【お隣さんと私】
思い出は美化される。では、それが“思ヰ出”ならばどうなのだろう。一文字入れ替えられただけなのにどことなくノスタルジーになるというか、奇怪な何かに変容してヰく。ヰとはなんなのだ――。
築60年というところだろう。勤め先の雑居ビルの取り壊しが決まった。親から通勤時間は短いほうが良いと勧められ、適当に応募して、就職した現在の仕事。可もなく不可もない仕事と職場。ただし、距離は通っていた小学校よりも近いというのありがたかったのにとつい、ため息がこぼれる。
事務所の引っ越し準備をしながら、不意に小学生のときはこの雑居ビルはオバケビルなんて呼ばれていて、肝試しをしていたなんて記憶が蘇った。
一番上の階まで上がって降りてくる。ただそれだけなのに、ドキドキが止まらなくて、それでいていつも誰かに怒られていた気がする。独特な訛りのあるオジサンがいたような……けど、おかしいな。このビルの一番上の階って屋上に続く扉しかないのに。
「休憩貰います」
切りのいいところで、僕は上司に声をかけて昼食をとることにした。大人になってからはエレベーターしか使わなかったけれど、もう上がる機会もなくなるから階段で一番上の階まで行ってみよう。
コンビニで買ってきた菓子パンと缶コーヒーに癖で買ってしまったレジ横のどんぐりガムのコーラ味を片手に、一歩ずつ最上階を目指す。子供の頃は息切れなんてしなかったのに、途中から額に薄っすらと汗がにじむ。
やはり記憶は正しかった。一番上の階、最上階には鍵がしっかりと閉まった屋上に続く扉と壁に埋め込まれた消火栓ボックスがあるだけで他には何もない。ないのに、記憶の中にはここに来ると必ず誰かと会ってヰたはずなんだ。
背中を壁にあずけ、扉の窓の向こうの空を見ながら菓子パンを開ける。
「もし、兄さん」
懐かしヰ声が聞こえた気がした。慌てて周りを見回すけれど誰もいない。階段の方まで見に行ったけれど、人の気配すら感じない。
「こっちや、こっち。壁や、壁」
声に従って壁を見たけれど消火栓ボックスがあるだけ。赤いランプが今にも消えそうにボンヤリと光っているだけで、だからといって中に人が入っているなんて大きさではない。
それでもジッと見つめていると左右のスピーカーが目で真ん中の通報ボタンとライトが口と鼻のように見えて、顔のように感じる。シミュラクラ現象というやつだと思いながら、一歩後ろに下がるとホースの入っているところが身体のように思えて[昭和、ブリキ、ロボット]と検索したら出てくるような玩具にみえてきた。
「まさかね」
「そのまさかなんやね」
呟きに返事が返ってきて「ヰっ」と声がもれる。ヰってなんだよ。
「兄さん、昼ごはんそんなちょっとでキリキリ働けますんかいな」
こちらはまだ驚いている途中なのに独特な訛りで消火栓は勝手に話しかけてくる。
「ワテが作られたときなんて、みんな弁当箱ギュウギュウに白米を詰めてちょんと赤い梅干しを乗せてなって、聞いとりますのん??」
返事をしなくても話を続けるこの奇妙なモノの黙らせ方を僕の記憶は知ってヰた。
ゆっくりと手を伸ばし[強く押す]という文字のボタンに指を置くと押してもいないのに「ギャァアアアアアア!!!!」という野太いオッサンの叫び声がひとしきり響いた後に、全てが嘘だったように静まり返る。
「なにしはりますのん」
「いえ、押さなきゃいけない気がして」
息切れするような声での問いかけに、冷静に返事をしながらこのやりとりを確かに知ってヰると思った。
「つい最近まで、しょっちゅうここに来る子供がおりましてな、緊急時しか押したらアカンでっていうてるのに事あるごとに押そうとしとってん」
消火栓ロボ(仮名)は「どこにやったかな」とホースが収納されているであろう所をカタカタとならして扉の隙間から一枚のメダルを吐き出す。子供の頃に流行っていて、僕も集めてたヒーローのメダルだと思いながら拾い上げると、そこには確かに僕の字で僕の名前が書かれてヰた。
