覇王と、騎士と
……夜の港区・六本木。駅から徒歩二分の距離にある三河台公園の敷地内を、ゆうゆうと行く人影がある。街灯の灯りで時おり光る、金ボタンのついた白い制服。後ろに長い影を侍らせ、大股に歩くその姿は実に堂々としていて、一目でそれが近くにある六本城学園の生徒───それも「主人側」のクラスに位置する存在であることが窺い知れた。
重心の低い、どっしりとした佇まいで歩むその人影は、学園の寮へ戻るところであろうか、遠目にも見て取れる上機嫌な様子で街路樹の角を曲がる。その瞬間、二本目の街灯の光がその姿をくっきりと映し出した。艶やかに塗れた黒髪、額に生えた二本の小さな角、切れ長の瞳孔をそなえた赤い瞳。ひとり闊歩する「男」の風貌は明らかにヒトとは異なり、薄暗い街灯の下でも異様に人目を引いた。しかしそれは単に、彼がこの東京に溢れるヒトならざるもの……「転光生」であるという事実に限らない。威風堂々とした態度とは別の理由で、その者は街ゆく人々の目を集め、多少なり驚愕……または緊張させる要因を持っていた。
「───、」
じゃり。革靴の底が並木道を踏む音を耳にした直後、彼はふともう一つの「物音」をとらえて立ち止まる。片脚を引きずって歩くような偏った足音。そしてぜえぜえと肩でするような呼吸。何事かと耳を欹てる間に、音の出どころはみるみる近づき、彼の面前に躍り出た。ぽたり、ぽたりと砂に雫の落ちる音。地面に長く影を伸ばしたそれに向かって、男は細めた目を向ける。逆光に縁どられ黒々と屹立するそれは、ひどく負傷した足を庇いながら身を屈めるそれは───
「グルルルルッ……ガアアァ……!!」
獣のような唸りを上げる、【怪物】のように見えた。
「……何かと思えば、こんな夜更けに『はぐれ』が一匹か。
一体どこの
ざんばらの黒髪の隙間から、爛々とした視線を向ける人影。この東京で、しかも都心の六本木でこれほど野性的に振る舞う「人間」はそう居ない。目立った身体的特徴はないが、十中八九は「転光生」だろう。契約者となる召喚主を見つけられず、東京との「縁」を紡ぐこともできず、力の衰えを感じて焦っているようだ。よほど弱っているのか足元もおぼつかず、左右にふらつきながら目ばかり光らせている。
なりふり構わず人を襲い、果ては食らってしまう「はぐれ転光生」を前に、しかして男の表情は崩れなかった。自身もヒトならざる力を持つ存在であるという、その一点だけではここまでの余裕は生まれない。自信に満ちた不遜な態度を見せつつ、彼は鞄を抱え直し、相手がどの「異世界」からやってきたのかを分析しようと独りごちる。そして少なくとも自分の「同郷」ではないことを確信すると、すたすたと歩き始め、その脇を通り過ぎようとした。……餓狼のごとき荒々しさをまとった存在を横目に、何事もなかったかのように立ち去ろうとしたのである。
「…………む」
だがしかし、傍から見れば当然ながら、その足取りはすぐに止められることになる。がりっ、と厚い靴底が地面を擦る音に顔を上げれば、そこにはやはり影。街灯の明かりに踏み込んだことで、その存在は西洋騎士の纏うような甲冑を身につけていることが分かった。しかしそれは磨きあげられた銀ではなく───闇夜を貼り付けたような漆黒だ。二度も進路を阻まれ、ようやく男も相手が自分に用があることを察する。足を止め、怪訝そうに振り向いたその視線の先で閃いたのは……騎士の剣とは程遠い、ぎらつく両の牙だった。
「ぐあ───ァアアア!!」
嗄れた吼え声が響き、一瞬の後には視界いっぱいに黒が立ち塞がる。めいっぱい開かれた口腔に光る歯を見て、初めて男の表情にわずかな驚きが走った。ずしゃっ、と響いた重い物音は、男が突き倒されて砂地に落ちる音だろうか。ぶちり、直後に空を割いた鋭い音は、男に転光生が食いつき、牙が布地を裂く音だろうか。ふたつの人影が揉み合い、くぐもった声が散るほかは、しんと静まり返った夜の公園。
……数十秒もすると片方の人影が倒れ、バタバタともがく音だけが空気を揺らすのみになる。やがて立ち上がったもう片方の人影は、上がった息を整えながら髪を掻き上げ、服の砂を払いながら光の中へと歩み出た。ふう、大きく息を吐き、他愛もないと微笑んだのは件の「男」だ─── 彼は突如として襲ってきた転光生をいとも容易く撃退し、その場に打ちのめしてしまったのである。
