【Dear】
【Dear】
「孫君、そろそろ休憩にしようか」
不意に頭上から掛けられた声に、プツリと音を立てて集中力の糸が途切れた。
「あ、はい」
反射的に応えた声は掠れていて、誕生と共に体に具えられた天然の楽器を暫く鳴らしていなかった事実に唐突に気付く。
無理もない、今の今まで、一言もなく作業に没頭していたのだから。
「みんな、もうロビーに移動してるよ」
ロビーとは、研究所の入口付近に設けられた内部の休憩所のことだ。
中央に長椅子とテーブルが何組も並び、壁際には様々なメーカーの飲料用の自動販売機が規則正しく整列している。
研究所員達は皆、食事以外の休憩時間を、この休憩所で各々に談笑したり、同じ部署の仲間同士で情報交換を行ったりして過ごす。
先輩研究所員の白衣越しにチラリと時計に目を遣れば、時刻は既に21:00を回っている。
所内の食堂で夕食を採ってから、2時間が経過していた。
「はい、僕も行きます」
促されるままに席を立ち、白衣のポケットに両手を突っ込んで、先輩研究所員の後に続いて長い廊下をゆっくりと歩き始める。
この時間なら、家族は皆、とっくに夕食を済ませているだろう。
今日も、家族と夕食を共に出来なかった。
妻や娘は、寂しがっていないだろうか。
娘は、入浴を済ませてそろそろベッドに入っている頃だ。
母や弟は、何をして過ごしているだろう。
悟天は、のんびり一人で入浴でもしているのか。
少しは勉強もしてくれると助かるんだが。
毎度毎度、テストの度に泣きつかれるのでは堪ったものではない。
しかも、悟天から泣きついてくるくせに、気が付くといつの間にか自分がベッドの上で泣かされるハメになる。
おまけに、体力と元気だけは有り余っているタフな悟天に朝まで付き合わされるのだから、毎回くたくたにくたびれて、嫌になる。
「これじゃあ、体が保たないよ」
「えっ!?そ、そうだね・・・。こう連日連夜残業続きじゃあ、体が保たないよね。多分、今日も帰りは深夜になるんじゃないかな」
「あっ・・・!・・・す、すみません」
「いいって、いいって。みんな思ってることだから」
生物学の難しい知識が記憶の奥深くに沈み込んだその隙間に悟天が入り込
んできたせいで、思わず悟天への愚痴が口を突いて出てしまった。
それを、心優しい先輩が仕事への不満だと受け取ってくれたのは、不幸中の幸いだったが。
思い起こせば、一体、一日にどれくらい悟天のことを思い出しているだろうか。
きっと、数え切れないほど思い出している。
悟天の熱を。
悟天の匂いを。
悟天の声を。
悟天の息遣いを。
血を分けた二人きりの兄弟というものは、何か不思議な絆で繋がっているらしい。
その証拠に、思い出す度に悟天に逢いたくなってくる。
今朝顔を見たばかりだと云うのに、一日研究所に居ただけで、もう何日も逢っていないような気がする。
きっと悟天も、今日一日 で何度も兄の面影を思い出していることだろう。
二人きりの兄弟だから、たった一人の弟だから、離れていてもわかってしまう。
同じ遺伝子を保有し、同じ母から生まれ、同じ血筋を受け継ぎ、同じ空間を共有し、同じ時間を共に生きてきたから。
先輩研究所員と連れ立って歩く廊下は夜中だと云うのにどこも煌々とした明かりに照らされて、真昼のように明るい。
これでは、一日研究所に篭っていると、時間の間隔がわからなくなってくる。
それでも、自ら選んだ道に、後悔はなかった。
逢える時間は少なくても、そんな兄を悟天は誇りに思ってくれている。
だから、次に逢えた時には、いつもと同じように思い切り抱いてくれるだろう。
暫くの間、夜は悟天に逢えないだろうけれど。
―Dear 悟天
今 何をしていますか―?
