついた指は寝衣の中をさすり上げるから、私から溢れ出た汗を吸って水気を取り戻していった。
「───さん?」
母の名で呼ばれたけれど、礼儀として振り返った。
「違いますよ。わたしはなまえです」
「まあ、ごめんなさいね。お母さんはもう......いえ、その、よく似てたものだから」
ごめんなさい、の後に続く言葉をとっさに飲み込んだあたり、優しい人なんだと思った。
「そんなに似てますか?」
「そっくり。佇まいが特に。でもなまえちゃんの方が上背はあるわね」
日ごとにわたしは亡き母の生き写しとなっていく。父のような男とまぐわえば、妹と弟たちを産み直せないか。
女ひとりでは生きていけない。そう言いくるめられて嫁いだ男は、ほとんど家に寄りつかない。他所に思い人がいるらしい。
たまにふらりと帰ると素面のままわたしの頬を張った。生活はいつも貧しかった。
母の嫁入り道具だけは売るまいと床下に隠しておいた。小さな白粉箱と櫛、それから紅筆と手鏡。
家具を売って、着物を売って金をつくると、男はついでに春も売って来いと言ってせせ笑った。
お兄ちゃん、あなたがいなくなってからわたしは。
続く言葉を言わないよう口を閉ざした。
彼が今のわたしを見たらなんと言うだろう。
なにも見たくなかったから目を閉ざした。
いつかの日。血に塗れて、遠ざかる背中を想うたびに郷愁が胸を締めつける。
段々と彼の姿が記憶の中で薄れていく。
心臓が止まりますように。息を閉ざした。
次に目を開けた時、一番にお兄ちゃんの笑顔が見たい。
毎晩、そう願った。
ごとり。血溜まりに男の頭が沈んだ。
泣きじゃくったまま、膝をついてそれを抱きかかえる。剥き出しの腿に血が垂れ落ちた。
───喰うならそのアバズレからにしろ。
言い終わる前に鬼は夫の首を掻き切った。
泣いていたのは、直前まで夫に犯されていたからだ。三年子なしは去れと、夫の実家から圧をかけられていた。それも良いかもしれないと口を滑らせたせいで、激昂した夫によって、わたしは乱暴に組み敷かれていた。
揺さぶられながら、死ねばいいと願っていた。
このまま死ぬことができたらいいと思っていた。
ごとり。血溜まりに鬼の頭が沈んだ。
「────なまえ?」
血飛沫は眼球にも入り込んで目の前を赤黒く染めた。ぼんやりとした視界の中、とっさにわたしは首を横に振る。聞き覚えがある声だった。
一番会いたくて、一番会いたくない人。
「......お兄ちゃん?」
わたしは幸せにはなれなかったよ。お兄ちゃんがいなくなってからずっと。
ねえ、どこで何してたの。
「なまえ、」
彼は涙を拭うようにわたしの血を拭った。それから膝をつくと生首を奪い、慎重に置いた。わたしの夫だったひと。
腿に伝う白濁した体液と肉塊を見て、傷ついたような顔をした。
「お兄ちゃん、助けてよ」
泣いていたのは安堵したから。あのまま死ねると思っていたからだ。
「なんで死なせてくれなかったの」
わたしは手で顔を覆った。生きていたくなかった。弟たちを喪った日から、ずっと。
「......悪かった」
彼は絞り出すように、そう言った。お兄ちゃんはわたしが一度泣き出すと、手をつけられないことを知っていた。きっと、記憶の中ではわたしが幼いままなんだろう。
「あのね、子供が産めないの」「それもいいかもって言ったら鬼が無理やり入って来たの」「死にたいの」
引き寄せられる。彼は体温がやけに高い。背骨が軋むくらい強く抱きしめられた。
「一緒に帰るぞ」
この屋敷は風が吹き荒ぶ。
鍛錬をしているのか、隊士たちの呻き声と怒声がここまで聞こえてくる。吐瀉音と木が割れる音がして、束の間あたりは静かになった。
わたしに与えられた部屋は屋敷の奥にあった。庭に出ようとするだけでも、襖を両手の数ほど越えなければならない。
彼は余計なことを話さない。断片的な話と暮らしぶりから察するしかなかった。
