La Cenerentola
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吐き気がした。
喉の奥から、理由のはっきりしない嫌悪感が、ゆっくりと這い上がってくる。
完熟トマトで煮込まれ、指で触れれば崩れ落ちそうな子羊肉のカチャトーラも、濃厚な甘さが舌の上でざらりと絡みつくパンプキンプディングも、深いガーネット色がグラスの内側で眩暈のように揺らめく葡萄酒も。
かつては生きている証みたいに感じられたそれらが、今ではただ胃酸を無意味に刺激するだけの異物に過ぎなかった。
これが最後の晩餐になるかもしれないという予感が、味覚をすべて麻痺させている。
プロシュートに言われた言葉が、頭の奥で何度も反芻される。
『いいか、オレ達は何もボードゲームをする為にチームを組んでるわけでも、傷の舐め合いをする為にペアで動いてるわけでもねえんだぜ。
万が一にでも
だがな、それはあくまでも保険の話であって、独りじゃあヤりきれねぇって甘ったれんなら、暗殺者を名乗る資格は無え。
なあ、そうだろ?
お前らもそろそろその湿気たツラを引き締めて、
厳しい口調の奥に滲む、奇妙なほどの温かみ。
それが信頼だと分かっているからこそ、私には重すぎた。
期待を裏切るかもしれない。失望されるかもしれない。
最悪の場合、見限られるかもしれない。
それでも、引き金に指をかけることが出来ない。
私はいつもそうだ。
部屋の隅で小さくなり、誰かが代わりにやってくれるのを、今も心のどこかで期待している。
それがどれほど卑怯で、救いようのない願望か分かっていながら。
私には何かを捨てる覚悟も、何かを選び取る覚悟もない。
ただ流され、息を潜めて生き延びてきただけの腰抜けだ。
それでも、パッショーネがそんな泣き言を許すほど寛容な組織ではないことは、堅気だった頃から嫌というほど知っていた。
弱い者は、生き方を選べない。
その事実を、私は何度も、何度も思い知らされてきたはずなのに。
ネアポリスの片隅で、ドブネズミのように生き長らえるためには、汚れた手でワインを流し込める人間になるしかない。
血と罪の味を、躊躇なく飲み干せるようにならなければならない。
そうでなければ私は、この世に何ひとつ爪痕を残さないまま、静かに、そして無意味に、
洗面台の縁に、力なく項垂れる。
陶器の冷たさが額に伝わり、顔を上げると、鏡の中には青褪めた貧相な女が映っていた。
目の下に落ちた影、血の気の引いた唇。
とても人を殺せる顔には見えない───そう思った瞬間、その考え自体が甘えなのだと胸の奥が軋んだ。
燃えるような深紅のドレスが、否応なく現実を突きつけてくる。
布地は身体に沿って無遠慮に曲線をなぞり、私という人間の弱さだけを浮き彫りにする。
鏡の中の女は、まるで他人のようだった。
リゾットは、今夜の任務内容を、私から一度も視線を逸らすことなく淡々と語った。
しくじれば首が飛ぶ。
それだけの、単純明快で、あまりにも残酷な掟を。
そこには脅しも感情もなく、ただ事実だけが並べられていた。
食事の皿がすべて下げられたあと、プロシュートから紙袋が差し出された。
高級ブティックのロゴが誇らしげに刷られたショッパー。
中には、紙袋と同じRosso───血のような赤のドレスと、口紅が一本だけ。
今夜は色仕掛けで
女であることすら、道具として計算され尽くしている。
気を紛らわせるように、純金製のブレスレットを指でなぞる。
ひんやりとした感触が、かろうじて思考を現実に引き戻した。
これがパーティーへの会員証だ。
内側に刻印されたバーコードで招待客を判別するらしい。
いかにも、金で選民意識を拵える連中が考えそうな仕組みだ。
ふと、これは元々誰の手首を飾っていたのだろう、と思った途端、重みが増した気がした。
ブレスレットに繋ぎ目は見当たらない。
つまり、外す方法もない。
いや、正確には、私は分かっていた。
リゾットにこれを嵌められた瞬間から、自分で外すことは出来ないのだと。
理解していて、私は抵抗しなかった。
どうせ、人生からは逃げられない。
どこへ行っても、結末は同じ場所に収束する。
ならばせめて、最後の一線でだけは目を逸らしたくなかった。
卑怯者に成り下がるくらいなら、汚れた手を差し出すほうを選ぶ。
