【金木犀】


ジリジリと照り返すような夏の暑さがやわらぎ秋の草花が短い生を謳歌し始めた頃、不意に鼻腔をくすぐる甘い香りにピッコロは閉じていた眼を開いた。
その香りは何やら一つの影となってこちらへぐんぐんと近付いてくる。

「ごめんなさい、ピッコロさん、お待たせしてしまって」

香りを伴った影がハイヤードラゴンに跨った己の弟子だと判明すると、ピッコロは怪訝な顔ごと弟子へと向き直った。
約束した時間に遅れたとでも思っているのだろうか、悟飯からはいつもの春の花を思わせる笑顔は消え、いつにないかしこまった表情でハイヤードラゴンの背からひらりと身を翻し、身軽に地面へと降り立つ。

「いや、時間どおりだ。待ってなどいない」

相変わらずニコリともしないピッコロだが、その言葉に悟飯は胸を撫で下ろした。
人造人間との戦闘を控えた数ヶ月前、連日続く孫親子とピッコロの過激な修行の合間に稀に設けられた貴重な休日に、久し振りにピッコロと二人きりでのんびり過ごしたいと悟飯から言い出した約束だったのだ、時間に遅れてピッコロを待たせてしまうなど、とんでもなかった。

「それより、お前のその姿は何だ?」

待ち合わせの時間云々よりそちらの方が余程気になる、むしろ理解不能だと、クールなこの男にしては珍しくありありと表情に表して問うた。
それもその筈、肩も露な紫の魔族服を着た悟飯は、魔族服どころか腰にまで伸びた黒髪にまでオレンジ色の小さな花を散らせ、ところどころ葉っぱはおろか細い枝まで貼り付かせている。

「えっ!?あっ!」

慌てて自身の体を見下ろし、悟飯は短く驚きの声を上げた。

「よほど慌てて駆け付けたらしいな」

「そうなんです、時間に遅れると思って僕が急かしたら、ハイヤードラゴンが金木犀の木に突っ込んじゃって」

照れたように頬を赤らめ俯く悟飯にピッコロは目を細めた。
過去に大魔王と人々から恐れられた男の弟子は、心優しい父親と同じく、どんなに小さな命でも尊びその生を慈しむ。
その弟子に懐く動物は数多いけれど、警戒心が強く人間に心を開かないこのハイヤードラゴンが懐くのは悟飯だけだった。
以前にも悟飯の危機を幾度となく救ってきたハイヤードラゴンが大好きな悟飯の為にと必死になって急いだ挙句、目測を誤って金木犀の木に突っ込んだのだろう、その光景が目に浮かぶようだ。

「甘い香りの正体は金木犀か」

どうりで遠くからも強く香る筈だ、とピッコロは得心する。

「今は丁度、金木犀の時期ですからね。あちこちで満開に咲いていますよ」

悟飯はピッコロに答えながらせっせと自分の体を払うが、振り払われるのを嫌がるかのように長い黒髪に絡む小さな花に難儀し始める。

「オレが手伝ってやろう」

そう言うとピッコロは悟飯の後ろに回り、オレンジ色の小さな花を一つずつ丁寧につまみ始めた。

「ありがとうございます、ピッコロさん」

敬愛してやまぬ師匠の思いがけない優しさに、悟飯の顔にはいつもの春の花を思わせる笑顔が戻る。
数ヶ月振りの穏やかな時間も。
最愛の父と敬愛する師に囲まれた生活は悟飯に幸福感を与えてくれはしたが、過酷な修行と矢を放つ直前の弓のように張り詰めた日々は否応なしに心身に極度の疲労と緊張感を与え、まだ子供の悟飯には一日一日を乗り切るのが精一杯だった。
追い詰められ、追い立てられる、普通の子供ならばまず堪えられない猛特訓が続く毎日は、だが、やがて来る恐怖の未来で少年である悟飯が生き残る可能性を少しでも増やす為に必要なものだった。
父と師匠には恐怖の対象を葬り去る可能性を少しでも高める為に。
悟飯は藤色の髪の青年が父に教えた未来の世界を思い出す。
優秀な科学者のドクターゲロが造り出した二体の人造人間は地球上を移動して廻っては破壊の限りを尽くし、その為に世界中の人口は激減し、今も滅亡への一路を辿っていると云う。
地球を守る戦士である父の仲間達も次々と敗れ、必死の抵抗も虚しく未来の自分も嵐に凪ぐ花のように散っていった。
更に悟飯の心を凍らせたのは、最愛の父悟空の死だった。
未来の自分は父の死を、師匠の死を、仲間達の死を、そして地球が滅びゆく姿をどんな思いで受け止め、どんな痛みで乗り切っていったのか。
そこに思いを馳せる度、悟飯の中に必ず生まれる思い。
同じ未来を造り出してはいけない。
命溢れる地球を、愛する者達の住む地球を必ず守らなくてはいけない。
その悟飯の痛ましいほどの決意を、得意の読心術を使わずともピッコロはひしひしと感じていた。

「僕達は人造人間を倒して、地球を守れるのでしょうか」

「さあな、オレにもわからん。だが、守らねばなるまい、何が何でも、な」

「僕は強くなりたいんです。僕には大した力はないけど、少しでも役に立ちたいんです」

「ああ。悟飯、オレも強くなる」

―お前を守る為に。
お前だけはこのオレの命に代えても必ず守ってみせる。
その為ならば、オレはどこまでも貪欲に強くなろう―



と、悟飯とピッコロのやり取りを小首を傾げてじっと見守っていたハイヤードラゴンが、焦れたように悟飯の顔へと頬をすり寄せると、そのままベロリと白い顔を舐め始めた。
ハイヤードラゴンの舌の感触に“くすぐったい”と悟飯は身をよじり、無邪気な笑い声を立てる。
その子供らしい姿に、ピッコロも思わずにはいられない。
この純粋無垢な少年を、未来の自分はどんな思いで遺して逝ったのか、と。
心残りはなかったのか。
だが、少なくとも彼は幸せだったに違いない。
己の愛する弟子の死を、自らの眼で見ずに済んだのだから。
この弟子だけが、本当の意味で己に生を与えてくれた。
その悟飯を失うことは、ピッコロにとっては生きながらにして死を与えられるようなものだ。
ピッコロにとって命そのものとも言える悟飯に対して、いつしか抱き始めた想い。


―愛している―
子を守る父のように、母のように。


―愛している―
その耳に愛を囁く恋人のように。


―愛している―
師としてだけでなく、弟子としてだけでもなく。


―もしオレの力が及ばずお前を守れない時は―


悟飯の決意に呼応するかのように、ピッコロにもある決意があった。


―その時はお前を一人で死なせはしない―

甘い芳香を放つ艶やかな黒髪の一房を手に取ると、持ち主に気付かれぬようピッコロは誓の口付けを落とした。
確実に迫り来る恐怖の足音を聞く二人の体を、今はただ金木犀の甘い香りだけが包んでいた。


END

ここまでお読み戴きありがとうございました。
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