いあ・あいはいあ・ゔるとぅーむ!
ある週末の夕暮れ。
ピーフェートは身にまとう熱気が湯気とともに立ち上る髪をタオルでぬぐいながら、楽屋への道程をひとり歩いていた。アイドルグループ・フラクタルズの名を冠した単独ライブは大盛況で幕を下ろし、興奮冷めやらぬままシャワールームで汗と疲労をすすいでいたのだ。機材を抱えたスタッフとすれ違うたびに笑顔で頭を下げる。数奇な運命のもと「転光」してきたこの東京で、これまた数奇な運命によって始まったアイドル活動。忙しなく行き交うスタッフしかり、先ほど万来の歓声を聞かせてくれたファンしかり、幾多の人間に支えられて自分が「ここにいる」幸せを噛み締める彼の足が、ふととある部屋の前で止まった。
簡素なプレートが掛かったドアの横に、ある名前が書かれた紙が貼り付けられている。その文字列からあるメンバーの顔を思い浮かべたピーフェートは、今日のライブ中の「彼」の様子を思い出し、ついつい頬を緩めてしまった。個々の仕事が増えたため、九人が集まってライブをする機会が最近は少なかった。久々の全員集合がよほど嬉しかったのだろう、ステージ上で飛んだり跳ねたり、今までにない程はしゃいでいる様を見て、自分も心底嬉しくなったものだ。そういえば舞台裏に引っ込んでから彼の姿を見ていない。今日の盛り上がりは間違いなく彼の功績だ、ひとこと労いの言葉でもかけてやりたい。生来の優しさから自然にそう考えて、ピーフェートは何も身構えることなく控室の扉を押し開け、
「トゥームさ、───」
その先に広がっていた景色に、呼びかけるべき名も、続けるべき言葉も失って立ち尽くしていた。
『■■■■……■■■───■■■……』
最初に感じたのは暗闇と異音。電気のついていない薄暗い部屋の中に、シューシューとガス漏れじみた音とともに胡乱な音が響いている。洞窟の奥深くで銅鑼を叩くような、割れたガラス片を踏みしだくような。空気を歪に揺らすそれは、耳で聞き取れる音波というより、脳髄を直接かきむしる電磁波のようだった。一歩たりとも動けず、暗闇に縫い留められた背後で控室の扉が閉まっていく。細く、細く戸板の隙間から差し込んでいた廊下からの光が弱まり、それと同時にむっとするような「香気」が鼻腔を満たしていった。ざらざらと喉に絡みつく、甘ったるいほど強い香り。名も知らぬ花が見渡す限り、床いっぱいに、頭上を満たす枝いっぱいに、それこそ千朶万朶と咲き乱れている様すら錯覚するほどの。こんな室内にこれほど強い芳香が立ち込めるわけがないのに、それを不快どころか不自然にも感じないこと、それ自体がたまらなく不気味で、奇妙で。
がちゃん。後戸の閉じる物音と衝撃に身を竦ませ、ピーフェートはすぐさま逃げ出す姿勢をとった。素早く背後を探り、ドアノブを掴んで引き開け、この異様に暗い、昏い空間から抜け出す素振りを見せた。……しかし、それはあくまで想像の話。脳が鳴らす警鐘に従いドアに飛びつくはずだった体は、最初のひと呼吸を紡いだ瞬間からぴくりとも動かなくなっていた。凍り付いたように、石にでもなったように、……部屋の奥で霧吹くように息づく「何か」に、釘付けにされてしまったように。
『■■───■■■───■』
「!! うぁ……」
ずるり。彼の恐怖に満ちた浅い呼吸を嗅ぎ取ってか、ついに視界の最奥で「ソレ」が動いた。壁に、天井に黒い影が這いあがり、細く伸びたその先端が四方八方から迫ってくる。うわんうわんと空気をかき回す波もさらに激しくなり、頭を抱え、耳を覆った腕のうちの一本を───自在に蠢くモノが捉えていた。驚きに叫ぶ間さえない。次々と四本の腕のすべてが封じられ、腰が抜けて座り込む体が絡めとられていく。ところどころに柔らかい棘を生やした、太さもまちまちな触手。獲物を捕らえるクラゲやイソギンチャクのそれのようであり、また何の思惑も指向性もなく、気ままに伸び広がっていく蔦のようでもあった。絞め殺されるほど強くはないが、それでも息が詰まるほどきつく縛り上げ、ゆっくりと体表を覆い尽くされていく感触。鼓動するかのごとく不規則に脈打つそれは、生ぬるい体温とさえ呼べるものをも備えている。力の入らない体を引き寄せ、抱きしめるように包み込まれた彼は、せめてもの抵抗と首を振って上を見上げ、そして、
