雨降りウテナ
雨降りウテナと不思議な森(2/6)
睡眠には浅い眠りと深い眠りの二種類があり、浅い眠りの時に記憶の整理などを行うのだという。
特に赤ん坊が睡眠時に激しく動くのは浅い眠りの時間が多いからだと言われ、著しい成長のあかしでもある。
では眠っている間に魂がどこかに出掛けている者はその時、浅い睡眠なのだろうか深い睡眠なのだろうか。
魂が体に無いのだから、浅い眠りは有り得ないと思う。もっと言えば、眠っているという表現さえ的確ではないだろう。仮死状態とでもいうべきか。
そうでなければ困る。
もしも眠りが浅かったら、自分は今頃、記憶の整理とはまた別の意味でベッドの上で暴れているだろうから――。
数十分前、ウテナが目覚めたのは見知らぬ森の中だった。
まさか一発で来られるとは思ってもいなかったためここが「アンブルの森」であることに気が付くまで時間がかかったが、そうであると分かると途端に不安に駆られた。
ひとり。ひとりきりだ。圧倒的にひとり。
何だこの異常な静寂は。
鳥の声も葉擦れも聞こえるのに、全てがぼんやりとした遠い世界のことのように覚え、涙に滲んだような輪郭の曖昧な景色が現実味を消し去っている。太陽は照っているのに、薄暗い。
「ああ、いや、ここは現実じゃないんだった……」
つい独り言が漏れると、自分の声がやたらと大きく聞こえた。そのくせ、吸音されたようにすぐに消え失せてしまう。
草木と土の独特の匂いが混じる重い湿気を掻くように、ウテナは歩き始めた。
とにかく、アンブルという魔女を探さねばならない。
「そういえば、アンブルさんの居場所聞いてない…しまった…」
無響の森に自分の声が喰われるのが気味悪く、ウテナはそれ以上の独り言を自制した。
歩きにくい靴は履いていないし足腰には自信があるウテナにも、森の地面は歩き慣れていない。
そこには土の地面だけではなく、落ち葉が重なったクッションのような場所があり、時にはその落ち葉の下に、盛り上がった木の根があって引っかかりそうになるのだ。
恐々と摺り足で進んでいては日が暮れてしまいそうだった。
ただ、歩くうちに森の景色に慣れると、あちこちに獣道のような物も確認することができた。
ある程度踏み慣らされていて歩きやすいし、何より自分以外の生き物の痕跡が孤独感を打ち消してくれた。
(あれ……?)
だいぶ歩いたなと思い、ふと振り返った時だった。
(道がない……)
歩いてきたはずの道が無い。聳える木々の形も、さっき通り過ぎた時とは違うように見えた。
まじまじと見ながら歩いていたわけではないから思い違いかもしれないが、嫌な予感が頭をよぎる。
(アンブルの森は空間が歪んでる……トワイライト夫人が言ってたんだった)
同じ場所を何度も通ってしまうようなことが無いのでまさか迷っているとは思わなかった。
二度と同じ場所を通れないタイプの迷宮。つまりそういうことだろう。
「まずいぞ……」
零れた不安を、森が吸い上げる。
ユラユラとした木漏れ日に眩暈がしそうだった。
逃げ場のないことをわかっていて、脚が駆ける。
もがかなければ、震えを誤魔化せないからだ。
止まったら、倒れてしまう。
この森を見くびっていた。
孤独を忘れていた。
恐怖を包む幸福の膜はとても薄い。
母を亡くした、ひとりきりだった、誰にも声が届かなかったあの時に、心が戻ってしまう。
見ている景色までもが、もはや森ではなくなっていた。
(帰りたい、夫人の所に、僕の、家に……おかあさ……)
『――たばこの匂いしないか?』
どこかで声がした。
(そう。僕は時々たばこの匂いがする。トワイライト夫人は葉巻などやらないが、トワイライト夫人が出かけるパーティーには煙を吐く殿方が沢山いて、トワイライト夫人を経由して匂いが僕に移るのだ。僕は最初の少しの期間だけ、それを迷惑だと思っていた……)
茂みに全身が突っ込む感覚の後に白い光が視界を覆った。
「人間……」
たばこの匂いを指摘したのと同じ声に続いて、
「人間……!?」
ウテナの声が“響く”。
しかし音響の変化にウテナは気が付かず、目の前の光景にただ驚くばかりであった。
日当たりのよい空き地に大きな木が一本立ち、その根元に人間が二人座っていた。
一人は肌着のような質素な服に鮮やかな青色のスヌードを首にひっかけた金髪の青年で、もう一人は布量の多い複雑な造りの――たぶんウテナにとって馴染みのあるジャンルの――黒い服を纏った、黒髪の青年だ。
「人間……人間がいる! なんだ、動物ばっかりって聞いてたのに!」
「そりゃこっちの台詞だ。何で人間がここにいる。どうやってここに来た?」
言いながら黒髪の青年がユラリと立ち上がると、華美な服の裾と髪の先が閃く。よく見ると黒髪の中から何か白いものが垂れているようだったが、ウテナは今それどころではなかった。
「トワイライト夫人のつかいで来たんです!」
「方法を聞いてんだよ」
今度は金髪の青年が立ち上がる。
髪だけでなく瞳も金色に輝いており、凄まじい程に整った顔立ちは、ある種の崇高さを感じさせた。
ウテナ自身もたいがい美形だと言われるが、おそらく自分の比ではないと思う。
おまけに彼の体躯は長身で厚みもあり、睨まれているにもかかわらず同性のウテナをも感心でうならせた。
「おい!」
黒髪の青年の前に出た金髪の彼の頭で、何かがピクピクと動く。
ワイルドというかラフというか、包み隠さずに言ってしまえば寝ぐせのままのような硬い感じのする金髪の中にあってそれは目立たないが、明らかに風のせいではない動きに、些かの冷静さを取り戻したウテナの意識は奪われた。
ある程度の距離があるのでよく見えずに目を細めると、それを何と思ったのか二人は一度目を見合わせる。
「もしかしてその垂れてるのと尖ったのって……みみ」
「捕まえろ!!」
(動物が人の形をしてるなんて聞いてない!)
状況を理解した時には、ウテナはふたり――二匹に、しっかり拘束されていた。
★雨降りウテナと不思議な森(3/6) [2276] へ続く