「これ、僕のだ」
勝手に言葉がこぼれる。
「なに言っとりますん。これをワテにくれた子はまだランドセル背負って、駄菓子の当たり一つで一喜一憂しとった小学生でっせ。兄さんみたいにビシッとスーツで決めとる大人とは……」
消火栓ロボの声が段々小さくなっていく。
「その子供、よく給食のパンを残して無理矢理扉の中に入れて、怒られそうになったら鼻のボタン押して、また怒られてたでしょ」
僕の言葉に消火栓ロボは返事をしなかった。
「子供はほんま嫌いですわ。気が付いたらすぐ大きくなって、ワテらの事なんて忘れしまいよる。いや、忘れてたんはワテも同じか。もう歳やね」
嘲笑気味な笑いにどう返事を返せばいいかわからず困っていると「たぶん、最後に会えた人間が兄さんでよかったわ。ほんま大きくなったんやな。でも相変わらず食事は少ない。いっぱい食べてもっと大きくならんとアカンで??」なんて別れでも告げるように消火栓ロボが話すものだから余計に言葉に詰まってしまう。
「あ、明日も来るよ!! 明後日も!! このビルが取り壊される最後の日まで来るから!!」
やっと出てきた言葉を伝えると「アカン、アカン」と返事された。
「思ヰ出は思い出だからいいんや。たまに思ヰ出すくらヰが、ワテらと人間には丁度ええんやで」
でもこうしてまた再開できたのに。
「“どこにでもヰる。気が付けばヰる。でもヰないかもしれなヰ。ヰ常でおかしヰモノ”やからな。日常になったらヰカンのや。お互ヰにな」
ヰ味がわからない。言い返す言葉を探していると、休憩時間の終わりを知らせるアラームが鳴り響いた。
「仕事は大切やで。元気でな」
咄嗟にさっき買ったどんぐりガムを消火栓ロボの前に置ヰて階段を駆け下りる。
それからビルが取り壊される最後の日まで消火栓ロボのところに行ったけれど、そこにあるのはただの消火栓ボックスで何をしても二度と独特な訛りで言葉を話すことはなかった。でもあの日から同じ形の消火栓ボックスを見つけると、また話しかけてくれるのではなヰかと強く押すのボタンにソッと手を伸ばしてしまうんだ。
築60年というところだろう。勤め先の雑居ビルの取り壊しが決まった。親から通勤時間は短いほうが良いと勧められ、適当に応募して、就職した現在の仕事。可もなく不可もない仕事と職場。ただし、距離は通っていた小学校よりも近いというのありがたかったのにとつい、ため息がこぼれる。
事務所の引っ越し準備をしながら、不意に小学生のときはこの雑居ビルはオバケビルなんて呼ばれていて、肝試しをしていたなんて記憶が蘇った。
一番上の階まで上がって降りてくる。ただそれだけなのに、ドキドキが止まらなくて、それでいていつも誰かに怒られていた気がする。独特な訛りのあるオジサンがいたような……けど、おかしいな。このビルの一番上の階って屋上に続く扉しかないのに。
「休憩貰います」
切りのいいところで、僕は上司に声をかけて昼食をとることにした。大人になってからはエレベーターしか使わなかったけれど、もう上がる機会もなくなるから階段で一番上の階まで行ってみよう。
コンビニで買ってきた菓子パンと缶コーヒーに癖で買ってしまったレジ横のどんぐりガムのコーラ味を片手に、一歩ずつ最上階を目指す。子供の頃は息切れなんてしなかったのに、途中から額に薄っすらと汗がにじむ。
やはり記憶は正しかった。一番上の階、最上階には鍵がしっかりと閉まった屋上に続く扉と壁に埋め込まれた消火栓ボックスがあるだけで他には何もない。ないのに、記憶の中にはここに来ると必ず誰かと会ってヰたはずなんだ。
背中を壁にあずけ、扉の窓の向こうの空を見ながら菓子パンを開ける。
「もし、兄さん」
懐かしヰ声が聞こえた気がした。慌てて周りを見回すけれど誰もいない。階段の方まで見に行ったけれど、人の気配すら感じない。
「こっちや、こっち。壁や、壁」