いや、それだけではない。一瞬だけ滲んだ冷や汗を拭い、ふと彼が下ろした左手に目をやると、握り込んだ指には相手の長い黒髪が絡みついている。……さらには重い質感まで。ゆっくりと腕を上げてみると、驚いたことにその髪の先には、今しがた自分に襲いかかった転光生の「頭」がぶら下がっていた。断末魔を上げる余裕もなく、呆気にとられて口を開け、目を丸くしている生首が。
「……なんと。髪を引っ張っただけなのだが……勢い余って
その光景にさしもの男も驚愕したようで、しかしやはりどこか余裕のある様子で吊り下げた頭を眺める。幸いなことに出血はなく、制服には砂のほかに汚れはついていない。転光生を倒してしまったことより、その事を重大に見ていた様子で、男はほっと息をついて肩をすくめた。しかしすぐに険しい面持ちに変わり、思案に暮れて額を指で叩く。その反動で左手に下げた「首」が、ぶらりぶらりと前後に揺れる。
「面倒なことになったな……。『処理』は従者コースの者どもに任せておけばよいとして、あの偏固な風紀委員に、一体どう申し開きをしたものか。
何か良い案はあるかね───なあ、シャフルナーズ?」
空いた右手でポケットを探り、取り出したのはバラの装飾のカバーがついたスマートフォン。学校に連絡し、この非常事態を内々に治めてもらうつもりらしい。通常の教育機関であればとても無理な話であるが、相手は幾多の王族・支配者層を束ねる六本木学園。主人コースの学生が多少の横暴を働くことは想定内であり、後処理から各種メディアへの根回しなどは朝飯前だ。───流石に今回の件は、かなりの無茶ではあるのだが。
だからこそ彼の言動は、しでかした事の重大さに反して非常にくつろいでいた。学園に戻った後で受ける「お叱り」で耳が痛くなることを心配などしながら、ふと背後へと声をかけて携帯を持った右手を上げる。小鳥でも止まらせるかのように指をのばし誘ってみると、後方から現れた影がその手の甲に擦りついた。……しかしそれは小鳥とは到底似つかぬほど巨きく、長く、そして「冷たい」もの。
───へび。ゆっくりと彼の背後から顔を出し、その指先から頬へと顎を這わせたのは、太い胴に幾千もの鱗を貼り付けた蛇だった。相対する男など一呑みにしてしまいそうな蟒蛇が、チロチロと赤い舌を出し入れしながら男の話を聞いている。男が口にした名前もこの蛇の名だと推察され、その様はたいへん睦まじいように見えた。
しかし驚きはこれだけではない。「お前はどうだ。アルワナーズ」などと呟きながら振り向いた反対側にも、黒々と輝く鱗を震わせる大蛇が居座っていた。道行く人々がその姿を見て驚愕し、緊張する最大の理由がこれである。この「男」───ペイヴァルアスプと呼ばれる男の背には、どういうわけか二匹の蛇が生えているのであった。
「まぁ、ここで彼是と考えていても仕方ない。とかく急いで戻るとしよう。『これ』をよく冷やしておかねば─── ッ!?」
と。二つの蛇頭に挟まれ気を取り直した男が、芝生の上に転がった買い物袋を取り上げようと屈んだ時だった。その体ががくんと傾き、砂地に手をついてしまう。何かに躓いたわけでもなく、先の揉み合いでダメージを受けたわけでもない。彼に体勢を崩させた衝撃は、思いかげぬところから襲ってきた。
「ウウウウッ───ガアゥ!!」
ぐんっ、と二度目に大きく引かれる「左腕」。状況を把握できず緩んだ指先から、もつれた黒髪が抜け出ていった。それは地面に転がることもなく、重力に逆らって浮き上がると、不気味な鬼火めいた光を侍らせて唸り声を上げた。……首が。今しがた体から引き抜いてしまった男の首が、どうしたことか空を飛び、大きく口を開けて流星のごとく降下してくる。
とっさに身を翻し、生首の急襲を避ける男。しかし首は空中で急旋回を見せると、その肩口に生えた蛇の片方、その胴体にがっぷりと牙を突き立てた。今日び都会で生きていて、何かに思い切り噛みつかれるという経験はあまり無い。撒き散らされる鮮血に舌打ちした男の手の中で、スマートフォンが青白い光を迸らせた。
「きさま……飛頭蛮の一瞬か。面妖とは俺の言えた義理ではないが、取り敢えず『妻』から離れてもらおう」
その瞬間、携帯画面の閃きに呼応するかのごとく、噛みつかれた蛇が身をのたうって吼え声を上げた。厳密には、その大きく広げられた喉から溢れたのは声ではない。ゴオオオッ!!と髪が巻き上げられるほどの風圧を伴って吹き荒れたのは、辺りを紅に染める目映い炎の渦であった。数メートルの柱を作り出すその業火は夜空をあかあかと彩り、細かな火の粉が雪のように舞っては頬を焦がしていく。