『滅』の文字を背負い、帯刀した面々。血生臭い匂いがあちこちから漂う。
切り口の揃った分厚い巻き藁。
昼夜問わず、鴉が鳴くのは悪鬼滅殺の文句。
「ここはどこなんですか?」
藤の香りを纏い、蝶の髪飾りをつけたその人は複雑そうに微笑んだ。
修羅場に花、そう表現するのが似つかわしい人だった。
あなたのお兄さんから口止めされているんです。余計なことは一切話すな、と。
「───私から言えることは、お兄さんはなまえさんのことをとても大切にされてるってことくらいです」
「そうでしょうか......」
「そうですよ。気に病む必要はありません。ええと、先ほども申しましたけど、毎日この薬は服用して下さいね。傷の治りが早まります。この薬は頓服で構いません。気が乱れたときだけ飲んでください。無理して耐えないでくださいね。かえって体に障ります。それから、女陰 の入り口は裂けやすいので、出血が止まってもしばらく子作りは控えてくださいね。......当分は貴女のお兄さんが、縁談を突っぱねそうですけど」
数種類の薬を手渡され、わたしは慌てる。薬なんて滅多に飲むことがなかったから。
忘れないように飲む回数を記していく。一体どんな薬なんだろう。説明を聞いてもよくわからなかった。気分が上滑りしていく。
鮮やかな粉薬はお菓子みたいだ。
「兄に許されるのなら、当分、嫁ぐつもりはありません」
「許すも何も、不死川さんはそのつもりでしょう。なまえさんがいらっしゃってから自宅に帰る頻度が増えているようですし。ずっと居てもいいんじゃないですか」
大切。そう言われてわたしは思わず首を傾げた。
大切なら、置き去りにしないでしょう?
そばにいて守ってくれるでしょう?
でもこんなことを言って、しのぶさんに困った顔をさせたくない。
「随分たくさん飲まなきゃいけないんですね」
「ええ、これでも少ない方なんですよ?」
言いたいことを飲み込んで、お礼の言葉と共に頷いてみせた。
何度も向きを変えて肌が触れ合う。
私は眠ったふりをしたまま動かない。体を緩ませて只々、触れ合いに身を委ねる。
夫は死んだ後も、こうしてわたしを責めたてる。あなたもわたしもお互いを愛せなかった。気持ちが通わない行為ほど虚しいものはない。
時折、一言二言と私の名前を呟く、その声色は水分を含んでいた。乳房を食む音が部屋の中に滲んでいく。
おかしい。あの人はわたしの名前をついに覚えてくれなかった。
唇が重なった時の、やけに生々しい感触と温度に驚く。
これは夢だと自分に言い聞かせた。
「お兄ちゃん、今日も遅いの?」
渡り廊下で兄と鉢合わせした。帯刀していたのでこれから出かけるのだろう。見送ろうと彼の後を追った。
「......その呼び方やめろって言ったよなァ?」
「じゃあ実弥」
「おい、」
「どうせ誰も聞いてないでしょ。一々怒らないで。今日も遅いの?」
「先に寝てろ」
わたしを外気に触れさせまいと実弥は障子を強く閉めた。
少し前に庭でぼんやりとしていたら、白粉の香りで隊士たちの気が散ると言われた。
殴られた跡、泣き腫らした跡を隠そうとして化粧は濃くなっていった。傷が薄れた今もその癖はなかなか抜けない。
生活の品は、目元まで覆いをつけた男女が入れ違いに届けてくれた。必要ないと思ったが、白粉と紅を所望すると、細かな螺鈿を施されたそれらが枕元に用意されていた。
起き抜けに見つけたから、靄がかかった思考のまま眺める。
細工の具合は、まるで嫁入り道具と見紛うほど華やかだった。
「奥さま、風柱さまからですよ」
「あの、わたしは......」
「はい?」
そばに控えていた隠は首を傾げる。
しのぶさん以外に名乗らなくていい、実弥との関係性もわざわざ言わなくていい。
一方的に交わしたのは口約束だった。
彼はわたしの嫌がることはしない。何か意味があるんだろう。
かぶりを振った。
