雨降りウテナ

雨降りウテナと不思議な森(5/6)




「ほんとにアンブルさま? 不躾なことをお訊ねしますけど、僕の主人の話と年齢が合わないような……」

「私の森は現実世界とは時間の流れが違うのよ」

琥珀色の少女・アンブルは何でもないことのようににっこりとほほ笑む。
そういえばトワイライト夫人がこの森について話した時、そんなことを言ったような……。
この森はほとんど時間が止まっているらしい。

「あなたイバラちゃんのおつかいね」

「イバラ? ……あ、トワイライト夫人のことですね。そう、その方の使いで、これを」

当たり前の話だが“トワイライト夫人”という呼び名は“トワイライトという男の妻”を意味していて、夫人の本名は“イバラ”だ。
旦那様は夫人との間に子をなすこともなく遠い昔に戦争で亡くなったが、夫人は今もなお“トワイライト夫人”という呼び名を大切にしている。
あまりに一途で、切ない話だ。

「イバラちゃんは元気?」

ウテナがつかいものを取り出す僅かな隙に、静かに問いかけられる。
その声音は若い姿には似つかわしくないような懐古と郷愁がにじむもので、ウテナはようやく彼女が生きた本来の時間が、トワイライト夫人と同じ程長いことを意識した。

「もう元気すぎて大変ですよ、元気がないよりは良いかもしれないけど」

くすりと笑う彼女に、小さな袋を手渡す。
興味深そうに琥珀色の小花が描かれた深緑の巾着を眺めるアンブルは、その中身については知らないようだ。
ウテナも中身については聞いていなかったので、アンブルが紐を解くのを注視した。
細く白い指が、焦らすような丁寧さで包みを開ける。
コロコロと内容物がぶつかる音がし、つまめるほどの小さな球体がひとつ、アンブルの指先に捕まった。

「……それは、飴……?」

「そう、向こうは今雨期なのね?」

「雨期と飴玉に関係があるんですか?」

「イバラちゃんは雨期になると飴を持ってきてくれるの。夏季には干菓子、冬季にはチョコレートといった感じで季節を教えてくれるわ。ここには四季が無いから」

「ああ……」

あの人、そんなことをしていたのか。
夫人はチャランポランな所は全力で出してくるが、そういう真面目な所はあまりアピールしない人だということは知っている。
個人的なことについて知られるのを避けるタイプだということも。

自分はもう子供ではないと思っているウテナにとって、こうしてギリギリまで夫人のことを知らず、夫人に頼られないのは不安の積もることもあった。

「イバラちゃんの話を参考にしながら、ある程度は森の気候も変えているのよ。こんなふうに」

アンブルが空中に手を伸ばすと、白い指先から綿毛のような柔らかな光が生まれ、ふわふわと旅立っていく。
それが空に溶けると、俄かに雲となり、雨粒が垂れ始めた。
ウテナの頬に水滴が落ちる。

「……すごい、これが魔法?」

「ここにいる動物たちにとっても四季があったほうがいいと私も思うの。終わりのない安定より、限りある一瞬の連続のほうが美しいし、永遠というものを感じるわ」

徐々に色が濃くなっていく風景の中、ウテナはアンブルの水滴のついた頬をハンカチで押さえた。

「これからも、永遠にこの森にいるんですか?」

アンブルの表情が一瞬にして泣き出しそうに変わる。多分一番聞いてはいけない質問だっただろう。
しかしウテナにはどうしても、今のアンブルにとってこの森が、絶対に必要なものだとは思えなかった。
彼女はもう苦しみの時期を過ぎているが、現実世界との時間のズレが大きすぎ、今さら情のわいたこの場所以外に行き場が無いという理由でとどまっているように見える。
もしそうならば、自分が救えるかもしれない。
少なくともアンブルと全く違うとは言えない境遇であることが、ウテナに説得の自信を持たせていた。

「……昔は……」

アンブルのか細い声が、俯いた顔から吐き出される。

「昔は、動物たちが私の話し相手になってくれていたの。そのおかげで私は救われた。ここまで元気になることができた。だけどやがて動物たちは自分たちのコミュニティを作って、独自の規律や生活様式で暮らすようになった。今の私はこの世界の創造神みたいな存在で、動物の友達じゃないわ」

「そう……でも僕は友達になれる。一緒に森を出ない? もう君をいじめる人はいないよ。トワイライト夫人……イバラさまも、きっと待ってる」

「私、一度森を出たの」

「え?」

「森を捨てたの。私の力が及ばなくなった森はあるべき姿に戻り、動物は皆獣の姿にもどったわ。そして、魔法の森が出来てからそこに生まれた動物は、みんな消滅してしまった。彼らは私の魔法そのものなの。私がいないと消えてしまう。わかる? 今となってはこの森に居る動物全員が私の魔法の産物。私が森を出たら全て消えてしまうの。生まれる時も私の勝手。消える時も私の勝手。私を支えてくれた彼らにそんな仕打ち、……できないわ」

