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刑事課オフィスの照明は、深夜になると必要最低限まで落とされる。
夜勤という名の時間帯は、いつもこうだった。
蛍光灯の白はどこか温度を失い、空調の低い唸りと端末の駆動音だけが、不釣り合いに大きく耳に残る。
雛河は、そっと自分の端末を閉じた。
ホログラム解析の最終出力に問題はない。
映像の歪みも修正され、求められていた水準には達している。
かつてホロデザイナーだった頃の知識が、こんな場所で役に立つとは思っていなかった。
だが公安局では、過去の経歴も感情も等しく「使えるもの」として扱われる。
今日は、それでいい。
報告を終えたら、あとは待機。
そう考えて、雛河は少し離れた位置にある監視官のデスクへと歩いた。
「あ……あの、ホログラム解析が完了したんですが……」
言いかけて、言葉を引っ込める。
ひよりは、デスクに突っ伏すようにして眠っていた。
長時間、端末に向かっていたのだろう。報告書のウィンドウは開いたまま、文章は途中で途切れている。
ペンは指先から零れ落ち、書類の端にかろうじて引っかかっていた。
起こす理由は、なかった。
任務は一区切りついている。緊急呼び出しもない。彼女が眠っていること自体、規則に触れるわけでもない。
雛河は足音を極力殺し、デスクの脇に立つ。
まず、散らばっていた書類を揃える。事件番号順に重ね、端末の横へ静かに寄せる。
次に、冷めきったコーヒー。
カップの縁に残る苦い匂いが、夜の空気にわずかに溶けていた。
それをそっと持ち上げ、彼女の視界から外す。
そのとき、不意に視界に入った。
ジャケットを脱いでいるせいで、白いシャツが背中に薄く張りつき、身体の線をほのかに浮かび上がらせている。
照明の角度の悪戯か、布越しに淡いブルーの影までが見えてしまって───雛河は、ほとんど反射的に視線を逸らした。
胸の奥が、僅かに騒めく。
理由を考えるよりも先に、これは精神衛生上、好ましくないと判断する。
そう結論づける速度だけは、異様なほど早かった。
彼女は監視官だ。執行官である自分とは、同じオフィスに身を置き、同じ時間を過ごしていながら、立っている場所が決定的に違う。
それでもひよりは、執行官に対して距離を置きすぎることがなかった。
命令ではなく依頼の形で言葉を選び、作業が終われば必ず礼を言う。とりわけ口数の少ない雛河に対しては、声を荒げることもなく、短い一言を添える。
どれも特別な言葉ではない。
ましてや、自分だけに向けられたものでもない。
ただ───
雛河は一度、深く息を吸う。
それから、自分の上着を手に取った。
直接触れないように、椅子の背へそっと掛ける。
布はわずかに揺れ、彼女の肩先にかかるが、肌には触れない。触れさせない。
同じ時間、同じ場所、同じ事件を共有していても。監視官と執行官は、交わってはいけない。
その線を越えた瞬間に失われるものは、おそらく、はるかに彼女の方が多いのだから。
雛河は一歩、距離を取る。
薄暗い照明は何も言わず、静かに二人の間を照らしていた。
かすかな違和感に、ひよりはゆっくりと目を覚ました。
肩にかかる重み。自分のものより少し大きく、違う温度を持った布地。
ゆっくりと身を起こすと、そこには見覚えのない上着があった。
黒のジャケット。
───誰のものか、考えるまでもなかった。
視線をデスクへ移す。
散らかっていたはずの書類は静かに整えられ、端末の横に、まるで最初からそうあるべきだったかのように積まれている。
冷め切ったコーヒーカップは影もなく消えていた。
ふと顔を上げると、少し離れたデスクで雛河が端末に向かっているのが視界に映る。
背は丸まり、画面に吸い寄せられるように首を落としている。
指先だけが、淡い光の中を泳ぐように、淡々と、休むことなく動き続けていた。
ひよりは、一瞬だけ迷ってから上着を肩から外し、椅子を立つ。
「雛河さん」呼びかけると、彼の指が一拍遅れて止まった。