「いえ、なんでもありません」
この屋敷に来た当初、血みどろになって呻くわたしを、夜明けまでずっと看ていてくれた。当たり前のようにわたしを手元に置いた。
実弥はわたしが部屋から出ることを嫌がった。怪我に障るからと言っていた。立ちくらみを起こして、少しふらついただけで横抱きにされ、自分の足で歩かせてくれなかった。
彼の振る舞いは度を越している。
きっと、何かのはずみで唇をねだれば与えられる。
紅のお礼と帰りを待ち侘びていることを記して、鴉に託した。
彼は文字が書けない。読めはするけれど。
わたしを下等小学に通わせる代わりに、玄弥とニ人で働きに出ていたから学ぶ暇がなかった。
地頭が良い人だから働きながら、見よう見まねで読み方と計算の仕方を覚えてしまった。
学校から帰って、習った物語を誦じてみせると、彼は嬉しそうにわたしを撫でてくれた。
あんなに夢中で通ったのに、今では学んだことをほとんど忘れてしまった。実弥はまだあの筋書きを覚えているだろうか。
弟を逃すために、姉が願って入水する話だった。
わたしも男に売られたが、逃がすべき人がどこにも見当たらなかった。
「その話なら、私も読んだことありますよ。私、というより姉が熱心に読んでましたね」
「教科書には載っていなくて、でも先生が好きな小説を話す時間があったんです。それで、内容はほとんど忘れてしまったんですけど、熱心に解説してくれたところだけは覚えているんです」
「なまえさんはずいぶん面白いところに通われていたんですね。そうですね、下等小で習う話ではありませんね。習ったのは原話の方ですか?それとも小説の方?」
「基になった話があるんですか、きっと小説の方です。わたしが知っているのは」
「ええ、どちらも面白いですよ。違いを挙げるなら、救いがある話です。小説の方は」
「原話が気になります。いつか教えてくださいね」
「いつかお話ししましょう」
廊下に待つ彼の気配は感じられない。
蝶屋敷まで送ってくれたが、診察室の中まで入る気はなさそうだった。
わたしは広げていた脚を閉じる。
「もう問題なさそうですね」
「しのぶさんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いえいえ、綺麗に塞がって良かったです」
しのぶさんは鉗子をじっと見つめていた。何かを言おうか言うまいか、決めかねているような様子だった。わたしは立ち上がれずにいた。
「しのぶさん?」
「私が首を突っ込むことではありませんが、不死川さんも無理をしないようにしてくださいね」
まさかそんなこと、とは思いますけど。
こちらではなく、廊下に向けて静かに言った。
眉を顰めた彼女はきれいだった。
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
お兄ちゃんはわたしが寝たふりをしていることにとっくに気づいているはずなのに。
抱きしめようとして暗がりの中で手を伸ばすが、強く掴まれ一纏めにされ、そのまま布団に縫い止められてしまった。
お願い、わたしを受け入れて。───馬鹿げたこと。わかりきったこと。兄妹ならこんなことしない。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。息つぎのために離れた唇に、名残惜しさを感じた。酸素に喘いだまま「好き」と声に出さず、唇を動かせば口付けはさらに深まった。
彼の帰宅はいつも明け方だった。起きていようとしたのに、眠気に負けてしまった。慌てて出迎える。実弥はわたしを一瞥したが、なにも言わずに自室へ向かった。
着物の裾を引く。背中に頬を押し付けた。彼は一応立ち止まってくれた。こちらから触れる分には構わないらしい。
首をわずかに傾けてわたしの様子を窺う。
「なまえ?どうした?」
