覇王と、騎士と
「───『覇王』様! 次のご準備をお願いいたします!」
みるみる空になっていく食器に目を見張り、口と同時に忙しなく手を動かしながら、メリュジーヌは眩しそうに窓の外を見やった。
山際から一直線に差し込む光が、瞼にはびこる眠気を取り払っていく。時は流れて翌朝……まだ陽も登らぬ時間に六本城学園の寮の一室へと呼び出された彼女は、今の今までその部屋の住人とともに「下ごしらえ」に追われていたのだった。何の、といえば面前に広がる景色がその答えである。備品を総動員して普段の三倍ほどに広くなった机上にずらりと並ぶ皿、皿、皿。室内をうっすら温めるほどに激しく、天井の排気管を抜け通る熱気。それから、
「……んんん……んぐーっ!」
ものすごい。凄まじい。自分が知りうる限りの形容ではとても足りない。少々俗っぽい言葉を借りることになるが、一言で表すならまさしく「えげつない」勢いで盃を空けていく、ざんばら髪の『黒騎士』。
「フハハハハ! 滾る! 滾るぞ!! 今まで我が
バタンと激しく扉を蹴り開ける音に振り向けば、次の「一波」を携えたペイヴァルアスプがカートを押してくる。ついぞ見たことがないほどテンションが上がっているその様は、絶えず体を動かし続けている興奮か、はたまた睡眠不足の裏返しか。けたたましく吼えながらテーブルに横付けされたカートの上には、ほくほくと湯気を立てた五人前ほどの食事が並んでいる。……従者コースにて主君を満足させるため料理の腕を磨いているメリュジーヌですら、思わず食指が動いてしまうほど素晴らしい出来だ。
しかし感心している暇もなく、視界の外から伸ばされた腕が食器の端を掴むと、あっという間に引き寄せて口の中へ収めてしまった。黒檀のような瞳がきらきらと輝く。息継ぎをする間さえ惜しそうに、もっと寄越せと嗄れた喉が唸る。この一時間ずっと繰り返されてきた光景だ───死んだように沈黙していた「顔」がバッと目を見開き、叫び声とともに飛び起きた、その瞬間から。
「……ペイヴァルアスプ様。
その……従者の身でこのような事をお聞きするのは野暮かと思われますが、なぜ我々はこうして……あなた様を襲った不届き者に食事を与えているのでしょう? 昨夜あの者が口にしたことを、信じておいでなのですか?」
「信じる信じないの話ではない。奴の言葉に興が乗っただけだ。
面白いと思わんかね───自分の握っている粗末な剣が、怪物を殺めうる唯一の武器であったとは!」
高らかに笑い声を上げ、次々と皿をテーブルに広げるペイヴァルアスプ。それを片端から平らげていく『怪物だったもの』は、食べることに夢中で周りで何が起きても気にしていないようだ。ゆうべまさに血で血を洗う戦いを繰り広げた二人を前にしても、六本木に朝を告げるアナウンスが鳴り響いても、起きだしてきた生徒が廊下を歩く雑踏が響いても。カトラリーを棒きれのように握り、それを使うことさえなく塊のパンに食らいつくその姿はやはり、しかるべき機関で教育を受けた「留学生」には見えない。男が夜道で出くわしたのは、東京へ召喚されてから数日も経たぬ間だったのだろう。そしてそんな態度を目にしていると、昨夜見たものがいかに異様で、不可思議な現象だったかが思い出されてきた。
「……それにしても驚きました。まさか同じ世界に根差す、異なる時代の怪異が重なり合って『転光』しているだなんて。
『彼』の話が正しいとすると……今、ここにいるのは【フライング・ヘッド】の人格なのですね?」
「左様。奴は自分が意識を保っていられるのは、その顔が『神器』から出る血で濡れている間だけだと言っていた。短い時間の中で置かれた状況を把握し、自らの素性を語り……あまつさえ『頼みごと』など申し出るとは食えぬ輩だ」