「えっと……上着、借りちゃってすみません」
差し出すと、雛河は顔を上げないまま、その上着を受け取る。
「い、いえ。別に……」
形式的で、どこにも触れない声。
言葉の温度はすぐに消え、二人の間には沈黙だけが落ちていく。
空調の低い唸りが、やけに大きく聞こえた。
ひよりは気まずさを指先に感じながら、ふと思い出したように言う。
「私、コーヒー淹れてきますけど……良かったら雛河さんも、飲みますか?」
わずかな間。
雛河は端末から目を離さぬまま、ほんの少し逡巡してから頷く。
「……は、はい」
その間、一度も視線は合わなかった。
「すぐ戻りますね」そう言い残して、ひよりは逃げるようにオフィスを出る。
足音が遠ざかり、静まり返った空間に扉の閉まる音だけが落ちた。
残されたのは、雛河と、青白く発光する端末の光。
二つの影は重なり合うこともなく、同じ夜の底に置き去りにされていた。
給湯室の照明は、時間の感覚を鈍らせるほどに無機質だった。
スイッチを入れると、静寂を裂くように電気ポットのランプが脈打ち、続いてポットの加熱音が低く響き始める。
ひよりは紙コップを二つ取り出し、インスタントコーヒーの小袋を破った。
乾いた音を立てて粉が落ちる。
その規則的な気配に、思考だけが取り残される。
───雛河翔。
一係の中でも、ひときわ静かな執行官。内向的で、人との距離を慎重に測る人。
話しかければ、わずかな“間”があり、返ってくる言葉は必要最低限。
それでも、視線だけはきちんとこちらを向けて、誤魔化さずに応じてくれる。
嫌われてはいない。少なくとも、拒まれたことはない。
そう思える根拠は曖昧で、どこか心許ない。
ふと、肩に残っていた感触を思い出す。
さきほどまで掛けられていた、雛河の上着。
控えめで、主張のない温もり。人の体温が、布を一枚隔てて、ぎりぎりの距離で留まっていた名残。
不思議と、不快ではなかった。
むしろ、あの温度が消えてしまった今のほうが、少しだけ心細い。
相手について知っていることは、驚くほど少ない。
好きな飲み物も、休日の過ごし方も、事件の現場を離れた彼が、どんな表情で時間を過ごしているのかも。
思い出そうとしても、浮かぶのは端末の光に照らされたか細い横顔ばかりだ。
それなのに、どうしてだろう。
雛河が視線を上げる、その一瞬の“間”を、ひよりはいつの間にか待つようになっていた。
名前を呼ばれる前の沈黙。返事が返るまでの、ほんの数拍。
何かが起こるわけでもないのに、その時間だけが、妙に記憶に残るのは。
特別な出来事など、思い返してみても心当たりはなかった。
決して短くはない職場での時間の中で、何かを分かち合った記憶もない。
深い言葉を交わした覚えさえ、ほとんど残っていない。
それでも、気づけば視界の端で、いつも彼の姿を探している自分がいた。
理由のない意識。説明できない引力。
それを「感情」と呼ぶには、まだ早いはずなのに。
電気ポットが沸騰を告げる音を立てる。
湯を注ぐと、白い湯気が立ちのぼり、少し苦くて、どこか落ち着く香りが鼻先をかすめた。
今日は、珍しく二人きりだ。
深夜の公安局、残業中の刑事課。
こんな静かな時間は、そう何度も巡ってこない。
距離を縮めるには、悪くない条件。
仕事の延長線で、ほんの少しだけ踏み込むくらいなら許される範囲だと、自分に言い聞かせる。
ひよりはカップを持ち上げ、深く考えすぎないように一度、息を吐いた。
そして、消えかけた温もりを胸の奥にしまい込み、給湯室を後にする。
オフィスの扉が、遠慮がちに音を立てて開いた。
ひよりが居なかったのは、ほんの数分だ。
両手に紙コップを二つ。
湯気はすでに落ち着き、代わりに、ほろ苦い香りだけが空気に滲んでいる。
「お待たせしました」
雛河は顔を上げずに受け取り、短く応じた。
「あ……ありがとうございます」
それだけ言うと、すぐに端末へ視線を戻す。
指先が再び動き出し、淡々とした入力音が、夜のオフィスに溶けていった。
ひよりは一度、自分のデスクへ視線を向ける。