「お兄ちゃん、大好き」
「お前も言い飽きねえな」
「あのね、わたしもそっちで寝たい」
「一人で寝ろ。ガキじゃねえんだから」
「お兄ちゃんこそ」
「あ?」
「抱くなら、お兄ちゃんの部屋にして。どうしてわたしの部屋まで来るの?」
夢であってほしかった。けれど、やけに生々しい舌の動きが忘れられなかった。
「なに言ってやがる......大丈夫か?」
「だめみたい......好きなの。実弥、お願い......どうなってもいいから」
彼の頸に両手を回す。拒否もなく、抵抗もされなかった。爪先立ちをしたまま唇に噛みつくと、あっけなく唾液が交わった。
彼の香りを胸いっぱいに吸い込む。酩酊しそうだ。
「ねえ、家族に戻ろう。わたし、あの子たちを産み直すから」
連れ込まれた部屋の中でわたしは両の足を開く。かさついた唇が太腿をたどって腰巻きの中まで吸い上げる。私から溢れ出た体液を吸って水気を取り戻していった。
お互いに箍が外れてしまった。
彼は口移しでないと食事をとろうとしなくなった。
褥ではわたしが気を失うまで眠ろうとしない。わたしは背を仰け反らせて、堪えなく頬を濡らした。彼の名を呼ぶごとに律動は深まった。
風呂場では胸の先から膣の中まで洗われて、指だけで何度も達した。
兄のような男と交われば大丈夫。また、あの子たちに会える。
酔いが覚めないまま、幾重も夜を迎えた。
目が覚めても、未だ宵は明けない。朝が来なければ良いのに。
下腹部がぐずぐずと溶けていくような日々だった。交わることを咎める者は、誰もいなかった。
実弥が果てるのが先か、わたしが孕むのが先か。
弟たちの笑顔をいつまでも夢に見る。
縁側に腰掛けて風を受ける。吹き荒ぶそれはわたしの髪を舞い上げて弄んだ。
座敷には幼いときに遊んだままごと道具が散らばっている。冷たいおはじきを口に入れて噛みしめた。
彼 が来ないように、今日はまだ眠らないでいよう。
──────────────
薄紫の香りがする。
「こんばんは。お加減はいかがですか」
「こんばんは。どうでしょう、あまり良くありません」
久しぶりにしのぶさんと会った。
ここはどこだろう。
わたしの素足に蝶が止まった。
「立ち話もなんですから、上がっていって下さい」
「実弥は、どこ?」
「ここは蝶屋敷ですよ。大丈夫、ちゃんと不死川さんの屋敷まで送って行きますからね」
ここはどこだろう。
下腹部を撫でる。爪の間にまで赤茶色が入り込んでいた。
羽織が乱れて肩がむき出しになっていたが、しのぶさんは優しく襟口を整えてくれた。
「ここはどこなんですか?」
「ここは蝶屋敷です。鬼狩りが住むところです。もう、わかってらっしゃるでしょう」
「実弥はなにも教えてくれませんでした」
「聞かなかったからです」
彼女はわたしの下腹に手を添えた。空っぽだった。毎月毎月、判を押したように血が流れた。
「これは貴女が望んだことですか?」
「もちろん。兄のためでした」
「......なぜ?」
「会いたい人たちがいるからです」
「私にもいますよ。最愛の姉でした。でももう会えません......お渡しした薬は飲んでいましたか?もう一度聞きます。貴女はどうして、」
十月十日にはまだ程遠かった。
こっちで加筆中です。1万字くらいまで書きたいです。
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
私は眠ったふりをしたまま動かない。体を緩ませて只々、触れ合いに身を委ねる。
お兄ちゃんは私が寝たふりをしていることにとっくに気づいているはずなのに。
時折、一言二言と私の名前を呟く、その声色は水分を含んで部屋の中に滲んでいく。
泣いているのかもしれない。
抱きしめようとして暗がりの中で手を伸ばすが、強く掴まれ一纏めにされ、そのまま布団に縫い止められてしまった。