「ええ……。一体何が目的なのでしょう。この者……『首』と我々が対話することに、どれほどの意義が───」
甲冑の空いた左手に素早く水の入ったコップを滑り込ませながら、メリュジーヌが嘆息するように呟く。その手際の良さに目を細め、問いかけに答えながらペイヴァルアスプがコンロから降ろした鍋を傾ける。相容れない関係にある二人が一致団結して食卓を整える姿は、まるで手のかかる子供の世話に追われる夫婦のよう。政略を常とする六本木の住人からは、非常に奇妙なものに見えていることだろう。
と、食器棚に残っていた最後のスープ椀に手をかけた時、部屋の中央でガタンと大きな音が響いた。それにつられて振り向いたメイドは、今の今まで食卓にかじりついていた黒い甲冑が立ち上がっていることに気づき警戒の色を示す。素早くスマートフォンを取り出そうとする動きを、カートの手前に回り込んだペイヴァルアスプが手ぶりで制した。促されるまま「転光生」のほうを見ると、彼は逆さまに掴んだままのフォークに無言で目を落としている。そしてゆっくり顔を上げ、伸び放題の前髪の隙間から部屋の中を窺った。視線が真っ赤なカーペットから樫造りのテーブル、そこに積み上げられた空の食器を滑り、そして───
「……う……?」
なんともいえない不思議そうな顔で、傍らに立つ二人を見つめたのだ。
「如何した、『はぐれ』。まだ足らぬか?」
呆れたように、しかしどこか満更でもない様子で笑いながら、ペイヴァルアスプが惚けた横顔に声をかける。その声に反応してこちらを振り向いた黒はわずかに唇を動かしたが、メリュジーヌが水差しを机に戻す音で目線を逸らしてしまう。きょろきょろと落ち着かなく周囲を見回し、ふたたび自分と目が合ったのを確認してから、再度「おい」と呼びかけてみた。見開かれる黒曜石の瞳。鋭い牙が覗いている口がはくはくと空振りし、それでも何か言いたそうに、訴えたそうに震えて、そして。
「……だれ? ……ここ……どこ?」
至極当然の、今さら過ぎる疑問を発した。
「!? ペイヴァルアスプ様! この者は……」
「うむ……『奴』の言った通りだ。
飢えが満たされれば【首】も自我を取り戻し、対話が可能になると」
驚きに甲高い声を上げてしまうメリュジーヌに、男は頷き返して顎をさすった。やはり彼の言葉は正しかったのだ───あの『黒騎士』が言っていたことは。黒髪に生臭い赤をしたたらせながら、冷静に、誠実に胸の内を明かすさまが蘇る。ペイヴァルアスプは目の前の「転光生」の様子にひとつの確信を得ると、ゆっくりと歩み寄ってその目の前に屈んだ。昨日の戦いで蛇の頭を噛み切られた距離。何が起きてもいいようにと、メイドがそっと後ろ手に携帯を掴む気配がする。
「……『お早う』。異邦より来たりし飛頭蛮よ、俺の顔に覚えはあるか?」
「うぅ……あ?」
「……では、これには?」
「───!! あ、あ……ヘビ! 火ふいてきてこわいけど、おいしかった!」
気付けをするように頭を振る対面で、状況には似つかわしくない挨拶をする。相手はぽかんと口を開けて見つめ返すも、出会った時のように問答無用で喰いついてくることはない。自らの顔を指さし問いかけてみるが、唸りながら首を傾げるだけで、あまりピンときていないようだ。
ならばと右肩越しに伸び出てきたのは黒鱗の大蛇。スルスルと細い舌をなびかせる様を目にして、「転光生」がさっと顔色を変える。椅子の後ろへ隠れて警戒を示すが、その口が叫んだのは拍子抜けするほど意外な表現だった。一瞬だけ目を丸くしたペイヴァルアスプは、直後にのけ反って笑いはじめる。つられて大きく口を開ける蛇たちの喉元で、逆立った鱗がジャラジャラと音を立てた。
「フハハハハハッ!! 成る程、聞いていた通りの『救えなさ』だ!