今が幸せだと装うこともせず、アンブルは言った。

「この森を消さないことが今の私の役目、動物たちへの恩返しなの」

森の動物はアンブルの慰みという役目を離れて独自の生活様式を構築し、もはやアンブルのことを良く知っているわけではなくなったが、未だに彼女のことを第一に考えている。少なくともウテナが見た兎と猫の二匹はアンブルに感謝など望んでいないし、アンブルが森を出る結論を出したとして、反乱を起こすような感じではない。
彼らを生み出したアンブル自身がそれを一番わかっているはずなのに自己犠牲のように森に尽くす様子は、まるでありもしない妄想の罪を被り、虚空に向かって許しを乞う人のようであった。

「君が作った森に、君自身が支配されることはないよ」

自分のために存在した森がいつのまにか手を離れ、独立してしまった。
それを――ひとつの世界を消すという選択は簡単なものではないだろう。
しかし“限りある一瞬の連続のほうが美しいし、永遠というものを感じる”とアンブルは言った。では美しい森の歯車を動かすために、アンブルはずっと止まっているのか? そんな皮肉はあってはならない。

「作った者が終わらせるのも大切な役目だと思う」

アンブルの腕を強く引き、濡れた花の絨毯から立ち上がる。
水滴と花弁が光りながら互いの服の上を転がり、さわさわと微かな音を立てて地に落ちる。
その最後に続いたのは、アンブルの瞳の端から新たに零れた涙だった。

「こんな力、なければよかったの。また誰かに怖い思いをさせるなら、ずっとここに隠れていた方がいい。ウテナ、あなただっていつか私を怖いと思うにちがいないわ」

「君よりも怖いものなんかたくさん知ってるよ。トワイライト夫人はもちろん、不幸体質の紳士とか、僕を取り囲んでほっぺをつついてくる貴婦人なんかは特に怖かった。君は怖いどころか、僕が知ってる中で一番きれいだ」

「……」

まん丸に見開かれた濡れた瞳を見て、ウテナは慌ててアンブルと少しの距離をとった。そうしてようやく彼女の腕を取ったままだということに気が付き、更に焦ってその手を離す。
説得に夢中で意識などしていなかったが、異性の腕など掴んで引き寄せたことは初めてだ。遅まきながら「痛くない?」と聞くと、「真っ赤ね」とウテナの顔を指して揶揄って見せたアンブルの頬もまた、紅潮していた。

戸惑って言葉を失うウテナを少しの間見つめた後、アンブルは一息ついて腕を差し出す。
今までで一番のその眼差しの強さに、ウテナは魔法でも何でもない、彼女自身の強さを覚えた。
その、声音の明瞭さにも。

「あなたが“痛くないだろう”と思う強さでまた手を握ってくれたら、一緒に行くわ」



***



アンブルが森を出るとして、森は突然に消えるのではなく、徐々に魔法の力が及ばなくなり、その姿を本来の森へと戻していくのだという。

「森から帰る方法を夫人から聞いてないんだけど……」

手を繋いだままアンブルに先導されて森を進む道すがら、ウテナは気になっていた事柄をぽつぽつと質問していた。
トワイライト夫人は本当にいろんなことを伝え漏らしていて、何度“嫌になる”と思えばいいのだろう。

「大丈夫よ。私が帰してあげる。手を繋いでいたら私も同じ場所で目覚めるわ」

(……それって……?)

なんだか大変なことになりそうな予感がする。
今となっては寝ている自分の体を移動することなど不可能だし、焦っても仕方がないのだが、想像した通りになれば責任は自分が負うのだろうか?

「言っておくけど、現実世界に行って私の姿がどうなっているかはお約束できないから期待しないでね」

「き、期待なんかしてないっ!」

「ここよ」

何の変哲もない森の一角に立つが、アンブルが指さした方向には特にこれといった道も特徴も無い。

「あそこにある二本の木の間が、現実と繋がってるの。場所は度々移動していて、私だけがその在処を知ってる。……じゃあ、準備はいい?」

「うん、大丈夫」

「さよなら私の森。ありがとう」

振り返ってそれだけ言うと、アンブルは何の未練も無いようにウテナと揃って幹の間をすり抜ける。
途端に明るいのか暗いのか、極彩色なのか単色なのかわからい景色に変わり、二人の体は溶けるように滲み、燃えるように輝いた。
だが何かがおかしい。
消えていくウテナとは違って、アンブルの体は強く輝きが増すばかりで、アンブル自身もその変化に驚き、白く光る自分の手の平とウテナとを、何度か見比べた。

「ああ……ウテナ」

「どうしたのアンブル。何かおかしい。戻ろう」

「ごめんなさい、やっぱり私、行けないわ」

「どうして」

「長く森に居過ぎたのよ。ごめんなさい。でもあなたが言ってくれたこと、絶対に忘れないわ。ありがとう」

「アンブル!」

「……、私の、」

「なに!?」

「私のなまえ、“……”」

アンブルの腕の感触がなくなり、黄金色の蜜が景色に溶けていく。ウテナの体は意思と無関係に現実側に引きずられ、もはや戻ることはできなかった。

「また来るよ! 絶対だよ!」

ウテナの背を、暖かなものが強く押した。


――――そうして、ウテナは目覚めた。






雨降りウテナと不思議な森(6/6) [2317] へ続く


13/14ページ