そして、ほんの一拍置いてから、雛河の隣のデスクへ歩み寄った。
紙コップのひとつを置き、さきほど彼が整えてくれた書類を、そのまま隣に移す。
「私も、ここで作業していいですか?」
唐突な問いに、雛河の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
視線は端末のまま、喉が小さく鳴る。
「え、……はい」
頷く仕草は控えめで、椅子に深く身を預けることもない。
内心の揺れを隠すように、すぐさま入力を再開する。
ひよりは腰を下ろし、書類に目を通し始めた。
紙をめくる音と、キーボードの軽い打鍵音。
二つの音が、同じ呼吸で、同じ速度で続いていく。
「雛河さん」呼ばれるたび、彼は必ず指を止めた。
「今日は、ホログラム解析が多かったですね」
「は、はい。最近、唐之杜さんの負担が大きくて……
僕のほうにも、細々したものが回ってくる、です」
目は、合わない。
それでも、言葉だけは誠実に差し出される。
「元々、そういう分野が得意なんですか?」
「以前は……ホロデザイナーを、やってました」
少しの、間。
それ以上は、自分から続けない。
「そうなんですね」ひよりもまた、深追いはせず、書類へ視線を戻す。
だが、数行読み進めたところで、ふと思い立ったように、また声を掛けた。
「刑事課の仕事って大変じゃないですか。残業も、多いですし」
雛河は、打鍵していた指を止めた。
ほんの一瞬、考えるような間があり、それから短く答える。
「……もう、慣れました」
事実でもあり、そうでない部分もある返答だった。
その曖昧さを、自分で説明するつもりはないらしい。
質問は、どれも些細だ。
けれど少しずつ、事件から、業務から、制度から───彼個人へと、距離を詰めてくる。
雛河は端末を見つめたまま、隣に座る気配を意識し続けていた。
肩越しに感じる、僅かな動き。紙が擦れる音。コーヒーの、苦くて温い香り。
指は休まず動いている。
それでも、思考の一部は、どうしても隣から離れない。
やがて、紙をめくる音が止む。
雛河は画面に視線を落としたまま、空気が変わったことを察した。
キーボードを打つ指は動いているのに、呼吸の間だけが、少し違う。
「雛河さん」名前を呼ばれて、指が止まる。
ひよりは、もう書類を見てはいなかった。
身体ごと彼の方を向き、机に置いたコーヒーにも手を伸ばさず、ただ静かにこちらを見ている。
「……嫌じゃないですか? 執行官として、生きることは」
夜のオフィスに、その言葉だけが落ちた。
雛河は、すぐには答えなかった。
視線は端末の画面に向けたまま。そこに映る文字列を、彼は実際には何ひとつ見ていない。
光だけが、網膜の奥に滲んでいる。
嫌かどうか。
そんな問いを、真正面から向けられたのは初めてだ。
執行官。
本来なら、隔離施設の奥で管理されているはずの潜在犯。
その存在価値を「獲物を追う手」として限定することで、かろうじて自由を与えられた人間たち。
制度は彼らを道具として扱い、感情は前提から切り捨てられている。
だからこそ、彼らの気持ちに言及する監視官など、ほとんどいない。
ましてや、「嫌かどうか」などという、答えの持ちようがない問いを投げかけてくる存在は。
雛河は、胸の奥で言葉を選びながら、ようやく口を開いた。
「……制度の上では」その続きを、まだ自分でも測りかねている声だった。
「執行官は、必要な存在です。犯罪係数の高い人間を、処理するために。
誰かが、やらないといけない」
淡々とした口調。
教科書通りの、間違いのない模範解答。
執行官という役目を与えられる際、頭の奥底に徹底的に叩き込まれたルールが、そのまま口をついて出る。
「監視官の猟犬として、犯罪係数の高い僕たちが選ばれるのは……合理的で、効率的な役割です」
正論だった。
公安局で教えられる、そのままの答え。
だが、雛河はそこで言葉を切らなかった。
「だから……僕が嫌かどうかは、あまり重要ではないと思います」