空飛ぶ頭……ダグァノエニエンの行動原理は生物を襲い喰らうこと。識別できる情報は『味』くらいのもの、覚えているのは『喰うのに苦労させられた』エピソードだけだ。確かにこれから食らってしまう相手の顔や名前など、いちいち覚える必要はないからな」
「か、感心している場合ではありません! それほど認知がかけ離れている相手と、どのようにして会話するというのですか?」
「まあ待て、面白いのはこれからだ。奴によればこの者はまだ、『そういう生き方』しか知らぬ状態。自分を取り巻く環境が変化し、まったく新しい別の道があると知れば、否が応にも変わらざるを得なくなる。……かつて、この俺が然うであったように」
テーブルを叩き、呑気に笑い転げる緊張感のない姿に、メリュジーヌがたまらず突っ込みを入れた。半ば𠮟りつけるような口調で発されたそれを、変わらず飄々とした態度でかわして男は身を屈める。相手の顔へと手を伸ばし、手にしたナプキンでそっと汚れを拭ったその瞬間、その頬になんとも形容しがたい
「ところで、『はぐれ』の。もう食事はいいのか?」
「え……?」
「腹を空かせていると聞いて、ささやかながら用意させてもらった。いやはや、先ほどの喰いっぷりは見ものであったぞ。こちらとしても非常に気分の良いものだ。必要とあらば追加で拵えるが……どうだ?」
「───…………。」
手を貸して立ち上がらせるついでに、なるべく優しい声音を心掛け、口にしたのはそんな問いかけ。虚を突く質問に「転光生」はますます混迷の様相を呈したが、ナプキンで擦られた頬の感触でようやく自分が何をしていたのかを思い出したようだ。ゆっくり視線が積み上げられた空の皿、そして卓上コンロの上で温められた鍋へと移っていく。少し潤んでさえいるように見える目が、緩慢な動きで前へ向き直り、ペイヴァルアスプのそれと、両肩の蛇たちのそれとも交互に重なった。頭の中に渦巻く疑問を、動揺を的確な形にする術を持たない彼は、フォークを握ったままの拳で額を叩き……たどたどしく声を発し始める。
「……へん、だ。……なにかが……なんだかへんだ。
うまいのに、こんなにうまいのに、ずっとずっと食べてたいのに───もういらない。ここにあるだけでいい。ヘビだってすごくうまかったのに、今はあんまり食べたくない。こんなの……へんだ。どうして、どうし、て……」
「……其れが『満ち足りる』ということだ。『からだ』に繋がれたことによって、貴様が新たに手に入れた感覚だ。
そしてその感覚を得たことで……貴様には考える余裕ができる。獲物を食らう以外のことに、ようやく目を向けることができる」
がらがらに擦り切れた言葉が、震える唇からこぼれて床に落ちる。周囲に立つ二人にも辛うじて聞き取れるか否かという呟き。どうやら食事の手を止めたことに、自分自身で驚いているらしい。あまりのショックにふらつく様子を見せたので、慌ててメリュジーヌが椅子をその背後に滑らせる。どすん、と甲冑の重みに任せて座り込んだ彼は、まだ温もりの残っている口元や上気した頬、そして前髪に隠れた目尻をこすって戸惑いの声を上げる。幼子のように身を震わせるその肩に、静かに手を置いたのはペイヴァルアスプだった。変わらず不敵な笑みを湛えた彼は、ゆっくりと、まさしく噛んで含めるような口調で語り出す。
「───ダグァノエニエン。最初に出会った時、また演習場へ連れ込んだ時に……手荒な真似をして悪かった。貴様が如何様な存在であるかを、当時の我々は知らなかったのだ。
貴様は空を飛びまわり、人を喰う存在として信仰を注がれてきた。出くわせば命はない、血に飢えた怪物───そう云うものとして設計され、そう云うものと認識され、そのように振る舞ってきた。……そんな存在に『満足』という感情など不要。
だが……自覚する機会がなかっただけで、貴様の中にも知性はあった。『転光』の資格を得る存在は、程度の差はあれ幾ばくかの知能を持つ。己が内の智に気づかされ、その上で大きな『後悔』を残したからこそ───貴様は呼び声に応え、この
うつむいた顎に指を添え、上向かせた顔を覗き込む男。彼の言う「新しい感覚」に打ちのめされながら、「転光生」もむさぼるようにその言葉に聞き入っている。底抜けだった腹が満たされたことで、ようやく取り戻した思考力で男の言葉を噛み砕いていく。そしてその口からとある単語が出たとたん、ざんばら髪の向こうで黒い瞳が大きく揺れた。
故郷に残してきた、悔恨。その意味を理解すると同時に、見開かれた目に涙が浮き出るのが見てとれた。じわじわと瞼に溜まった雫はやがて溢れ、その頬に一筋の跡を作る。ぽつり、漆黒の鎧に落ちたそれを目で追って、彼はその理由さえ思い浮かばないまま混乱に拳を固める。
「あ、ぁああ……あ?
