覇王と、騎士と
「───よかろう。降ろせ」
演習場Bの扉が開くなり、端的に発される声。それを合図に男の脇を歩いていたメリュジーヌは、肩に背負った「荷物」を踏ん切りをつけて部屋の奥へと放り投げた。一応は丁重に扱えと言われていたのだが、そんなことを気にしている余裕などない。抱え上げた「それ」があまりにも激しく暴れ、もはや手の付けようがなくなっていたからだ。
どすん、ごろごろ。もんどり打って転がり、広い演習場の中ほどで止まったその塊は、なおジタバタと手足を動かし呻いている。気丈にもたげた頭、長い前髪の隙間からぎらつく目が覗いた。……六本木の支配者コースに通うペイヴァルアスプが、先ほど夜道で襲いかかってきた「はぐれ転光生」を連れ帰るよう命じてから、まだ十分ほどしか経過していない。
「がうッ……うあア゛……!!」
「ふむ、それにしても活きの良いことだ。弱って満足に動けないにせよ、まだ威嚇してみせる気概があるとは。
ドラゴンメイドよ、手間をかけたな。後は下がっているがよい。事の成り行きを遠くで見ていろ……それがお前の次の仕事だ」
「承知しました。しかし……何をなさるおつもりで?」
「フッ……こやつの素性を調べ、料理してやろうというだけだ。これほど無礼で野蛮な生き物を、単に危険というだけで
やはり会話の意思はなく、めったやたらに藻掻くその背を、ペイヴァルアスプのブーツの踵が踏みつけた。本人の不敵な笑み、そして両肩の蛇が口の端を曲げてみせるのが見え、背中越しに六つの目に睨まれたメリュジーヌは提言の機会を失う。元よりこの男の思想を理解しようなどとは思っていない。この学園の上層部の生徒に関しては、彼のような尊大な態度こそが当たり前なのだ。彼女は慣れからくる冷静さでそれを受け入れ、一礼すると壁際まで下がり、そこで起こる出来事をつぶさに観察することにする。
「───さてと。生意気な飛頭蛮よ、先はよくも我が『妻』に牙を剥いてくれたな。一度は許すと言ったものの、道中で目障りに暴れてみせるので気が変わった。即刻首を刎ねてやりたいところだが……あいにく貴様には意味がないらしい。
『転光』してきたばかりだとして、罪を逃れる理由にはならぬ。その蛮勇への温情として、せめて好きな刑罰を選ばせてやるとしよう。……磔、石打ち、火あぶり、生き埋め。さあ、何れにする」
「…………グ……う、ゥ……?」
「フハハハッ! 何を言われているか解らぬか? 自分の命が危機に晒されているというのに呑気なことだ。
そうだな……では例を示してやろう。火あぶりとはつまり『こういうこと』だ」
傍らに屈み込み、髪を掴んで引き上げる動作は本日もう三度目だ。ぐっと顎を逸らされ、顔を上向きにした「転光生」は、ペイヴァルアスプが囁く言葉を半分も理解できないようで、ただ呼吸に合わせて短い唸り声を上げるだけだった。その呆けた様子を愉快がり、高らかに笑い声を上げた「君主」はいよいよその嗜虐心を燃え上がらせる。手元でスマートフォンの画面が輝くと、右肩の蛇がするりと首を伸ばし、「転光生」に鼻面を突きつけて口を開ける。カアアアッ、と嘲笑うような息の音とともに、その喉奥から途方もない熱気が吹き出した。今にも強力な炎が吐き出され、骨まで焼き尽くしてしまうかと思うほど。
それに気づいた「転光生」の顔色が青ざめ、額にみるみる汗が浮き始める。熱気から遠ざかろうと首を引っ込め、体もわずかにだが拒むような仕草をしていた。どうやら見立てどおり、常人以上に強い「火」に対するトラウマがあるようだ。ますます興味を引かれたペイヴァルアスプは、さらに蛇を近づかせながらその顎をくすぐる。
「フフフ……
「うぐゥ……!? くび───から、ダ……ぁああ……?」
強く首筋を押さえつけ、火を吐く蛇との距離をさらに縮めながら詰め寄る。凄まじい熱に額を炙られ、浅い呼吸を弾ませる「転光生」の表情は、髪に隠れていながらも明らかに恐怖で引き攣っていた。ぐるぐる視線を泳がせ、しかし先刻のように首が浮かぶ様子もなく、ただ面前に迫った危機に震えているだけだ。玩具を手に入れた子供のごとく好奇心をみなぎらせていただけに、拍子抜けした時の落胆といえば言葉にしようがない。怪訝そうに眉を顰めるペイヴァルアスプだったが───その背後、部屋の対岸から彼らの様子を見つめていたメリュジーヌだけが、そこで起きている本当の「異変」に気づくことができた。