「……──────!!」
瞼から涙を溢れさせ、か細い金切声を上げた。自分が置かれている状況の何一つを理解できず、理解してしまったその瞬間、自分の中で何かが決定的に壊れてしまうという本能的な予感、そこから生まれる底知れない恐怖ゆえに。ガタガタと震え、胸を強く圧迫された体では、外の誰にも届くほどの声は上げられなかった。自分が巻き込まれた事態を知ることができる者は、ましてや助けに来られるだろう者は、この場に一人も居はしない。その事実がさらなる絶望感を与え、彼は首筋から顔に這い上がる触手を振り払うこともなく、ただ眼前の「冒涜的な」存在に怯えることしかできなかった。……しかし。
ガン!! 突如として背後から鈍い物音が聞こえる。押し寄せた触手が塞いでいたドアを、何者かが外から押し開けようとする音だ。急な衝撃に「ソレ」は驚きでもしたように呻き、再び部屋の奥へと撤退する。触手に縛られたピーフェートの体も、ずるずると部屋の中央まで引きずられた。暗さと涙でほとんど見えない視界の中に、ゆっくりと光の帯が広がっていく。その中央には大きな人影。扉を開け、中の様子を一目見たその「人物」は、遠目に見ても分かるほどに大きな動揺を示しながら、
「!! ピー!」
それでも迷いなく自分の名を呼び、芳香渦巻く室内へと踏み込んできた。
「……やっぱり今日はキツかったか。
ごめんな、忠告し忘れてた。他のメンバーはなんとなく察して近寄らないもんだが、お前やダグは入ったばかりだしな……」
一歩一歩と床を伝わる振動。大股に近づいてきた「人物」は周りの状況にぎょっとしたようでありながら、一種の慣れをさえ示した様子で手を伸ばし、茨に呑まれた彼を引き上げる。顔を覆う触手の一部が剥ぎ取られ、強すぎる香りに呼吸さえ押し込められていた喉がようやく新鮮な空気に触れる。酩酊したような視界の中、ぐいと顎を支えられて顔を上げると、そこには同じグループメンバーであり、チームのリーダーを担う「転光生」コタンダイオウが立っていた。ピーフェートと同じ学校の生徒で、常日頃から頼りにしている存在だ。
「ぁ……ごず、にぃ……?」
「よかった……意識はちゃんとしてるな。もう大丈夫だ、息を吸って……ゆっくり動いて抜け出せ。下手に暴れなきゃ怪我はしないさ───『本人』もそれは望んでない」
「……え?」
悲鳴を聞きつけ急いてやって来たのだろう、黄色い装飾のついたステージ衣装をまとったままの彼は、てきぱきと肩や首に巻き付いた触手を剥がしていく。言われた通りに手足を動かすと、強く締め付けていたツタのようなものは我に返ったような様子で、びくびくと蠢きながら緩んでいった。ざあぁ、と波が引くように天井や壁を這っていたそれらも鳴りを潜めていき、最後にはある一点へ……部屋に置かれた大ぶりのソファの後ろへ、するすると束になって引っ込んでいった。それを目で追ったピーフェートはあることに気が付く。ソファの背もたれに乱雑に脱ぎ捨てられたステージ衣装。何かを急ぎ慌てていたのか、結び目をほどくのももどかしく放り出されたネクタイは……きらびやかな装飾のついた紫色をしていた。
「! うそ……あれ、今のって……トゥームさん?」
「……ああ。オールドワンズの『転光生』は、ほとんどが人間とは違った見た目をしてる。あれが本来の【ヴルトゥーム】だ……東京に来てだいぶ小さくなったらしいけどな」
「え、あ……けどトゥームさんって……ヒトっぽい顔……」
「普段はヒトの形を真似て、できる限りごまかしてる。俺たちやファン、東京の人間たちを怖がらせないようにな。けど今日みたいに体力を使いすぎると、それさえも保てなくなって『ほどける』。治るまでこうして楽屋に引きこもってるんだが……今日は結構手こずってるな」
ほら、とすべての触手を取り払ったコタンダイオウが、力強く背中を叩いて気付けをする。それでやっと自分の足で立てるようになったピーフェートは、今しがた聞いた話を信じられずに狼狽えていた。あの物陰に隠れているモノが、無数の触手を携えた巨大な植物のようなモノが……いつも自分たちを優しく見守り、気にかけてくれるメンバーの真の姿だとはとても信じられなかった。おそるおそるソファの後ろを覗き込もうとするのを、コタンダイオウのたくましい腕が止めた。