クイ。コウカイ。……おなじだ。『あのヒト』が言ってたのとおなじ。あのとき、あの女のヒトが……おれにむかって言ったことと。
バケモノって。カイブツって。ヒトのことばは分かるくせに……ヒトのこころが分からないから、おれのこと……ゆるせないんだって……」
そう震える声で呟くやいなや、「転光生」は口の端を歪め、背中を丸めて泣き始める。昨日は理性など欠片もないように暴れまわり、数分前まで猛然と食事をしていたと思えば、今度はしおらしく泣き崩れてみせるその忙しい様子に、ペイヴァルアスプは少々面食らったように眉を吊り上げた。しかしこれで得心入った。やはり東京へ召喚されるにあたって、彼の中には何がしかの未練が残っているのだ。それも恐らく……肩口の蛇を恐れたのと同じ、強いトラウマに結び付いた記憶が。
頭を抱え、震え出すその様が哀れに映り、ペイヴァルアスプはテーブルの対岸にいるメリュジーヌと目くばせをしてその背に歩み寄る。散々にもてなし、その口から意味のある言葉を聞くことで初めて、ようやく二人もこの「首と体」の背景にある事情を理解しかけていた。奇妙なものである。あのとき公園で出くわしたのが並の人間であったなら、あっという間に食われてしまっただろう。運よく急襲を跳ね除けられる「転光生」であったとしても、後始末などは警察に頼る他なく、会話のチャンスは失われていた。最初に鉢合わせたのが六本木の主人コースに通う、物好きな「転光生」ペイヴァルアスプだったからこそ……歪ながらも話し合いの席が設けられたのだから。
ぽとぽとと天板の上に水溜まりを作り、なお止まらない涙を拭ってやろうと、ペイヴァルアスプは右手を伸ばし、もじゃもじゃに絡まった「転光生」の前髪を持ち上げる。少しは気を許してくれたのか、それとも前髪が邪魔になっている自覚がなかったのか、鼻先を触れられても嫌がる様子はない。そうして顔の上半分を覆っている、長い黒髪が取り払われたのであるが……その下から現れた「人食い生首」の顔貌を目にして、相対する二人は息が止まるような衝撃を覚えた。長きにわたって人々を脅かし続けた怪物なのだから、おどろおどろしい見た目をしていて当然と言えようが……そうではない。その顔は、無造作に搔き上げた髪の奥から現れたその顔は───
「───かっ……!?」
「……ほう」
大国の王として民に囲まれ、またその身に課された業により「一日二人」、合計にして七十三万の人間の顔を見てきたペイヴァルアスプが、思わず瞼を細めて感嘆の息を漏らすほど。幾多の恋に破れ、もう二度と愛炎に身を焦がす真似はしまいと誓っているメリュジーヌまでもが、思わず目を逸らし、頬を赤らめてしまうほど。
そう。この世のものとは思えないほどに……「美しかった」。
すっと通った鼻筋、力強くアーチを描く太い眉、淡く色づいた厚い唇。前髪の隙間から時おり見えていた目は、吸い込まれそうに艶めき黒々と輝いている。眩しさに覚束なく瞬きをするそれは、東京の人間の審美眼にも十分に敵いうるものであった。早い話がイケメンである───万人を襲い、喰らい尽くす『役割』を課された怪異は、いったい何の因果だろうか、万人を唸らせる凄まじい美貌を持っていた。
「……。」
「…………。」
「う…… う?」
あまりの驚きで先刻までの話題が飛んでしまい、無言で硬直するペイヴァルアスプ。反射で声を上げたきり、視線も合わせられなくなるメリュジーヌ。そんな二人を交互に見比べ、目をぱちくりさせている「首」。顔を合わせるやいなや相手が動きを止める景色は当人にも覚えがあるようで、何かを思い出したのか一層に悲しげな表情を作る。取り落としたフォークがからりと床を弾く音を合図に、ようやく金縛りを解かれた「覇王」は、気を取り直して甲冑の肩を強く掴んだ。