目を白黒させる、といった表現を絵に描いたような動揺ぶりを見せる「転光生」。彼女の立つ位置からだと、ペイヴァルアスプには前髪に邪魔されて見えていないだろう彼の目元が確認できる。半開きの口から過呼吸じみて息を吸うその顔に、しだいに焦りや恐怖とは違った色が混じっていくのが見て取れた。ガチガチ鳴る奥歯がやがて噛み締められ、何か途方もない痛みに耐えているような、腹の底に響く唸りを上げ始める。
やけに冷たい光を宿して敵対者を見上げる横顔。肩が大きく跳ねるたび、肌に触れる空気がざわついた落ち着かない感覚を伴い始めた。明らかな違和感を覚えたメリュジーヌは、後ろに回した片手を動かし、人知れず自身のスマートフォンを点灯する。回転する光とともに手の中へ現れた、「銃器」の持ち手へと指先が触れ、そして───
がりゅっ。
奇妙な物音と同時に、何かが弧を描いて宙に舞った。
「───っ、」
「あ」
ぼどん。その場の誰も耳にしたことのない、奇怪な音が届いた二秒後、重く湿った衝撃が床板を打つ。その瞬間にぱっと視界に飛び込んだ色味。あかあかと、なみなみと、磨きあげられたフローリングに散る水飛沫は、先ほど街灯の下で見たものと同じ緋色だった。
びしゃり。今度は足元でけたたましい水音が響き、半ば呆然として目を落としたペイヴァルアスプの目にも赤が映る。一点の染みもなかったはずのブーツの革地を汚していく、その黒々とさえした紅は─── その肩口からだらりと垂れ下がり、小刻みに痙攣する「頭のない蛇」の胴から溢れていた。
「……シャフル、ナーズ」
「ガア───ア……オオ゛オオオ゛ッ!!」
肌に当たる熱風がたちまち掻き消え、底冷えさえするような静けさが背後を満たす。あまりに突然のことで、その空白を知覚することさえ出来なかった。直後に響いたのは鼓膜が痛くなるほどの咆哮。それにハッと顔を上げたペイヴァルアスプの眼下には、こちらを睨む黒々とした眼と、血に濡れた犬歯だけが映っていた。
「避けて」───直後に耳朶を打った声は、敬語の体を見失った強い口調であったが、だからこそ端的に危機を脳へと訴えかけた。ほとんど無意識に足が動き、跳びすさる形で退いた脇をかすめていく一発の弾丸。ガキン!! 耳を覆いたくなるような金属音を発して、今にも男の首筋に沈もうとしていた牙が弾かれる。星のように散る火花、大きくのけぞる体。血だまりの上に影を落とすそれは、180センチを超えるだろう長躯にもまして、得も言われぬ威圧感を醸し出していた。
「ペイヴァルアスプ様!! ああ、なんてこと……」
「案ずるな。どうせ直ぐに再生する。
……俺としたことが、遊んでやろうとして少々不覚をとった。それにしても、奴のあの気配は何だ? 出会った時よりもずっと荒々しいではないか」
男が襲われたのを見て、とっさに銃で応戦したメイドが傍へ駆け寄ってくる。止めどなく血が溢れる蛇の残骸を前に言葉を失っている様子だったが、それに対して男の態度はひどく冷静だ。現に彼の言葉どおり、力なく項垂れた蛇の躯はびくびくと蠢き、嚙み切られた先端ではしだいに肉が膨らみ始めている。これこそが彼のヒトならざる者の所以───東京に生きる人間たちとは決して相容れぬ違い。その片鱗を目にして、人知れず身を強張らせた彼女の吐息を遮ったのは不気味な物音。べきっ、と固いものを力任せに押し割り、みちみちと革を引き裂くような音が、会話の間隙を縫って二人に届いていた。どちらともなく言葉を切って前へ向き直る。メリュジーヌが銃口を油断なく構え、照準を定めたその向こうでは、
「……グ……!! ァウ、ウ」
火照った体を引きずり、膝立ちになった甲冑が「蛇」をむさぼっていた。食い切られ、床に転がった頭を引き寄せ、無我夢中で血肉をすする人影。赤く濡れて束になった髪の隙間から、白目の部分が真っ黒に染まった眼がこちらを睨みつけている。常人ならその眼差しだけで心臓が凍ってしまうようなおぞましい光景。恐怖を覚え、問答無用で二度目の弾を放とうとしたメリュジーヌだが、その銃身に黒い手袋をはめた指先が覆いかぶさった。ゆっくりと拳銃を下げさせ、ペイヴァルアスプは険しい顔で対面の「転光生」を見つめる。その渋面の理由は痛みではない。相手の取る行動のすべてに納得がいかず、次に取るべき行動を決めあぐねているがゆえの逡巡。