僕は、今日もお前に逢えそうにありません。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。
「孫君、そろそろ休憩にしようか」
不意に頭上から掛けられた声に、プツリと音を立てて集中力の糸が途切れた。
「あ、はい」
反射的に応えた声は掠れていて、誕生と共に体に具えられた天然の楽器を暫く鳴らしていなかった事実に唐突に気付く。
無理もない、今の今まで、一言もなく作業に没頭していたのだから。
「みんな、もうロビーに移動してるよ」
ロビーとは、研究所の入口付近に設けられた内部の休憩所のことだ。
中央に長椅子とテーブルが何組も並び、壁際には様々なメーカーの飲料用の自動販売機が規則正しく整列している。
研究所員達は皆、食事以外の休憩時間を、この休憩所で各々に談笑したり、同じ部署の仲間同士で情報交換を行ったりして過ごす。
先輩研究所員の白衣越しにチラリと時計に目を遣れば、時刻は既に21:00を回っている。
所内の食堂で夕食を採ってから、2時間が経過していた。
「はい、僕も行きます」
促されるままに席を立ち、白衣のポケットに両手を突っ込んで、先輩研究所員の後に続いて長い廊下をゆっくりと歩き始める。
この時間なら、家族は皆、とっくに夕食を済ませているだろう。
今日も、家族と夕食を共に出来なかった。
妻や娘は、寂しがっていないだろうか。
娘は、入浴を済ませてそろそろベッドに入っている頃だ。
母や弟は、何をして過ごしているだろう。
悟天は、のんびり一人で入浴でもしているのか。
少しは勉強もしてくれると助かるんだが。
毎度毎度、テストの度に泣きつかれるのでは堪ったものではない。
しかも、悟天から泣きついてくるくせに、気が付くといつの間にか自分がベッドの上で泣かされるハメになる。
おまけに、体力と元気だけは有り余っているタフな悟天に朝まで付き合わされるのだから、毎回くたくたにくたびれて、嫌になる。
「これじゃあ、体が保たないよ」
「えっ!?そ、そうだね・・・。こう連日連夜残業続きじゃあ、体が保たないよね。多分、今日も帰りは深夜になるんじゃないかな」
「あっ・・・!・・・す、すみません」
「いいって、いいって。みんな思ってることだから」
生物学の難しい知識が記憶の奥深くに沈み込んだその隙間に悟天が入り込
んできたせいで、思わず悟天への愚痴が口を突いて出てしまった。
それを、心優しい先輩が仕事への不満だと受け取ってくれたのは、不幸中の幸いだったが。
思い起こせば、一体、一日にどれくらい悟天のことを思い出しているだろうか。
きっと、数え切れないほど思い出している。
悟天の熱を。
悟天の匂いを。
悟天の声を。
悟天の息遣いを。
血を分けた二人きりの兄弟というものは、何か不思議な絆で繋がっているらしい。
その証拠に、思い出す度に悟天に逢いたくなってくる。
今朝顔を見たばかりだと云うのに、一日研究所に居ただけで、もう何日も逢っていないような気がする。
きっと悟天も、今日一日 で何度も兄の面影を思い出していることだろう。
二人きりの兄弟だから、たった一人の弟だから、離れていてもわかってしまう。
同じ遺伝子を保有し、同じ母から生まれ、同じ血筋を受け継ぎ、同じ空間を共有し、同じ時間を共に生きてきたから。
先輩研究所員と連れ立って歩く廊下は夜中だと云うのにどこも煌々とした明かりに照らされて、真昼のように明るい。
これでは、一日研究所に篭っていると、時間の間隔がわからなくなってくる。
それでも、自ら選んだ道に、後悔はなかった。
逢える時間は少なくても、そんな兄を悟天は誇りに思ってくれている。
だから、次に逢えた時には、いつもと同じように思い切り抱いてくれるだろう。
暫くの間、夜は悟天に逢えないだろうけれど。
―Dear 悟天
今 何をしていますか―?
僕は、今日もお前に逢えそうにありません。
END
ここまでお読み戴きありがとうございました。