「よい、もう泣くな。貴様が過去に何を見てきたかは知らぬし、今のところは興味もない。ともかくこれではっきりした───かの『頼みごと』の全容がな。
飛頭蛮。我々はある者に
「? あ……ある、もの?」
「然うだ。よく聞け。それは貴様にとって『最も近く』、そして『最も遠く』に居るモノ。すなわちその身体───鎧をまとった『首から下』。
貴様の首に接続されているのは、信仰の礎をまったく違える存在にして……その根源たる世界を同じくするものだ。告死の亡霊、首無しの怪異、またの名を……【スリーピー・ホロウ】」
「……ッ!?」
がんっ。衝撃に目を見開いた「首」の眼下で、驚きに跳ね上がった肘が、皿を積み重ねたテーブルの角へしたたかに打ち当たった。ペイヴァルアスプの語る声に返す言葉もないまま、「転光生」はうずくまって
昨晩の戦いや先刻の食事においても、時おり身体が動いている場面はあった。しかしそれは能動的な行為というより外部からの刺激や衝動からくる反射のようなもので、「首」のほうは体を操っている認識はまったくなかったらしい。面食らったように震える手を顔に押し当てる。ゆっくり首から胸、腹、腿の輪郭をなぞり、重い鎧の隙間に掌を這わせる。こわごわと力を込め、五本の指を握りしめる。
「から、だ……これ、これは、そういう、もの? 気がついたらくっついてて……じゃまだから食べちゃいたかったけど、かじったらすごく痛くて───
これじゃおもたくて空とべない。けど、この下のぼう、かってに動いて運んでくれた。すべっていわから落ちるとき、上のぼう、顔のまえにきて守ってくれた。
わかる。これは……おれじゃない。おれのものじゃない。別のなにか……おれとは別の、だれか。
ホロウ───。それがこれの、このからだの、なまえ?」
「ああ。貴様には想像のつかぬことであろうが……その【亡霊】は貴様が眠っている間に目を覚まし、俺たちと会話をした。その際に頼まれたのだ……伝えてくれと。その体躯が、その黒き甲冑が抱えた『役割』を」
うつ向いた顔をぐっと持ち上げ問いかける声に、ペイヴァルアスプは深く頷いた。自分に四肢があることにも気づかず、満足という感情さえ知らなかった相手。この
「……やく……わり」
「そうだ。その名と命に課せられた、斯く在るべしという筋書き。ある者にとっては運命であり、ある者にとっては忌むべき呪い、生き方を縛る枷である。しかし『彼』にとってそれは……無上の誇りであり、遠い憧れだった。
【騎士】───それがかの者に課せられるはずだった『役割』。死を告げる
漆黒の騎士と呼ばれながら、騎士として生きたことのないかの者は……形骸化した称号に憧れ、ひたすらに乞うた。『誰かの手となり足となり、その道往きを支える存在になりたい』と」
「! まさか……それ、が」
「『貴様』だ。物理的に手を貸すことになるとは思わなんだが、結果的にかの者は貴様を『主』に見立てた。故郷の機構に組み敷かれ、思考することさえ許されなかった貴様の立志をこそ、支えるに足る『夢』と定めたのだ。
貴様が自分なりの生き方を見つけ、幸福を掴むことは奴の願いでもある。故に貴様は知らなければならない。この世には人を襲い喰らう以外にも、幾多の選択肢があることを」
生唾を飲み、緊張の面持ちで呟くさまを見つめたその時、ビルの隙間から朝日が一直線に差し込んでくる。眩しさに顔をしかめる『首』だが───その瞼にすっと影がかかる。見れば籠手をまとった左腕が持ち上がり、強い日差しを遮っているところだった。『首』は数秒呆気にとられてその手の甲を見つめていたが、ふいに目を伏せ思案にふける。ずしりと重い鎧の感触を、額で味わいながら考える。