メイドの銃弾は不意を突き、強襲を退ける役には立ったようだが、体に弾痕が見当たらないところを見るとダメージは与えられていない。先ほどのように毒を撒いてしまえば一応解決はするだろう。しかしこれほどまでに荒ぶる人外を無力化するためには、相当に濃い毒素を作り出さねばならない。ある程度の耐性がある自分はさておき、同行するメイドの無事を考えると迂闊に選べない方法だった。ならばどうやって─── かつて在りし異世界で、一国を治めた「暴君」であった彼の脳裏に、いくつもの強引な案が浮かんでは消えていく。……と。
「あ、あああ───『覇王』様。
畏れながら申し上げますが、今からでも学園に応援を……」
「…………。
……やはり妙だ。あやつはなぜ、俺の『妻』を喰っている?」
「えっ?」
「『蛇』だ───今や俺たちには目もくれず、一心不乱に蛇の肉を食んでいる。先ほどは地面に落ちた首より、近くにいた俺の命を狙ってきたというのに。それに攻撃が噛みつき一辺倒なのも変だな。首だけで動いたことといい、もしや……」
めきめきと鱗を引き剥がす身の毛のよだつような音に、悲鳴に近い声でメリュジーヌが提言する。しかしそれに答えらしい答えも返さず、男は顎に手を当ててひたすら思案を巡らせていた。そして蛇の真っ赤な目玉が引きずり出され、あえなく床にこぼれ落ちる刹那、とうとう手を打って立ち上がる。背中の半分を血に濡らした痛ましい姿でありながら、その目にはいっさいの不安を感じさせない揺るぎなき確信が宿っていた。
「───ドラゴンメイドよ。しばし銃器で奴の気を引け」
「はっ……はい! 承知してございます、その間に校舎へ」
「その隙に近寄って、奴の『神器』を奪い取る」
「お逃げになって───は?」
「多少の賭けだが仕方がない。首だけで飛ぶのが飛頭蛮の『権能』であり、その在り方の根幹だとするならば……」
落ち着いた声音で告げられた命令に、ようやく「主君」らしい判断が下ったと安堵の息を吐くメイド。主を守り、退路を拓くが従者の定めと、意気揚々とマシンガンを構えたのだが───与えられた指令はまったく逆の意図を持っていた。思わず素っ頓狂な声を上げ、怪訝な顔すらしてしまった彼女を振り返り、男は先ほどとまったく変わらない不敵な笑みを湛えてみせる。
「何を躊躇っている。銃弾ごときで倒れるようなヤワな体はしていない」
「あ、あの、流石に『転光生』といえど銃は……」
「いいから戦れ。不敬であるぞ?」
「───。……了解、しました」
ぐんぐんと準備運動を始め、本当に飛び出していってしまう構えを見せる姿に、動揺を隠せず重ねて注意をするメリュジーヌ。しかしその心配も、振り返ることさえないままぴしゃりと寸断される。だがそれは彼女の進言を無碍にするためのものではなく、自身の決定に並々ならぬ自信があるからこその却下だと分かる。からかうようなその声音に、図らずも悪戯っ子のような親しみを覚えてしまい、彼女は緩みかけた頬を引き締めて銃を構え直した。
「では往こう。
一度決めてしまうともう自分のペースだ。男は身を低くして故郷の言語でカウントを取り、有無を言わせず駆けだしていく。一瞬遅れてメリュジーヌも左方向へ展開し、走るペイヴァルアスプの背を追うようにして弾幕を放った。射線は外しているが、周囲の壁や天井、敵の甲冑で跳ね返った弾の行先までは計算できない。大きく回り込む男の体には幾つもの銃弾がかすり、その一つが不運にも頭に命中しようとする。しまったと息を飲む間さえなく、あわや大惨事かと思われたが───その刹那、横ざまに滑り込んできた左肩の「蛇」が、大きく開いた顎と胴体でその弾頭を受け止めていた。ばちゅっ、と軽い水音を響かせて砕け散るそれを意にも介さず、男はさっと血糊を払うと次の一歩を踏み出す。普段は「妻たち」と呼び慈んでいるそれらを、再生するとはいえいとも簡単に盾にし、自ら切り捨ててさえみせる。……その二律背反にも似た振る舞いこそ、彼女が数年前にこの地に現れた、このペイヴァルアスプという「転光生」に異様な感覚を覚える理由だった。
戸惑いながらも戦況は進み、男は瞬く間に弾痕をいくつも刻んだ甲冑の真後ろへと回り込む。鉛玉の嵐にはさしもの怪物も驚いたらしく、頭をかばって満足に身動きが取れない様子だ。メイドが新しい銃を取り出す動きを横目に、血濡れのブーツがついにその背を踏みしだいた。前につんのめって倒れ、身を起こすことができない相手に、勝ち誇ったような語気で言葉をかける。