それが私なりの、みっともない覚悟だった。
「馬子にも衣装だな」
その声に、胸の奥がひくりと鳴った。
顔を上げると、鏡越しに入口の壁へ寄り掛かる男と目が合う。
いつから、そこに居たのだろう。ドアの開く音は聞こえなかったはずだ。
気配を殺して人の背後に回る癖───それはもはや、彼らにとって呼吸と同じなのかもしれない。
……というか、ここ、一応女子トイレなのだけれど。
まさか、私が着替えている最中も見ていたわけじゃないでしょうね。
そんな疑念が顔に滲んだのだろう。男は肩を揺らし、「下着の色までは見てないぜ」と、愉快そうに笑った。相変わらず、救いようのないデリカシーの欠如だ。
悪趣味な笑みを浮かべたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
どうせ、震え上がっている私を冷やかしに来ただけなのだろう。相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
私は視線を鏡へ戻し、紙袋の中に転がっていた棘のある黄金色を手に取った。
キャップを外すと、ドレスと同じ艶やかな鮮色が、ぬらりと顔を出す。
似合うかしら。そんな迷いは一瞬で霧散した。
今さら、何を気取る必要がある。
半ば苛立ちに任せて唇へ滑らせた瞬間、鏡の中で、ベルベットの薔薇がひっそりと咲いた。
「プロシュートのヤツ、良い趣味してんじゃあねえか」
「こういう時は、服じゃなくて女性を褒めるものよ、イルーゾォ。だからあなたって、女に逃げられるんだわ」
「ガキみてぇに不貞腐れんなよ。色っぽいドレスが台無しだぜ」
軽口の応酬の最中、ふいに下半身へ違和感が走った。
ぎょっとして鏡を見ると、いつの間にか、男の腕が私の腰に回されている。
鏡越しに目が合い、息が詰まる。
意図が分からず、その大きな手から逃れようとしたが、太い腕にあっさりと制される。
派手な布を身に纏っても、結局、経験の浅さまでは隠しきれないらしい。
彼は何を思ったのか、呆気に取られる私をそのまま抱き上げ、
洗面台の上へ、壊れ物でも扱うみたいに、そっと下ろした。
薄い布越しに伝わる、大理石の鋭く冷たい感触。
思わず身震いが背骨を走る。
降りようとじたばたしてみたけれど、「すぐ終わるから、じっとしてろ」返ってきたのは、それだけだった。
一体、何をするつもりなのだろう。
彼の普段の素行を思えば、碌でもない想像ばかりが頭をよぎる。
……けれど、まあ、いいか。
現実から目を逸らせる時間を、ほんの少しでも引き延ばせるのなら。
そう思って、ばたつかせていた脚を、静かに止めた。
イルーゾォは私の存在など意にも介さず、床へとしゃがみ込み、大きな背中の陰に隠していたらしい何かをガサゴソと探っている。
彼の体躯がやたらと大きいせいで、私の視界に入るのは、照明に反射して天使の輪を描くような綺麗なブルネットと、幼い男の子みたいに無防備なつむじだけだった。
───丸い後頭部。なんだか、ひどく可愛らしい。
変な話だけれど、彼にもちゃんとつむじなんてものがあるんだな、と思ってしまった。
隙のない暗殺者にも、こんな無防備な一面があるのだと気付くと、胸の奥がくすぐったくなって、思わず笑いそうになる。
もっとも、それが彼に知られたら面倒なことになるのは目に見えているので、必死で唇を噛みしめて堪えたのだけれど。
イルーゾォは、そんな私の視線にも気付かず、顔すら上げようとしない。
彼はこういう時、何をするのか尋ねたところで、決して答えてくれない男だ。
底意地の悪い笑みを浮かべて一瞥するだけで、「まあ、楽しみにしてろ」とでも言いたげに黙り込むのがお決まりだった。
だから今日は、敢えて聞かないことにした。
深紅のドレスが似合う、余裕のある女みたいに。
ただ黙って、待ってみることにした。
しばらくして、履き慣れたフラットシューズが無造作に脱がされる。
急に外気へ晒された素足が、居場所を失ったみたいに心許なく宙に揺れた。
その瞬間、熱を帯びた掌が、ぶらつく私の足をしっかりと受け止める。
……変なの。なんだか、王子様みたい。
見てくれはちっともそんな柄じゃないし、言葉の選び方も態度も、むしろ正反対なのに。
それでも、どうしてかそんな連想が浮かんでしまう。
昔読んだ絵本に、似た場面があった気がする。