「……ホロウ、……ホロウ。
おれのこと、まもってくれるのか。おれはおまえのこと知らないのに。なんにも知らないで、おまえのからだ使って、ヒトをおそったり……してたのに。
キシドウ───自分じゃないだれか、まもるために生きること。それでしあわせ? おれにからだをとられても、かってに使われてもいいぐらい、しあわせ……?」
知らなかった感覚、知らなかった価値観、知らなかった生き方。物心ついたばかりの脳には、あまりにも複雑で難解な現実。眉間に皺を寄せ考え込むも、いっこうに答えは出ない。
数分はそうして唸っていたろうか。彼はやがて目を開き、緩慢な動きで窓の外を見やる。先ほど瞳孔を刺した朝陽を指の隙間から眺め、自身に問いかけるように、言い聞かせるように独りごちた。決して誰にも理解できないであろう、突飛とさえ思える結論を。
「───そっか。
そっか。……そっか、それじゃあ」
「……うむ?」
ごり、と甲冑の膝が床を擦る音に目を落とした瞬間。ペイヴァルアスプは眼前に広がった景色を、幾多の「記憶」に重ねて寒気すら催した。懐かしく誇らしく、忌まわしい光景。慈しむべきか忌避するべきか、自分でも決めあぐねている骨身に沁みついた情景。
片膝を立て、片手を突き、頭を垂れた姿はまさしく『従者』の出で立ち。その体勢が目上の者に忠誠を誓う構えであることを、もちろん彼は知らないだろう。出来すぎた偶然に固まってしまう、かつて玉座にあった二人を見据えて、『首』は胸元に当てた掌に力を込める。初めて抱いた感情を、嗄れた声に乗せて発する。
「ホロウ、おれのユメをささえるって言った。でもおれ……自分のユメ、わからない。ひとのこころが分からないから、ひとのみるユメ……わからない。
だから───ホロウのユメのために生きたい。おれのために生きてくれる、おれじゃないひとのために、おれじゃないひとを支えたい。
へびのヒト。……足りないおれを満たしてくれた、はじめてのヒト。
ホロウに支えてもらったおれが、支えるとしたらおまえだ。おまえのために生きてみたい。おれを、おまえの騎士にしてほしい」
ただただ底抜けに、まっすぐに、一分も逸らすことなく向けられる視線。その瞬間、蛇鱗を侍らせる緋色の覇王は、「蛇に睨まれた蛙のごとく」その身を強張らせた。困惑と混乱が脳裏で激しくぶつかり合い、様々な感情が火花のように犇めいては形にならずに溢れていく。こぼれ落ちる。わずかに開いた口唇の隙間から、弾む吐息に合わせて音が漏れる。
「は……、───は、はハハハハハハハハッ!!」
白黒に褪せた視界がぐらりと揺れて、四肢に大きな衝撃が走った。自分が膝から崩れ落ち、テーブルに突っ伏していることに気づいたのは数秒後だ。麻痺した聴覚が次にとらえたのは、部屋じゅうを震わせるほどの大声と、それでも衝動を晴らすには足りず、天板へ拳を打ち付ける音。
───そこには柄にもなく床にへたり込み、手を叩いて笑っている自分がいた。顔を赤くし、涙さえ浮かべて大笑いするひとりの人間がいた。そのことに気づいたのはさらに数秒後だ。跪いたまま目を丸くしてる甲冑と、驚きに立ち尽くしているメイドが、視界に並んで映った後だ。よろよろと立ち上がる背に、近寄ったメリュジーヌが心配そうな顔をする。面食らってしまうのも無理はない。彼の心境の変化は恐らく、彼自身にも説明のつけられぬものだ。
「ペイヴァルアスプ様!? 如何されたのですか、突然……」
「ひっ……ふ、くくく……! これが如何して、笑わずになど居られるものか。恐怖の帝王ペイヴァルアスプに、自ら従属せんとする者が現れるとは!