誰よりも大切だからと、大好きだと言って頬を拭って抱きしめたいのに。
どうして、私を受け入れてくれないの。
───話しかけるな、馴れ馴れしくするな、お前は俺の妹じゃない。
私に吐く暴言は、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
そうだね、兄妹ならこんなことしない。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。
「ふぁっ…ん…っ」
しつこく上顎を擦って、縮こまった舌を絡めとられる。
舌を甘噛みされて、口から引きずり出されたまま強く吸われると息が上手くできなくて、眠ったまま身をよじる。
息つぎのために離れた唇に、名残惜しさを感じた。酸素に喘いだまま「好き」と声に出さず、唇を動かせば口付けはさらに深まった。
かさついた指は寝衣の中をさすり上げるから、私から溢れ出た汗を吸って水気を取り戻していった。
「───さん?」
母の名で呼ばれたけれど、礼儀として振り返った。
「違いますよ。わたしはなまえです」
「まあ、ごめんなさいね。お母さんはもう......いえ、その、よく似てたものだから」
ごめんなさい、の後に続く言葉をとっさに飲み込んだあたり、優しい人なんだと思った。
「そんなに似てますか?」
「そっくり。佇まいが特に。でもなまえちゃんの方が上背はあるわね」
日ごとにわたしは亡き母の生き写しとなっていく。父のような男とまぐわえば、妹と弟たちを産み直せないか。
女ひとりでは生きていけない。そう言いくるめられて嫁いだ男は、ほとんど家に寄りつかない。他所に思い人がいるらしい。
たまにふらりと帰ると素面のままわたしの頬を張った。生活はいつも貧しかった。
母の嫁入り道具だけは売るまいと床下に隠しておいた。小さな白粉箱と櫛、それから紅筆と手鏡。
家具を売って、着物を売って金をつくると、男はついでに春も売って来いと言ってせせ笑った。
お兄ちゃん、あなたがいなくなってからわたしは。
続く言葉を言わないよう口を閉ざした。
彼が今のわたしを見たらなんと言うだろう。
なにも見たくなかったから目を閉ざした。
いつかの日。血に塗れて、遠ざかる背中を想うたびに郷愁が胸を締めつける。
段々と彼の姿が記憶の中で薄れていく。
心臓が止まりますように。息を閉ざした。
次に目を開けた時、一番にお兄ちゃんの笑顔が見たい。
毎晩、そう願った。
ごとり。血溜まりに男の頭が沈んだ。
泣きじゃくったまま、膝をついてそれを抱きかかえる。剥き出しの腿に血が垂れ落ちた。
───喰うならそのアバズレからにしろ。
言い終わる前に鬼は夫の首を掻き切った。
泣いていたのは、直前まで夫に犯されていたからだ。三年子なしは去れと、夫の実家から圧をかけられていた。それも良いかもしれないと口を滑らせたせいで、激昂した夫によって、わたしは乱暴に組み敷かれていた。
揺さぶられながら、死ねばいいと願っていた。
このまま死ぬことができたらいいと思っていた。
ごとり。血溜まりに鬼の頭が沈んだ。
「────なまえ?」
血飛沫は眼球にも入り込んで目の前を赤黒く染めた。ぼんやりとした視界の中、とっさにわたしは首を横に振る。聞き覚えがある声だった。
一番会いたくて、一番会いたくない人。
「......お兄ちゃん?」
わたしは幸せにはなれなかったよ。お兄ちゃんがいなくなってからずっと。
ねえ、どこで何してたの。
「なまえ、」
彼は涙を拭うようにわたしの血を拭った。それから膝をつくと生首を奪い、慎重に置いた。わたしの夫だったひと。
腿に伝う白濁した体液と肉塊を見て、傷ついたような顔をした。
「お兄ちゃん、助けてよ」
泣いていたのは安堵したから。あのまま死ねると思っていたからだ。
「なんで死なせてくれなかったの」
わたしは手で顔を覆った。生きていたくなかった。弟たちを喪った日から、ずっと。