一瞬だけ、視線が揺れる。
それでも、ひよりとは合わない。
「この世界には、
守られなければならないものが、あるだけです」
それが何なのかは、口にしなかった。
けれどその言い方は、彼女には言わなくても伝わると、どこかで信じているようだった。
ひよりは、何も言わない。
遮らず、評価もせず、ただ彼の言葉を静かに受け止めている。
「それに」雛河は、そっと端末へ視線を戻した。
画面に映る数値やグラフは、揺るぎのない正しさで、世界の輪郭を示している。
「……隔離施設に居るよりは、ずっと良いですから」
声は低く、静かだった。
否定でも、自己弁護でもない。
どこか、相手を安心させるためだけに選ばれたような、そんな柔らかい調子。
空調の低いうなりが、遅れて耳に戻ってくる。
夜のオフィスには、機械の呼吸だけが残った。
二人の間に落ちた沈黙は、先ほどよりもほんの少しだけ重く広がる。
静寂は、すぐには破れなかった。
ひよりは一度、手元のコーヒーに視線を落とす。
湯気は消え、表面に映る照明の淡い光が揺れている。
だが、彼女の胸の奥では、言葉にならない思いが浮かんでいた。
それは監視官としての理性ではなく、個人としての感情。
雛河は、決して心を持たぬ機械などではない。
優しさを持ち、守られるべき存在であることを、ひよりは既に知ってしまっていたのだ。
その思いは、口には出せない。
けれど、視線は端末の数字やブルーライトの光ではなく、雛河の頬に落ちる光の輪郭に溶け込む。
か細く震えるその頬のラインに、彼女の優しさに対する理解と、ほんの僅かの許しが滲んでいた。
やがて、ひよりは小さく息を吸い、迷いを飲み込むようにして、口を開いた。
「少し、プライベートな質問をしてもいいですか?」
雛河の指が止まる。
端末の画面は開いたまま、入力カーソルだけが、規則正しく点滅している。
淡い青い光が、夜のオフィスの静寂に溶けて、まるで時間までを緩やかに引き伸ばしているようだった。
「はい」短い返事。
雛河はそれだけで、次の言葉を待つ。
ひよりはすぐには続けなかった。
言葉を選ぶというより、踏み出す覚悟を整えるように、間を置く。
空気が少しだけ重くなる。沈黙は、息の奥に潜り込み、静かに膨らんでいく。
やがて、低く澄んだ声が零れた。
「雛河さんは……
誰かを、好きになったことはありますか」
問いは、冷えた夜気を震わせ、音を失わせる。
雛河は動かない。
視線は画面に固定され、指先も、まるでそこに命令されているかのように止まったまま。
問いは、彼の胸の奥深く、普段は閉ざされた場所に触れたかのようだった。
「すみません」耐えきれなくなり、ひよりが慌てて言葉を継ぐ。
「変なこと、聞きましたよね」
一度、言葉を切る。
その切れ目に、微かな息遣いが残る。
そして、どこか自嘲するように、声を添えて続けた。
「私……たぶん、“恋”っていう自覚を、まだ持ったことがないんです」
雛河はただ黙って聞いていた。
相槌も、否定も、促しもない。
ただ、逃げずに、そこにいる。
ひよりの声は、ぽつりぽつりと、無機質な床を叩き、そして音もなく消えていく。
「今の時代って、シビュラシステムが全部、幸福になるための選択肢を示してくれるじゃないですか」
進学も、就職も、人間関係も。
ひよりの言葉は、誰に向けられているわけでもなく、独り言のように続いていく。
「それに従っていれば、人生を大きく間違うことはない。
だから言われるまま、誰かと付き合ったことも、あります」
感情は乗らない。
淡々と、事実を並べるだけの声音。
雛河は、ただその事実を受け止める。
指先の震えも、心の揺らぎも、できる限り表に出さずに、ただ沈黙の中に溶け込むようにして。
「嫌いだったわけじゃありません。
相手の何かが、どうしても駄目だったわけでもない。でも……」
言葉がそこで途切れる。
机に置かれたコーヒーの表面が、僅かに揺れる。
かすかな光に映るその揺らぎを、ひよりは見つめながら、次の言葉を探す。
「気づいたら、終わっていました。