なんたる不遜!! 恐れに依らず、畏れに依らず───己が望みのために
サクソフォーンの音色にも似た甲高い声質の呵々大笑は、それからたっぷり数分続いた。まともに息をするのも難しく、両肩の蛇が酸欠でぐにゃりと頭を垂れるまで続いた。
天井を仰ぎ、ようやく大きな一息を吸い込んだ男の頬を、温かい雫が細く伝う。それは笑いすぎによって絞りだされた涙か、それとも。その真意を確かめる間も与えず、赤黒い影はすっくと立ちあがりメリュジーヌを振り返る。自身と似通った瞳孔を持つその灼眼は、寸前までの乱れぶりを微塵も感じさせない決意と威厳に満ちていた。
「───これほど愉しかったのは生まれて初めてだ。ドラゴンメイドよ……共に厨房に立った
「は、はい。なんなりと」
「……三年前、保留にした入学手続きの書類を完成させたい。まとめて持ってきてくれ」
「かしこまり……え?」
倒してしまった椅子を立て直しながら向けられた軽い調子の言葉に、素直に返事をしかけて声が詰まる。あまりにも自然に発されたその話題は、彼がこの六本城学園へ入学してきてからというもの、何かと理由をつけてのらりくらり避け続けてきたものだったからだ。今朝この部屋へ呼び出されてから、いや昨夜に本来の主から命令を受け、夜の公園へ足を運んだ時から、いったい何度己の耳を疑ったことか。恐る恐る聞き返す声は、相手の意図が読めない不安で図らずも震えてかけていた。
「覇王様。その書類というのは……」
「うむ。『主人』コースへの入学にあたって、条件になっていた『従者』の登録申請書だ。
俺は決めたぞ───この者を我が配下とし、傍仕えを任せるものとする。先輩として手本を見せ、従者たるものの振る舞いを骨身に叩き込んでやるがよい」
「まさかそんな……ええっ!?」
「ハハハハ! 何を面食らった顔をしているのだ!
いいから往け。不敬であるぞ?」
「は……はい!」
そしてその不安は、やはり思いもよらぬ、しかし思いつく限り最悪の形で実現する。彼はこの学園、ひいては六本木ギルド内にも少なからず影響を与えるであろう異端分子を、嬉々として懐中へ引き入れようと言い出したのだ。……しかも自分を直属の先輩、つまりは従者の心得を教え込む教官役にまで仕立て上げて。
唖然とするあまり自然と抗議が飛び出しそうになって、彼女は慌てて舌を噛み、上げた声から辛うじて反意を漉しとった。とどめを刺すかのように瞼を細める覇王の、かつて見た悪戯っぽい笑顔。こうなるともう如何しようもない。メリュジーヌは大きな深呼吸でどうにか溜め息をごまかし、エプロンの裾を持ち上げて恭しく礼をすると、廊下につながるドアを潜って事務室へと向かっていった。
一瞬しんと静まり返る室内。ペイヴァルアスプは床に落ちたフォークを拾い上げ、トレーに戻すついでに跪いた黒鎧に手を差し伸べる。ゆっくりと、一つ一つの動作を確かめながら、まっすぐに目を見つめ返した「首」が掌を重ねてきた。ぐ、と荷重を預けて持ち上がるその身体は、羨ましいほどにたくましく、温かかった。
と……その瞳を眺めていた数秒後に、男の脳裏にある人物の姿が過る。眩しい逆光の中で振り返る無邪気な笑顔が思い出され、胸の底でわくわくと小さな予感が膨らみ出す。この「報せ」を伝えれば、彼はきっと───。そう思うとじっとしていられず、甲冑から離れた彼はその手でスマホの画面を開く。
「……やあ、『白紙』の。急に掛けてすまない」
流れるように立ち上がった「アプリ」、流れるように選び出されたアイコン。二度三度の通知音が空振ったその後、電波の向こうに待ち人の声を見つけて、ペイヴァルアスプは優しさに満ちた声をほころばせた。それは面前の「転光生」に見せたものとは少し違う……最も近しいものに例えるなら、遠方に住む「兄弟姉妹」に向き合うような。
「……いや、大した用ではないのだが。
少々面白いモノを拾ってな。お前に、見せたいと思ってしまった」
何事かと尋ねられたのだろう、肩を竦めて困ったように笑いながら、ペイヴァルアスプが改めて背後の黒を見やる。親愛の色を浮かべた深紅の瞳は、何も知らずこの東京の地に放り出された「首」にはとても美しく見えた。
あの端末の向こうには、いったい誰がいるのだろう。
自分の「あるじ」となったこの豪傑に、こんな顔をさせるような人物。自分も会ってみたい。会って、話をしてみたい。
かすかな憧れに目を潤ませ、ゆるゆると瞬いた彼の素朴な願望は───
この日からそう遠くないうちに、実現することとなるのだった。
(完)
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