「......悪かった」
彼は絞り出すように、そう言った。お兄ちゃんはわたしが一度泣き出すと、手をつけられないことを知っていた。きっと、記憶の中ではわたしが幼いままなんだろう。
「あのね、子供が産めないの」「それもいいかもって言ったら鬼が無理やり入って来たの」「死にたいの」
引き寄せられる。彼は体温がやけに高い。背骨が軋むくらい強く抱きしめられた。
「一緒に帰るぞ」
この屋敷は風が吹き荒ぶ。
鍛錬をしているのか、隊士たちの呻き声と怒声がここまで聞こえてくる。吐瀉音と木が割れる音がして、束の間あたりは静かになった。
わたしに与えられた部屋は屋敷の奥にあった。庭に出ようとするだけでも、襖を両手の数ほど越えなければならない。
彼は余計なことを話さない。断片的な話と暮らしぶりから察するしかなかった。
『滅』の文字を背負い、帯刀した面々。血生臭い匂いがあちこちから漂う。
切り口の揃った分厚い巻き藁。
昼夜問わず、鴉が鳴くのは悪鬼滅殺の文句。
「ここはどこなんですか?」
藤の香りを纏い、蝶の髪飾りをつけたその人は複雑そうに微笑んだ。
修羅場に花、そう表現するのが似つかわしい人だった。
あなたのお兄さんから口止めされているんです。余計なことは一切話すな、と。
「───私から言えることは、お兄さんはなまえさんのことをとても大切にされてるってことくらいです」
「そうでしょうか......」
「そうですよ。気に病む必要はありません。ええと、先ほども申しましたけど、毎日この薬は服用して下さいね。傷の治りが早まります。この薬は頓服で構いません。気が乱れたときだけ飲んでください。無理して耐えないでくださいね。かえって体に障ります。それから、
数種類の薬を手渡され、わたしは慌てる。薬なんて滅多に飲むことがなかったから。
忘れないように飲む回数を記していく。一体どんな薬なんだろう。説明を聞いてもよくわからなかった。気分が上滑りしていく。
鮮やかな粉薬はお菓子みたいだ。
「兄に許されるのなら、当分、嫁ぐつもりはありません」
「許すも何も、不死川さんはそのつもりでしょう。なまえさんがいらっしゃってから自宅に帰る頻度が増えているようですし。ずっと居てもいいんじゃないですか」
大切。そう言われてわたしは思わず首を傾げた。
大切なら、置き去りにしないでしょう?
そばにいて守ってくれるでしょう?
でもこんなことを言って、しのぶさんに困った顔をさせたくない。
「随分たくさん飲まなきゃいけないんですね」
「ええ、これでも少ない方なんですよ?」
言いたいことを飲み込んで、お礼の言葉と共に頷いてみせた。
何度も向きを変えて肌が触れ合う。
私は眠ったふりをしたまま動かない。体を緩ませて只々、触れ合いに身を委ねる。
夫は死んだ後も、こうしてわたしを責めたてる。あなたもわたしもお互いを愛せなかった。気持ちが通わない行為ほど虚しいものはない。
時折、一言二言と私の名前を呟く、その声色は水分を含んでいた。乳房を食む音が部屋の中に滲んでいく。
おかしい。あの人はわたしの名前をついに覚えてくれなかった。
唇が重なった時の、やけに生々しい感触と温度に驚く。
これは夢だと自分に言い聞かせた。
「お兄ちゃん、今日も遅いの?」
渡り廊下で兄と鉢合わせした。帯刀していたのでこれから出かけるのだろう。見送ろうと彼の後を追った。
「......その呼び方やめろって言ったよなァ?」
「じゃあ実弥」
「おい、」
「どうせ誰も聞いてないでしょ。一々怒らないで。今日も遅いの?」
「先に寝てろ」
わたしを外気に触れさせまいと実弥は障子を強く閉めた。
少し前に庭でぼんやりとしていたら、白粉の香りで隊士たちの気が散ると言われた。
殴られた跡、泣き腫らした跡を隠そうとして化粧は濃くなっていった。傷が薄れた今もその癖はなかなか抜けない。