母が読み聞かせてくれた、あの話。
好きだったはずなのに、タイトルがどうしても思い出せない。
あの本、結局どこへやったんだろう───そんな、どうでもいいことばかりが頭を巡る。
「緊張してんだろ」唐突に投げかけられた一言で、私は強引に現実へ引き戻された。
「……うん」
「だろうな。まあ、最初は誰でもそんなもんだ」
「本当に? イルーゾォも、初めてはこうだったの?」
「お前にはオレがどう見えてるのか知らねえが。根っからの殺人鬼なんざ、いくらギャングの世界でも、そう多くは居ねえよ」
「……そうなんだ」
そういうものなのか。
少し、意外だった。
皆、最初から何の躊躇いもなく引き金を引けるのだと思っていた。
私とは根本から違う、生まれつき壊れた人間たちなのだと───勝手に、そう決めつけていたから。
最初は、誰でもこんなもの。
その言葉が、胸の奥で静かに反芻される。
不思議なことに、胃の奥に溜まっていた重たい違和感が、ほんの少しだけ和らいだ。
恐怖が消えたわけじゃない。ただ、独りじゃないのだと思えただけだ。
「体が、まるで自分の物じゃあねえみたいに、言うこと聞かねえんだろ?」
「う、うん」
「終わった後は、もっと酷いぞ」
イルーゾォは口端を吊り上げ、意地悪そうに私を見る。
勇気づけに来たのか、それとも脅しに来たのか。
もしかしたら、ただ心底ビビっている私を揶揄いたかっただけなのかもしれない。
けれど……たぶん、彼の言う通りなのだろう。
今でさえ、孤独感に押し潰されそうになっている。
それに加えて、取り返しのつかない罪悪感まで背負うのだ。
背徳の海に沈み、生き地獄を味わう未来は、あまりにも容易く想像できた。
「ま、安心しろ。肩慣らしのドライブくらいなら付き合ってやる。
どうせ、その状態で運転は無理だろ」
そう言って、イルーゾォは少し照れくさそうに項を掻き、立ち上がる。
その仕草を見て、ようやく気付いた。
彼が今こうして私に構っているのは、“ギリギリまでは独りにさせない”という、彼なりの配慮なのだと。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
不器用な優しさ。いかにも、彼らしい。
それでも今は、その言葉がどれほど心強いか、同じ夜を越えた彼なら、きっと知っているはずだ。
イルーゾォは、最初の夜をどうやって乗り越えたのだろう。
震えて、震えて、眠れなかったんじゃないか。
死ぬほど怖くて、誰にも見せないところで泣いたんじゃあないか。
きっと、独りきりで。
「これは、オレからだ」
そう言って、彼は短く顎で示した。
「晴れ舞台には、上等な靴が要るだろ?」
促されるまま視線を落として、はじめて気付く。
いつの間にか、私の足元には、きらきらと光を抱え込むようなパンプスが履かれていた。
見るからに高価で、まるで宝石細工のような靴。
自分の人生では、ショーケース越しに眺めることすら許されないと思っていた代物だ。
角度を変えると、深紅のドレスを映し込んで薔薇色に染まり、さらに少し傾けると、今度は月光を掬い取ったような、冷たくも優しい光に包まれる。
宝石なんて、もちろん、誰かに贈られたことはない。
けれど───この靴には、それ以上の価値があった。
胸の奥に、ぽっと小さな灯りがともる。
怯えきっていた心の闇に、確かに差し込む、温かな明かり。
今なら、どんな女にだってなれる気がした。
強くて、気高くて、誰にも見下されない女に。
その光に見惚れていると、不意に背中へ、確かな腕の温もりが触れた。
息を呑む間もなく、彼はまるで当然の所作のように、私の体を抱き上げる。
お姫様を扱うみたいに、乱暴さは一切なく、冷たい大理石の上から、そっと、丁寧に降ろしてくれた。
その腕の強さと優しさが同時に伝わってきて、胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じていた。
イタリア車の本領を発揮するには、これ以上ないほど都合のいい道。
赤いテールランプが、夜の海を泳ぐ魚の群れみたいに、滑らかに流れていく。
私たちの乗る車を追い越しては、光の帯となって闇へ溶けていった。
私は窓の外へ視線を預け、ぼんやりとその光景を眺めていた。
いつもなら「もう少しスピード落として」と口を出してしまうほど、せっかちな男なのに。