「……どうだ、痴れ者め。貴様が斯様なモノであろうと、人型をしている限りこの角度からは振り向けまい。
一度ならず二度までも、人の『妻』に手を出しおって。百度死んでも償えぬ狼藉だ……相応の罰を受けてもらわねばな」
くっくっと肩を震わせて笑うその手が、床に押さえつけられた「転光生」の首元へ伸びる。そこに提げられていたものを取り上げてみれば───それは遠い異国でスキットルと呼ばれている、軍用の小さな酒瓶であった。振ってみると一杯に液体が詰まっている音がする。これが貴様の、「体」の『神器』か。そう呟いて凄みのある笑顔を浮かべたペイヴァルアスプは、それを手に取るや迷いなく栓を抜き取り、それを「転光生」の頭上へ掲げた。物理的に取り外されたとたん、水を得た魚のように暴れまわった生首。その様に違和感を覚えていた彼は、攻撃を搔い潜りながら相手の胴体を注意深く観察する。そして見つけた……降り注ぐ弾丸の中、不器用にうごめく体が頭のほかに唯一守っている箇所を。稀なケースではあるが、異なる部位に二つ以上の『神器』を携える「転光生」は少なからず存在する。
……余談だが、この演習場Bは『貸借』の権能を持つ「転光生」の力によって特殊な結界が張られている。この演習場において、各人の持つ『神器』は他人の手によってそのまま起動・使用することが可能になる。つまり相手に『神器』を奪われれば、自分の能力をぶつけられて死ぬ目に遭う危険があるのだ。六本木ギルドが戦力を拡充するにあたり、イレギュラーな戦況に対処するべく設定された環境だったが……こんな形で役立つ時が来ようとは。
「血肉をむさぼる怪物の、後生大事に抱えるものが酒瓶とは笑わせる。
それほど飢えているならば───血を飲む前に、これでも飲め!」
とどめと言わんばかりに哄笑をこぼし、踏みつけにしていた足を退けるペイヴァルアスプ。すぐさま起き上がってこちらに向き直る「転光生」だが、その怒りに満ちた顔面に、スキットルの中身が滝のごとく降りかかるほうが早かった。とても小さな小瓶に詰まっていたとは思えない勢いで、どぼどぼと注がれる液体。その色味を目にして、男とメイドの目が一様に見開かれる。「血の代わりにこれを飲め」とは、皮肉のつもりで言った語であるが───瓶の中からこぼれ出たのは、彼が口にしたよりもさらに真っ赤な、まさしく鮮血と言うべき血潮だった。
唖然とする手の中で小瓶は血を吐き出し続け、目測で500ccほどを垂れ流したのち空になる。ポタポタと幽かに雫の落ちる音が響くが、しばらくはペイヴァルアスプ、メリュジーヌ、そして座り込んだ「転光生」、そのいずれも声を発することができなかった。周囲はもう殺人現場と見まがうばかりの惨状である。掃除に追われる数分後の自分に思いを馳せながら、メイドは気が遠くなるような思いで事の次第を見守るほか無かった。
「…………ふ」
「───!」
たっぷり一分ほどが経過したその時、頭を垂れていた「転光生」の喉元から息の音が漏れる。それに合わせて体もぐらぐらと揺れ、指や足先が感覚を確かめるように動き始めた。何が起こるかわからず警戒の色を示す二人の前で、ゆっくりゆっくり「怪物」だったものが顔を上げる。蛇の頭を食らっていた時とは比べ者にならない量の血に濡れ、しとどに雫を降らせる黒髪を、震える両手が掴んで掻き分けていく。だが───その下から現れた目には、不思議なことに先ほどまでの狂気は滲んでいなかった。理性の光が宿る、黒く澄んだ瞳。顔じゅう血染めになっているにも関わらず、その人物はとても「人間的」に見えた。
「───や……あ、こんばんは。
さっきはすまなかった。とてもとても、腹が減っていたんだ」
唸り声を吐くのみだった唇が震え、しっかりと聞き取れる言葉をつづっていく。無闇にばたつかせるだけだった足を組み、振り回すだけだった腕を差し伸べて、今までの非礼を詫びながら頭まで下げてみせる。明らかにこちらとコミュニケーションを取ろうとする動きだ。事態がまったく飲み込めず目を瞬かせる二人に向き直り、「それ」は再三の咆哮によってがらがらに掠れた、しかし確かな意思と自我を感じさせる口調で告げた。いくつも血の筋がついた甲冑の胸に、誓いを立てるかのごとく拳を当てて。
「さて。何から話せば……ああ、名前を言えばいいのか。
俺はホロウ……『スリーピー・ホロウ』。
古き大地の