雨降りウテナ

雨降りウテナと不思議な森(6/6)




足音も気にせず駆け上がった先に、トワイライト夫人の姿を探す。

どれだけ眠っていたのかはわからない。窓の外の様子はウテナが眠る前と変わらないようにも見えるが、静けさの種類が違うような気もした。
戻ってきてもまた不安に駆られて走るなんて、僕はどれだけ臆病なのだろう。

「あらお帰り」

「うわっ!」

突然廊下の柱の陰から現れた夫人にぶつかりそうになり、一瞬の機転で身をひるがえして衝突を避けた。真正面からぶつかるのも、肩や腕をひん掴むのも妙なためらいがあり、仕方がなくウテナは床に転がった。
呆れて差し伸べた夫人の手は取らず、ウテナは立ち上がる。夫人は受け取り拒否された手を所在無げに軽く見つめ、「そんなに慌てなくても」と鷹揚に声をかける。

「アンブルには会えたの?」

「は、はい……。飴もお渡ししました。でも……」

居室に戻り、アンブルを森の外に連れ出そうとしたこと、アンブルが一緒に戻ってこられなかったことを夫人に伝える。
長くここに居過ぎた……アンブルはそう言った。
それが森への愛着を意味していないなら、一体彼女は何を言いたかったのだろうか。

夫人はいつになく神妙に、テーブルに置かれた冷めたティーカップを見つめていた。
このティーカップはウテナが眠る前に夫人が使っていたそのままだ。眠っていた時間は短かったのだろう。
それより、この沈黙に何か重い意味が隠されていそうで、ウテナは発言を急かそうにもできなかった。


「そう……。そうなのね……」

(ああ、嫌だ。この表情を知っている)

とっさに脳裏に浮かびかけたものを無意識の中で抑え込み、ウテナは夫人の言葉に耳を傾けた。

「アンブルの森は、現実とは時間の流れが違うのよ」

「ええ……それは出発前に聞きましたけど……」

森の時間は殆ど止まっていて、アンブルは動物たちが瑞々しく生きられるように、出来るだけ四季や天気の変化をつけていた。
アンブルにとっては自分勝手に森を創造したことに対する贖罪であった。
しかしそれこそが自分勝手と言えるもので、ウテナは自らを責めるアンブルをさとして森から連れ出そうとしたのだった。

そして、光り輝いて消えてしまった。

「アンブルに会った時、おかしいと思わなかったの?」

「そりゃあ思いました。だって、聞いてた話と見た目の年齢が全然合わないんですもん。だけど、それは森の時間が止まってるからですよね?」

「そうよ、森の時間は動かない。私たちのいる現実世界とは違って、ずっと姿が変わらないの。ずっとね……」

「それじゃあ……アンブルは……」

瞼を閉じた母。
母を囲む人々。
ウテナを見る人々。

意識の底から思い起こした表情が、トワイライト夫人の顔と重なる。

「アンブルはもう現実世界には存在しないものになってしまったの。だからこっちには来られない。森に残った彼女の意識が、魔法の力でその姿を見せているのね」

ウテナの瞳には、光るものが溜まっている。アンブルを呼び捨てたことで察したトワイライト夫人は「とても仲良くなったのね」と、静かに微笑んだ。

「アンブルに森を出る決心を付けさせたのはあなたが初めてよ。まあ、精神年齢が近かっただけかもしれないけど」

ウテナが少し笑ったことで、瞳の端からは一筋、涙が零れた。

森に行けばアンブルには会えるだろう。しかし、この世に存在しないアンブルの魔法が、いつまで有効なのかはわからない。
もし魔法の力が消えてしまえば、もはや魔法そのものとなったアンブルさえも消えてしまうだろう。

「ウテナ、これからアンブルのご機嫌伺いはあなたにお願いするわ。……これからも、あの子といい友達でいてね」

「あの……」

「なあに?」

「僕は釘をさされたんでしょうか?」

美しい泣き顔には似合わないすっとぼけた質問。ウテナは混乱していた。だがそれは、今までこらえていた夫人の緊張を溶かし、涙を押し出すのに充分な威力とタイミングだった。

友人を失って涙を流す彼女は、きっとウテナの母が亡くなった時も同じように泣いたのだろう。
今のウテナはただ、泣いている夫人に寄り添いながら自分もまた涙を流すだけだった。



***



干菓子の入った袋を携えたウテナは、音のよく響く森の中を歩き、ある広場へ出た。大きな木の根元に座った黒い服の垂れ耳兎と金髪の猫がウテナに気が付くと、飼われて訓練を受けた獣のようにヒョコヒョコと揃って近づいてくる。
口に出しては言えないが、図体によらず可愛いものだ。

「いい匂い。それアンブルに?」

猫が首を傾げ、鼻をくんくんとさせる。兎はニヤリと笑うが何も言わない。

「まあね」

あの後夫人には、どうして動物が人の姿をしていることを伝えなかったのか問いただした。

『襲われたら合言葉を言えって伝えたでしょう? 言葉が通じるという時点で人の姿をしてるかもしれないってことは、想像できたはずよ』

……そう言われればそうかもしれないが、どうもうまく言いくるめられた気がしてならない。

蜜色の花畑の中でその話を聞いたアンブルは、干菓子を啄みながらくすくすと笑う。

「イバラちゃんたら、昔から変わらないわ、本当に」

「よく友達やってるよね。嫌にならない?」

「あら、“友達”を“小間使い”に変えてお返しするわ」

しばらくとりとめのない会話で笑っていたアンブルは、ウテナが何かを言い出す機会を伺っている雰囲気を察して「どうしたの?」と目配せで問う。

「ああ、その、実は、渡したいものがあるんだ。庭にあって、えっと、こっちにもあるかもしれないけど……綺麗だったから」

ウテナの背から取り出されたものに、アンブルの指が触れる。

「コハクに」

ベッドに横たわったウテナの腕に抱えられた小さな花束が、コハクと同じ瞳の色でキラキラと輝いて、消えた。







★「雨降りウテナと不思議な森/おわり」

あとがき https://1301x.amebaownd.com/posts/4517121?categoryIds=1210314


14/14ページ