男の狙い通り、その火勢に驚いた生首はたちまち飛び退く。しかし被害は甚大で、蛇はその中腹を大きくかじり取られ、食い破られた鱗の下では生白い肉が脈打っていた。男はその傷をかばいながら、火の粉に慌てる首との間に距離を取る。
「あ゛ッア───あツい、あづ……い!?」
「……ほう、言葉を発する脳はあるのか。手当り次第に獲物を食い散らかす餓鬼かと思っておったぞ。まぁ、今は手すらついてはいないのだが」
「あぁア……イやだ、アづいのキラい、きらイ゛ッ……!!」
「……冗句を解する学はなしと。つまらんな。
俺の『妻』を傷つけた罪……本来ならば極刑だが、相当に飢えていたということで一度は許そう。───この堅牢なる鱗に、生身で傷をつけた者は久方ぶりだしな」
傷の具合を確かめ、蛇をいたわる男の対面で、生首は必死に宙を飛び回り、舞い散る火の粉のひとつひとつを避けようと動く。その口からは切れ切れに人語らしきものが飛び出したが、こちらの話が通じている様子はなかった。蛇の吐く炎はかなりの牽制になったようだが、それにしても反応がオーバーだ。何か炎に関する嫌な「記憶」でも抱えているのかと、男が考察を巡らせ始めたその瞬間。ざく、と今度は「真後ろ」で、砂を踏む三度目の音が響いた。
「!? ……う、……」
後ろを振り向く暇もなく、唐突に脇の下から伸びてくる腕。予想以上に強い力が両腕と胴体を締め付け、羽交い締めのような形で押さえつけられてしまった。六本木で教わる支配者層への教育の中には、暗殺対策としての白兵戦の心得もある。そこで高い成績を修めていたペイヴァルアスプには、近接戦闘においてはほとんどの状況で有利を取れる算段があった。そんな彼が今、こうして不覚を取ってしまった理由。こんなにも近づかれてしまうまで、相手の気配がまるで感じられなかったのだ。忍び寄る時に特有の息遣いはおろか、視線といった感覚すら───……視線?
シャーッ!!と宿主の危機を感じ取った二匹の蛇が、鱗を逆立てて背後からの強襲者に攻撃を仕掛ける。腕を締め付け噛み付こうとするが、その牙はすべてそれが纏う「甲冑」に阻まれた。目線を後ろにやってみると、先ほど目の前に立った転光生の「片割れ」が、黙々と腕を伸ばして体を押さえ込んでいた。その力は機械のように無慈悲で、蛇の威嚇や巻きつきを全く意に介していない。密着した鎧の隙間からは一片の体温も伝わってこなかった。まるで……「死人のような」冷たさだ。
前に向き直ると「首」のほうは変わらずパニック状態で、とても冷静に「体」を操って攻撃してきたとは考えられない。ならば何故……ともの思う間も許されず、無慈悲に締め上げる力が呼吸をも狭め始めた。このままでは酸欠で倒れるか、鯖折りよろしく背骨を手折られぬとも限らない。ギリギリと筋の軋む痛みに歯を食いしばって、次に目を開けた時には、彼の覚悟は決まっていた。
「……やむを得ん。頼むぞ───アルワナーズ……!!」
細る声でどうにか告げた刹那、その背に巣食うもう一匹の蛇が鎌首をもたげ、嗤うように顎を開き空を仰いだ。ゴバアッ───と洞窟のような口腔から吐き出されたのは、血煙にも似た赤黒い気体。それは辺りを瞬く間に霞に染め、街灯の光さえ遮って広がっていく。視界も定まらないその中でひとり、何年もの付き合いから耐性を身につけているペイヴァルアスプだけが、目の前で起きる変化を感じ取ることができた。
半径十数メートルを覆い尽くした霧の中で、「首」は何が起きたか分からず右往左往しているようだった。ふらり、ふらりと二度三度たゆたったところで、「効果」が出てきたらしく動きが鈍くなり、声もなく地面へ墜落する。それから数秒遅れてペイヴァルアスプが大きく息をついた。その体を縛り付けていた「肉体」の枷が、どしゃりと真後ろに崩れ落ちたのだ。しばらくして霧が晴れた後には、大の字に倒れた甲冑と、白目をむいて鞠のように落ちている頭が一つ。
「…………ッ……。
炎にはやたらと警戒心を示しておいて、毒霧にはまったく反応がなかったな。単に阿呆なだけか……それとも『故郷』では体験したことが無かったか」
眩む視界に喝を入れて立ち上がった男は、何度か深呼吸をして逸る心臓を落ち着かせる。一歩目をふらつくその様を案ずるように、蛇たちが首筋に擦り寄り、冷たい胴を押し当てた。それらは炎や毒を吐く能力のほかに、強い再生力をも備えているようだ。先ほど食い破られた傷はいつの間にか塞がり、小さな鱗までもが生え始めていた。