「いちど姿が崩れると、もとの形を思い出すのに苦労する。うまくいかない時は近くの誰かに触れて、その姿を真似しようとするんだが…… ピーだと腕が四本になっちまうからな。今回は俺がやる」
「へ…… やるって、なにを?」
「『見本』だ。人間に近いカタチを触らせて、望む姿を取り戻させる。慣れてない奴が見るのは毒だ───お前はもう部屋に戻れ」
「ゴズ兄、けど」
「俺は大丈夫だ。トゥームもすぐ元通りになる。だから安心して……な?」
青年のぼうっとした表情に笑いを誘われながら、コタンダイオウはピーフェートの肩にかかったタオルを頭にかぶせ、出入口のほうへ優しく押しやった。気持ちの整理がつかず、しどろもどろに食い下がるピーフェートだったが、彼はそれ以上は有無を言わせない様子でドアを開ける。外から吹き込んでくる清涼な空気が、肺に溜まっていた甘い薫りを散らしていく。それに伴って思考がはっきりとし、茨が体を這いまわる感触がありありと思い出されてきた。混乱こそ大きかったが、室内に満ちる香薫を吸い込んだ瞬間、その場で起きていることへの違和感や恐怖が一気に薄れていった。あのまま助けが来なかったら、触手に囚われ縛り上げられている状況をも受け入れてしまっていたかも知れない。自分がいつの間にかその場の「異常さ」に染められていたことに気づき、彼は青ざめた顔で足早に部屋を後にした。
ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかっていくのを確認し、コタンダイオウは改めてしっかりと扉を閉じ、誤って入って来る者のないように鍵をかけた。部屋の対角では再びシューシューと煙を噴き出すような「呼吸音」が響き、眩暈のするほど強い花の香りが漂い始めていた。一歩、また一歩と相手を刺激しないように歩みを進め、不気味な息遣いを背後に感じながらソファに腰を降ろした。ずるり、と床の上で何かがのたうつ湿った音。ぺたり、と背もたれに何かが這い上がる生々しい音。
「……ピーは行ったよ。ただの事故だ、お前が気に病むことじゃない。それより、早いとこ元に戻ってみんなと合流しないとな。今日のライブは最高だった……お前がいてくれたおかげでさ」
視界の外で響くおぞましい物音から、必死に意識を逸らしつつ声をかける。人智の及ばぬ外宇宙の邪神、その一端を担う存在を前にして、生物として本能的に感じてしまう恐怖を隠すことはできない。声の震え、布地に伝わる体の震えから、敏感な彼もそれを感じ取ってしまうだろう。しかし……だからこそそれを誤魔化したくはない。仲間だから怖くない、などと上辺だけのことは言いたくない。恐ろしい、気が狂うほど恐ろしい───そう感じてしまうからこそ、そんな思いをしてまで彼と、ともに在り続ける理由を伝えたい。
「……『そんな』になるまで、頑張ってくれてありがとう。俺らのために、ファンのために全力で、楽しいライブを作ってくれてありがとう。それを楽しんでくれてありがとう。
次もこれくらい……お前が楽しくて楽しくて、うっかり人の形を忘れるくらい、でかい祭りになるといいな」
ひたっ。ついに背もたれを乗り越えた触手の先端が、後ろから彼の喉元を捉える。ぞわぞわと圧迫感すら伴う気配がなだれ落ち、腰かける彼の体を背後から飲み込んでいった。濃い薫香に意識が霞み、体が痺れる。全身に嫌悪からくる鳥肌が広がるのを感じながら、それでもコタンダイオウは微笑んだ。仲間だから怖くない。そんな上辺だけの台詞は言えないが、彼にはたった一つだけ、胸を張って言えることがあった。
恐ろしいぐらい、何ともない。おぞましいくらい、何でもない。こんなにも最高の「相棒」と共に、最高のライブができるのなら……気が触れるくらい、安いものだ。直接確かめたことはないが、他の仲間もそう言うだろう。それを絆と呼ぶのか、はたまた狂気と呼ぶのかは分からない。ともかく彼らは、かつて世界に置き去りにされ、いつか世界を置き去りにする彼のことを───外宇宙からの侵略者を、心から愛しているのだった。
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