あれが恋だったのかって聞かれると……正直、今でもよく分からなくて」
沈黙の中、雛河の吐息が低く、夜の空気に溶けていく。
「れ……恋愛相談なんて、されたことがないので……」
声は震え、言葉を選ぶというよりも、発する場所を探すように、空間の奥に沈められる。
「どう、答えればいいのか……なぜ、僕にそれを……?」
独り言のように呟かれた問い。
その声には、初めて戸惑いが混じっていた。
ひよりは少し俯き、ゆっくりと首を横に振った。
「……分かりません」
正直で、取り繕いのない答え。
それだけで、フロアに空調の振動が残る。
「私……雛河さんに、甘え過ぎてるのかも」
再び、静寂が戻る。
深夜の公安局。
二人だけが、その沈黙を共有していた。
長く、濃密で、切実な沈黙。
端末の画面はとうに暗転し、スリープ状態にある。
それでも雛河は、黒く沈んだ画面から目を離せなかった。
喉の奥がひりつく。
言葉を選んでいるわけではない。
ただ、声を出す準備が、どうしても整わない。
息を吸う。浅く。
そして、もう一度。
胸の奥のざわめきに耳を澄ませるように。
これ以上、黙っているわけにはいかなかった。
「僕は……」自分の声だと気づくのが、少し遅れた。
あまりにか細く、気を抜けばすぐに、空調音に紛れてしまいそうな声。
その音は沈黙の中に、ほんの小さな波紋を落とした。
「……います。…………好きな、人が……」
一世一代───そんな言葉が、雛河の脳裏をかすめる。
それほどの覚悟を込めた言葉を、ようやく彼は、震える声で吐き出した。
ひよりは、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……そう、なんですね」
その一言だけを零し、すぐに微笑もうとする。
だが、口元の形が、ほんの少し遅れる。
その違和感に、彼女自身がいちばん戸惑っていた。
理由も分からない、針の先で触れられたような小さな痛み。
自分はずっと、同じ立場にいると思っていた。
分からない側に立っているのは、彼も同じだと勝手に決めつけていた。
───けれど、違った。
だからこれは、ショックを受けたわけではない。
自分にそう言い聞かせる。
ただ、少しだけ、置いていかれたような気がしただけだ。
「その人は、どんな方なんですか?」
絞り出したのは、自分でも不思議なほど、落ち着いた声だった。
感情が追いつく前に、言葉だけが先に宙を漂う。
雛河は、その問いにすぐには答えられなかった。
答えを探し、指先をデスクの縁に軽く触れながら、視線はどこか遠くの壁に漂う。
この話題を語る難しさに、今さら気づいたかのように、彼の胸の奥にかすかな緊張が走った。
やがて、言葉を選びながら、ぽつりと口を開く。
「……真面目で」言葉の隙間に、微妙な呼吸の揺れが響く。
「ひ、人の話を……ちゃんと、聞こうとします。
……こんな僕にも、必要以上に線を引かない、優しい人です」
ひよりは、黙って聞いていた。
頷きも相槌もなく、しかしその視線は、雛河の輪郭に溶けるように漂っている。
視線は依然として合わないまま。
ただ、同じ話題を共有しているという確認だけが、空間を埋めていた。
「人を……シビュラを通してではなく、ちゃんと、向き合って判断しようとする。
……そういうところが」
雛河は言葉を探し、指先の力を抜く。
それから、静かに続けた。
「……尊敬、できます」
尊敬。
それは、ぎりぎり嘘ではない言葉だった。
ひよりは少し首を傾げ、納得するように息を吸う。
「素敵な方ですね」
その声は穏やかで、どこにも棘はなかった。
評価でも、距離を置くための言葉でもない。
ただ、事実として受け取った響き。
それだけが、冷たくも柔らかく、彼の胸奥を静かに軋ませる。
雛河は何も言えなかった。
ひよりは、それが自分に向けられたものだとは微塵も思っていない。
その事実だけが、言葉にならない重さを纏い、この夜に横たわっている。
彼はゆっくりと端末から目を離す。
暗転した画面の黒が、視界の端に沈み、溶けていく。