改めて面前の状況に目を向けた男は、ぐったりと身を横たえる「転光生」を見つめると、おもむろに歩みを進めて転がった首のそばへ屈み込む。無造作に髪を掴んだかと思えば、手提げ袋のようにぶら下げて身体のほうへ戻る。肩を掴み起き上がらせた胴体を覗き込むと、首との断面は辺りを舞っていた鬼火と同じ色の光で隠され判別できなかった。縫合する手間が省ける───そんなようなことを呟いて、彼は抱えた頭を乱暴にはめ込んでしまう。どたりと再び倒れ込んだ体は起き上がるそぶりを見せない。頭部が気絶している今、身体だけが勝手に動き出すことはないらしい。
と、興味深げにその様を眺めていたペイヴァルアスプの耳に、四度目の足音が届く。しかしそれは今まで聞いたものの中でもっとも軽く、しなやかな足運びだった。身を起こし、振り返った視界に映るのは海のような蒼。エプロンドレスの裾を持ち上げ速やかに、淑やかに近寄ってきた人影を目にして、男の目にほんの少し動揺の色が混じった。
「お待たせいたしました、ペイヴァルアスプ様。我が主の命により……メリュジーヌ、馳せ参じましてございます」
「……これはこれは。応援を寄越せとは言ったが、よもや六本木の長が動いてくれるとは」
「メッセージにリヒト様がお気づきになられ、現場へ向かうよう申し付けられました。『はぐれ転光生』に襲われたとのことですから───機動力と戦闘力を兼ね備えた私が、と」
つむじ風を伴って現れたのは、立派な竜角をたたえた女性の「転光生」だった。ブリムキャップからこぼれる空色の髪に、深紅の瞳が美しいその立ち姿からは、慇懃なだけではない気品も感じられる。彼女の名はメリュジーヌ───六本木の頂点にいるとある生徒が侍らせる、ティルナノグの竜人だ。急いでいたらしく息が切れており、服の裾も少し乱れていた。主人コースの生徒の一大事と、文字通り「飛んできて」くれたようだ。襟を正して恭しく礼をする彼女を労い、ペイヴァルアスプは足元の「転光生」を指さした。
「足労をかけて悪いが、戦いそのものはもう終わった。気を失っているから今は無害だが……単調な戦い方ながら、非常に強い力を持っていたぞ。このまま野放しにしておく訳にもいくまい」
「左様でございますか……。お力になれず申し訳ありません。では、近くの交番に連絡して警察へ引き渡しましょう。あなた様は寮へお戻りください……この者がこれ以上、お手を煩わせることはありません」
自身も乱れた服を直し、状況を説明するペイヴァルアスプ。それを聞いたメリュジーヌは戦闘において助けになれなかったことを詫び、続けて倒れた「転光生」の処遇について判断を述べる。それは内輪の権力争いに忙しく、外からの厄介事を嫌う傾向にある六本木の支配者層の心理を理解したものだ。この学園に籍を置く者なら、なんの疑いもなくその申し出に同意しただろう。……普通なら。
「───いや……待て。やはりお前にも仕事を頼もう。
この者を学園まで連れ帰るのだ。ついでに多少の広さと防音設備のある部屋を借りる」
「……えっ? し、失礼ですが、いま何と……」
「こやつを、六本木まで運べ。借りるのは俺の寮にもほど近い、演習場Bあたりがいいだろう」
ふいに告げられた命令に戸惑い、聞き返してしまったメリュジーヌの前で紅が振り向く。にっと片頬を吊り上げて笑う、そのふてぶてしくも自信に満ちた表情は、彼女にそれ以上の疑問や反論を許さなかった。慌てて一礼し仕事に取り掛かるメイドの横で、蛇たちの吐息を聴きながら「君主」は満足気に頷く。その脳裏に先刻の、また遠いかつての光景を浮かべ、一種の感慨にふけりながら。
「甚だ野蛮だが……少しばかり興の乗る相手であった。
お前たちもそう思うだろう? 無二の親友を侍らせる選択肢がない以上、この覇王に相応しきは───腹剣をもって尽くし、『証』を示したがる輩よりも」
シュルシュルと舌を鳴らす蛇たちへ、意図の見えない言葉を向けながら。見た目に反し相当の膂力を持っているメイドが甲冑を抱えあげる気配を背後に、男は頭上の月を見上げる。三日月からも満月からも程遠い、半端な形で空に浮かんだ光は─── 天を貫く23の柱にも負けぬ、まさしく蛇の目のごとき怪しさで輝いていた。
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