フェイジュニ

【夢見る街】


 あいつとキスを交わし合った次の日の朝は、ひどく輝いて見える。俺にとってここは、初めてヒーローを任された街。治安は、お世辞にも良いとは言えない。大通りのハンバーガー屋や、それを抜けたところにある楽器屋は親しみやすくて気に入って入るけれど、それだけ。決して好きな場所ではなかったはずだ。

 朝焼けに照らされた街を反射する水たまりを横目に、メインストリートを進む。飼い犬の散歩中であろう老人が恭しく「ありがとう」と告げた。ぺこりと頭を下げるとそれで満足したようだ。その後にはめんどくさそうに歩く学生が続いている。店はどこも閉まっているというのに、なんとなく騒がしい。来た頃はあまり好きではなかったこの光景も、俺たちの守っている街かと思うとなんだか誇らしく感じる。
 踏みしめた地面には貼りついて乾いたガム。いつか思い描いていた理想のように潰れたそれを見て、浮かぶこの感情の名前はなんだろう。案外悪くない。

 暗闇に溶けたこの街で昨夜交わしたキスは、まだ身体の奥のほうで熱く燻っている。俺とあいつの制服の擦れる無機質な音。上がっていく体温と速まっていく鼓動は、どんな音楽よりも静かに俺を昂らせていく。吐いた息が混ざり合うように、身体もひとつに溶けていくような錯覚は何度経験しても慣れない。まるで自分が自分じゃなくなるような…なんて、ありきたりなフレーズしか思い浮かばないのがちょっぴり悔しい。
 あいつはどうだろう、なんて思って背伸びして目を開けてみると、そのルベライトのような瞳と視線が交わる。こうやっていつも余裕のない俺のことを見ているのだと気付いて、頬にかっと熱が集まる。照れ隠しに逸らした視線を掬うように再び重なる唇。熱を帯びた薄い舌が器用に俺の歯列をなぞり、キスは深いものへと変わっていく。
 俺が「おチビちゃん」じゃなくなるまで、それまではキスしかしない。そうやって勝手に決められたのは不服だが、やけにこなれた数度のキスで腰砕けになってしまうからもう少しこのままでもいいかもしれない。
 そんな夜を数度越えて、朝焼けの街に立つたびに思うのだ。思い描いていた光景とは違っても、あの日の理想がガムのように潰れてしまっても、この街でなら、あいつとなら悪くないかな、と。そして望むのだ。あの艶やかな黒髪と夢見る夜が待ち遠しいと。



 あの子とキスを交わす夜は、ひどく静かな心地になる。寂しさに負けそうな夜を紛らわすために始めたアレソレがなくたって、その熱い吐息を感じるだけでひどく安心するのだ。腕に抱くと緊張したように縮こまる身体が可愛くて、朝焼けのような金糸に幾度となく唇を落とした。

 口慰みに噛んだグリーンアップルを膨らませながら、メインストリートを進む。朝帰りのアベックとすれ違うと、深い夜の匂いがした。ウォーキング中のおじさんは、イヤホンをつけてひたすらに前を見ている。店はどこも閉まっているというのに、なんとなく騒がしい。この景色を見て「自分は一人じゃない」と安堵して、満たされていたあの頃が少しだけ懐かしい。
 視線を下ろすと、朝焼けが照らされた街を映し出す水たまりに、自分の姿があった。ぱしゃんと蹴り上げると、水滴がボトムの裾を濡らす。この感情につける名前が分からなくて、もう一度脚を振り下ろした。

 暗闇に溶けたこの街で昨夜交わしたキスは、まだ身体の奥の方で熱く燻っている。俺とあの子の制服の擦れる無機質な音。上がっていく体温と速まっていく鼓動は、どんな音楽よりも静かに俺を昂らせていく。吐いた息が混ざり合うように、身体もひとつに溶けていくような錯覚は何度経験しても慣れない。いままでの、他の子とのキスとは全く違う幸福感が全身を巡っていく。
 ぱちり。いつもは閉じられているヘテロクロミアと目が合う。赤くなって逸らされた瞳を掬い上げるように唇を重ねると、誘い出すように歯列をなぞった。おずおずと差し出された舌は熱く、まるで溶かされて一つになっていくような感覚。
 おチビちゃんが「おチビちゃん」じゃなくなるまで手は出さない。勝手に決めたルールを破りそうになる本能を抑えて、ぐっと腰を寄せる。本当はもっと深いところで繋がりたい。そんな浅ましい願いは、隠し切れていると思いたい。
 そんな夜が明けるたびに思うのだ。水たまりが亡霊のような自分の姿を映し出しても、この街でなら、あの子となら悪くないかな、と。あの金糸を思わせる美しい朝焼けの街に、もう少しだけ留まっていたいのだと。
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