今まで一度も、こんなふうに正面から向けられたことはなかった。
ひよりの瞳を、真正面から受け止める。
言葉は、ない。
だが、その視線には、先ほど彼の口から紡がれた輪郭が、静かに宿っていた。
曖昧さも逃げ場も許されない、答え。
ひよりは、息を呑む。
今になって点と線が繋がり、すべてが腑に落ちていく。
胸の奥が、少しずつ、けれど確かに熱を帯びる。
同時に、ひどく静かな沈黙が二人を包んだ。
先ほどまでの気まずさとは違う。
一歩も引けない、逃げ場のない静寂。
ためらいがちに、ひよりは手を伸ばす。
指先が、雛河の長く癖のある前髪にそっと触れる。
カーテンに隠れていたその髪を、まるで掬うように、優しく持ち上げる。
自分の手が震えていることも、視界に入るその髪で自覚している。
顔を真正面から見るのは、これが初めてだった。
視線を交わさないまま言葉を重ねてきたせいで、記憶していた輪郭よりも、ずっと近く、ずっと生々しい。
雛河の喉が、小さく鳴る。
耐えきれず、視線が逸れそうになった───その、瞬間。
唇が、触れた。
ほんの一瞬だけ。
確かめるように、互いの存在をなぞるだけの、あまりにも静かな口付けだった。
どちらからともなく、離れようとして、けれど、やめる。
その僅かな逡巡が、時間を引き延ばす。
言葉にすれば容易いはずの躊躇が、胸の奥で重く沈み、行き場を失っていた。
少し間が空き、もう一度。今度は、ほんの少しだけ深く。
遠慮がちだった唇が、ゆっくりと重なり合い、互いの輪郭を探るように、ためらいながら形を覚えていく。
呼吸が近づき、吐息が触れ合う。
体温が混ざり合い、境界線は曖昧になっていく。
規則正しく響いていた電子音の中に、余裕を失った湿った音が、紛れ込む。
椅子が、二人分の重みで軋む。
その響きさえ、次第に遠ざかっていく。
世界は必要なものだけを残して、余計なものが削ぎ落とされていくようだった。
甘さに溺れるような軽やかさはなく、むしろ触れるたび、虚しさだけが積み重なる。
舌先に残るコーヒーの苦味。
背中に伝わる金属の冷たさ。
そしてどうしても満たされない、心の奥の空洞。
わかっている。痛いほどに。
どれだけ近づいても、どれほど強く求め合っても、越えられない線があることを。
監視官と執行官───その間に引かれた境界は、感情の熱で溶かせるものではない。
最初から、越えることを許されていない線。
未来を描くことも、希望を言葉にすることも。
手を伸ばすことさえ、世界の倫理に背く行為。
ハッピーエンドなんて、望むことそのものが罪。
だからこそこのキスは、温もりよりも、確かな喪失の予感だけを残していた。
雛河は、呼吸を整えてから、もう一度唇を重ねる。
先ほどよりも深く、逃げ道を塞ぐように、切実に。
慈しむようでありながら、最初から諦めを含んだ温度。
その矛盾が、ひよりの胸の奥を、きつく締めつける。
触れられているのに、既に失われつつあるものを、同時に抱きしめられている気がした。
───今夜だけ。今だけは。
シビュラの目が届かぬ夜の帳の中で。
許されないと知りながら、それでも消せぬ感情を、形として確かめるように唇が絡む。
離れたあとも、距離は保てなかった。
言葉は交わされず、ただ呼吸と体温だけが近づいていく。
互いの胸に潜む想いは、言葉にすることができない。
名前を与えた瞬間に、壊れてしまうと知っているから。
夜は、何も裁かず、何も肯定せず、ただゆっくりと更けていく。
やがて訪れる朝は、何事もなかったかのように二人を引き離すだろう。
同じ場所に立っていても、同じ方向を見ることは、もう許されない。
それでも。
この夜が確かに存在したことだけは、互いの記憶に焼き付けたかった。
苦いコーヒーの後味のように、飲み干した後で遅れて広がる罪の印として。
消えない温度が、胸の奥に残り続ける。
今はただ、それだけで十分だった。
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