声に従って壁を見たけれど消火栓ボックスがあるだけ。赤いランプが今にも消えそうにボンヤリと光っているだけで、だからといって中に人が入っているなんて大きさではない。
それでもジッと見つめていると左右のスピーカーが目で真ん中の通報ボタンとライトが口と鼻のように見えて、顔のように感じる。シミュラクラ現象というやつだと思いながら、一歩後ろに下がるとホースの入っているところが身体のように思えて[昭和、ブリキ、ロボット]と検索したら出てくるような玩具にみえてきた。
「まさかね」
「そのまさかなんやね」
呟きに返事が返ってきて「ヰっ」と声がもれる。ヰってなんだよ。
「兄さん、昼ごはんそんなちょっとでキリキリ働けますんかいな」
こちらはまだ驚いている途中なのに独特な訛りで消火栓は勝手に話しかけてくる。
「ワテが作られたときなんて、みんな弁当箱ギュウギュウに白米を詰めてちょんと赤い梅干しを乗せてなって、聞いとりますのん??」
返事をしなくても話を続けるこの奇妙なモノの黙らせ方を僕の記憶は知ってヰた。
ゆっくりと手を伸ばし[強く押す]という文字のボタンに指を置くと押してもいないのに「ギャァアアアアアア!!!!」という野太いオッサンの叫び声がひとしきり響いた後に、全てが嘘だったように静まり返る。
「なにしはりますのん」
「いえ、押さなきゃいけない気がして」
息切れするような声での問いかけに、冷静に返事をしながらこのやりとりを確かに知ってヰると思った。
「つい最近まで、しょっちゅうここに来る子供がおりましてな、緊急時しか押したらアカンでっていうてるのに事あるごとに押そうとしとってん」
消火栓ロボ(仮名)は「どこにやったかな」とホースが収納されているであろう所をカタカタとならして扉の隙間から一枚のメダルを吐き出す。子供の頃に流行っていて、僕も集めてたヒーローのメダルだと思いながら拾い上げると、そこには確かに僕の字で僕の名前が書かれてヰた。
「これ、僕のだ」
勝手に言葉がこぼれる。
「なに言っとりますん。これをワテにくれた子はまだランドセル背負って、駄菓子の当たり一つで一喜一憂しとった小学生でっせ。兄さんみたいにビシッとスーツで決めとる大人とは……」
消火栓ロボの声が段々小さくなっていく。
「その子供、よく給食のパンを残して無理矢理扉の中に入れて、怒られそうになったら鼻のボタン押して、また怒られてたでしょ」
僕の言葉に消火栓ロボは返事をしなかった。
「子供はほんま嫌いですわ。気が付いたらすぐ大きくなって、ワテらの事なんて忘れしまいよる。いや、忘れてたんはワテも同じか。もう歳やね」
嘲笑気味な笑いにどう返事を返せばいいかわからず困っていると「たぶん、最後に会えた人間が兄さんでよかったわ。ほんま大きくなったんやな。でも相変わらず食事は少ない。いっぱい食べてもっと大きくならんとアカンで??」なんて別れでも告げるように消火栓ロボが話すものだから余計に言葉に詰まってしまう。
「あ、明日も来るよ!! 明後日も!! このビルが取り壊される最後の日まで来るから!!」
やっと出てきた言葉を伝えると「アカン、アカン」と返事された。
「思ヰ出は思い出だからいいんや。たまに思ヰ出すくらヰが、ワテらと人間には丁度ええんやで」
でもこうしてまた再開できたのに。
「“どこにでもヰる。気が付けばヰる。でもヰないかもしれなヰ。ヰ常でおかしヰモノ”やからな。日常になったらヰカンのや。お互ヰにな」
ヰ味がわからない。言い返す言葉を探していると、休憩時間の終わりを知らせるアラームが鳴り響いた。
「仕事は大切やで。元気でな」
咄嗟にさっき買ったどんぐりガムを消火栓ロボの前に置ヰて階段を駆け下りる。
それからビルが取り壊される最後の日まで消火栓ロボのところに行ったけれど、そこにあるのはただの消火栓ボックスで何をしても二度と独特な訛りで言葉を話すことはなかった。でもあの日から同じ形の消火栓ボックスを見つけると、また話しかけてくれるのではなヰかと強く押すのボタンにソッと手を伸ばしてしまうんだ。