今夜は珍しく、何かを気遣うみたいに、制限速度を余裕で下回っている。
いっそのこと、このまま辿り着かなければいいのに。
そんな身勝手な考えが、また胸をよぎる。
目的地に着いたところで、心の準備なんて、きっと出来ないのだから。
不意に、カーステレオから音楽が流れだした。
レトロで、どこか懐かしい、ゆったりとしたロマンティックな旋律。
私の沈んだ横顔に気付いたのか、イルーゾォが何も言わずにボリュームを上げる。
歌詞が、さっきよりもくっきりと耳に届いた。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
「何だ、お前もこの曲、知ってるのか?」
唐突な問いかけに、首を横に振る。
「ううん。知らないけど……ねぇ、これ、何ていう曲?」
彼は少し考え込むように黙り、やがて思い出したように言った。
「何だったっけか。ああ、確か───」
“────
ああ。
そうだった。
私が、子供の頃、何度も何度も読んでもらった絵本。
忘れていた、母の声。
夜更けの寝室で、ページをめくる音と一緒に聞こえていた、あの優しい囁き。
思い出した。
胸の奥に、長い間眠っていた記憶が、静かに息を吹き返す。
イルーゾォ、本当はね。
心の中で、隣にいるあなたに、そっと話しかけてみる。
本当はずっと、不安で、不安で仕方がなかった。
暗殺者チームに配属されたと聞いたあの日から、胸の奥に冷たい塊を抱えたまま、ここまで来てしまった。
スタンド能力だけが頼りで、人一倍臆病なこの私は、これっぽっちもギャング向きじゃない。
ましてや、人を殺すなんて。
そう思うたび、自分だけが場違いな影みたいに感じられて、何度も息が詰まりそうになった。
だけどね。
食事が喉を通らない私を気遣って、何も言わずにパンプキンプディングをテイクアウトしてくれたペッシも。
田舎娘を今夜の主役に仕立て上げるみたいに、燃えるようなドレスを選んでくれたプロシュートも。
普段は人一倍金にうるさいくせに、星付きのディナーを折半だと言って奢ってくれた、ギアッチョとホルマジオも。
仕上げだと言って、私の手首にそっと香水をひと振りしてくれたメローネも。
「自分の命を最優先にしろ」と、冷酷な掟を掲げるリーダーの顔でいながら、あんな言葉をくれたリゾットも。
そして、
さっきからずっと、何も言わずに。
不器用で、少し乱暴なのに、驚くほど優しい手で。
震えが止まらない私の手を、離さず包み込んでくれている、あなたも。
そのひとつひとつが、胸の奥で静かに積もっていった。
気付けば、不安よりも、恐怖よりも、ずっと大きな感情がそこにあった。
───心の底から、守りたいと思ったの。
「ひより」
車に背を向けた、その瞬間だった。
不意に名前を呼ばれて振り返ると、イルーゾォが心配そうな顔で立ち尽くしていた。
言葉を探しているのか、唇だけがわずかに動いて、結局何も出てこない。
なんだか今日は、彼らしくない。
いつもなら、余計な一言を、底意地の悪い笑顔に包んで投げてくるくせに。
私たちのあいだを、冷たい夜風が吹き抜けた。
それでも身体は、もう震えていない。
いつの間にか、彼の熱い体温が移ってしまったみたいだった。
「ねぇ」
声を掛けると、落としていた視線が、ゆっくりとこちらへ向けられる。
その目は、夜会の終わりを惜しむ子供みたいに、不器用で、少しだけ寂しそうだった。
「帰ってきたら、抱き締めてくれる?」
イルーゾォは、ほんの一拍、時間が止まったみたいに固まって。
やがて照れたように目を逸らし、低く、短く息を吐いた。
「……十二時までなら、ここに居る」
それは約束というより、祈りに近い呟きだった。
薔薇色のドレスが、夜風に踊る。
ダイヤモンドの靴が、舗道を高らかに鳴らす。
太腿に忍ばせたナイフは、月光を吸って、いっそう冷たさを増していく。
今夜、私は天に唾を吐く。
魔法が解けるその時刻まで、夢に酔い、血の匂いと共に踊り切る。
───ねえ、知っていて?
シンデレラは、ただ守られるだけの娘じゃない。
あなたたちを守るためなら、私は。
硝子の靴で、地獄を踏みしめる。
十二時の鐘が鳴る、その瞬間まで。
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