生活の品は、目元まで覆いをつけた男女が入れ違いに届けてくれた。必要ないと思ったが、白粉と紅を所望すると、細かな螺鈿を施されたそれらが枕元に用意されていた。
起き抜けに見つけたから、靄がかかった思考のまま眺める。
細工の具合は、まるで嫁入り道具と見紛うほど華やかだった。
「奥さま、風柱さまからですよ」
「あの、わたしは......」
「はい?」
そばに控えていた隠は首を傾げる。
しのぶさん以外に名乗らなくていい、実弥との関係性もわざわざ言わなくていい。
一方的に交わしたのは口約束だった。
彼はわたしの嫌がることはしない。何か意味があるんだろう。
かぶりを振った。
「いえ、なんでもありません」
この屋敷に来た当初、血みどろになって呻くわたしを、夜明けまでずっと看ていてくれた。当たり前のようにわたしを手元に置いた。
実弥はわたしが部屋から出ることを嫌がった。怪我に障るからと言っていた。立ちくらみを起こして、少しふらついただけで横抱きにされ、自分の足で歩かせてくれなかった。
彼の振る舞いは度を越している。
きっと、何かのはずみで唇をねだれば与えられる。
紅のお礼と帰りを待ち侘びていることを記して、鴉に託した。
彼は文字が書けない。読めはするけれど。
わたしを下等小学に通わせる代わりに、玄弥とニ人で働きに出ていたから学ぶ暇がなかった。
地頭が良い人だから働きながら、見よう見まねで読み方と計算の仕方を覚えてしまった。
学校から帰って、習った物語を誦じてみせると、彼は嬉しそうにわたしを撫でてくれた。
あんなに夢中で通ったのに、今では学んだことをほとんど忘れてしまった。実弥はまだあの筋書きを覚えているだろうか。
弟を逃すために、姉が願って入水する話だった。
わたしも男に売られたが、逃がすべき人がどこにも見当たらなかった。
「その話なら、私も読んだことありますよ。私、というより姉が熱心に読んでましたね」
「教科書には載っていなくて、でも先生が好きな小説を話す時間があったんです。それで、内容はほとんど忘れてしまったんですけど、熱心に解説してくれたところだけは覚えているんです」
「なまえさんはずいぶん面白いところに通われていたんですね。そうですね、下等小で習う話ではありませんね。習ったのは原話の方ですか?それとも小説の方?」
「基になった話があるんですか、きっと小説の方です。わたしが知っているのは」
「ええ、どちらも面白いですよ。違いを挙げるなら、救いがある話です。小説の方は」
「原話が気になります。いつか教えてくださいね」
「いつかお話ししましょう」
廊下に待つ彼の気配は感じられない。
蝶屋敷まで送ってくれたが、診察室の中まで入る気はなさそうだった。
わたしは広げていた脚を閉じる。
「もう問題なさそうですね」
「しのぶさんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いえいえ、綺麗に塞がって良かったです」
しのぶさんは鉗子をじっと見つめていた。何かを言おうか言うまいか、決めかねているような様子だった。わたしは立ち上がれずにいた。
「しのぶさん?」
「私が首を突っ込むことではありませんが、不死川さんも無理をしないようにしてくださいね」
まさかそんなこと、とは思いますけど。
こちらではなく、廊下に向けて静かに言った。
眉を顰めた彼女はきれいだった。
何度も向きを変えて唇が触れ合う。
お兄ちゃんはわたしが寝たふりをしていることにとっくに気づいているはずなのに。
抱きしめようとして暗がりの中で手を伸ばすが、強く掴まれ一纏めにされ、そのまま布団に縫い止められてしまった。
お願い、わたしを受け入れて。───馬鹿げたこと。わかりきったこと。兄妹ならこんなことしない。
重ねた唇の隙間から舌がぬめりと入り、歯列をたどった。息つぎのために離れた唇に、名残惜しさを感じた。酸素に喘いだまま「好き」と声に出さず、唇を動かせば口付けはさらに深まった。
彼の帰宅はいつも明け方だった。起きていようとしたのに、眠気に負けてしまった。慌てて出迎える。実弥はわたしを一瞥したが、なにも言わずに自室へ向かった。
着物の裾を引く。背中に頬を押し付けた。彼は一応立ち止まってくれた。こちらから触れる分には構わないらしい。
首をわずかに傾けてわたしの様子を窺う。
「なまえ?どうした?」
「お兄ちゃん、大好き」
「お前も言い飽きねえな」
「あのね、わたしもそっちで寝たい」
「一人で寝ろ。ガキじゃねえんだから」
「お兄ちゃんこそ」
「あ?」
「抱くなら、お兄ちゃんの部屋にして。どうしてわたしの部屋まで来るの?」
夢であってほしかった。けれど、やけに生々しい舌の動きが忘れられなかった。
「なに言ってやがる......大丈夫か?」
「だめみたい......好きなの。実弥、お願い......どうなってもいいから」
彼の頸に両手を回す。拒否もなく、抵抗もされなかった。爪先立ちをしたまま唇に噛みつくと、あっけなく唾液が交わった。
彼の香りを胸いっぱいに吸い込む。酩酊しそうだ。
「ねえ、家族に戻ろう。わたし、あの子たちを産み直すから」
連れ込まれた部屋の中でわたしは両の足を開く。かさついた唇が太腿をたどって腰巻きの中まで吸い上げる。私から溢れ出た体液を吸って水気を取り戻していった。
お互いに箍が外れてしまった。
彼は口移しでないと食事をとろうとしなくなった。
褥ではわたしが気を失うまで眠ろうとしない。わたしは背を仰け反らせて、堪えなく頬を濡らした。彼の名を呼ぶごとに律動は深まった。
風呂場では胸の先から膣の中まで洗われて、指だけで何度も達した。
兄のような男と交われば大丈夫。また、あの子たちに会える。
酔いが覚めないまま、幾重も夜を迎えた。
目が覚めても、未だ宵は明けない。朝が来なければ良いのに。
下腹部がぐずぐずと溶けていくような日々だった。交わることを咎める者は、誰もいなかった。
実弥が果てるのが先か、わたしが孕むのが先か。
弟たちの笑顔をいつまでも夢に見る。
縁側に腰掛けて風を受ける。吹き荒ぶそれはわたしの髪を舞い上げて弄んだ。
座敷には幼いときに遊んだままごと道具が散らばっている。冷たいおはじきを口に入れて噛みしめた。
──────────────
薄紫の香りがする。
「こんばんは。お加減はいかがですか」
「こんばんは。どうでしょう、あまり良くありません」
久しぶりにしのぶさんと会った。
ここはどこだろう。
わたしの素足に蝶が止まった。
「立ち話もなんですから、上がっていって下さい」
「実弥は、どこ?」
「ここは蝶屋敷ですよ。大丈夫、ちゃんと不死川さんの屋敷まで送って行きますからね」
ここはどこだろう。
下腹部を撫でる。爪の間にまで赤茶色が入り込んでいた。
羽織が乱れて肩がむき出しになっていたが、しのぶさんは優しく襟口を整えてくれた。
「ここはどこなんですか?」
「ここは蝶屋敷です。鬼狩りが住むところです。もう、わかってらっしゃるでしょう」
「実弥はなにも教えてくれませんでした」
「聞かなかったからです」
彼女はわたしの下腹に手を添えた。空っぽだった。毎月毎月、判を押したように血が流れた。
「これは貴女が望んだことですか?」
「もちろん。兄のためでした」
「......なぜ?」
「会いたい人たちがいるからです」
「私にもいますよ。最愛の姉でした。でももう会えません......お渡しした薬は飲んでいましたか?もう一度聞きます。貴女はどうして、」
十月十日にはまだ程遠かった。
こっちで加筆中です。1万字くらいまで書きたいです。
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