第16話:記憶の際限

 数日の時というのは特に何事もなければ静かに流れていくが、この時ばかりはそうではなかった。どこかの誰かに会って以来、それはよく訪れるようにも感じていた。

「あ、いたいた」

 その要因のひとつは、おおかたこんな道のど真ん中で猫に襲われている貴族に話しかけてくるひとりの男のせいだろう。

「こんにちは。久しぶり、でいいのかな」

 つい六十時間ほど前に聞いたような声が、突然後ろから聞こえてきた。振り向くべきか僅かに迷ったものの、そこまで薄情なわけでもないお陰で嫌々ながら顔をあげた。

「そ、そんなに嫌な顔されるとは思わなかったよ……」

 どうやら自分が思っていたよりも嫌な顔をしていたらしく、それが分かっていたのなら振り向かない方がマシだったんじゃないかとも思ってしまう。しかしオレが貴族であるが故に、そうもいかない状況であることには変わりない。

「……なんか用かよ?」
「いや、用は特にないんだけど」

 だが、やっぱり男のほうを向いて後悔したという思いはどうにも拭うことは出来なかった。男の言葉でそれを確信したのもつかの間、男がオレの視線にまで屈んできた。あの時は暗くてよく見えなかった顔が、今日はそれなりによく見える。オレよりも僅かに年上に見えたが、だからといって態度を改めるわけでもなかった。

「名前、まだ聞いてないなって思って」
「……オマエに教える理由ねーし」
「そんなことないよ。何かの縁っていうか」

 この前も思ったが、本当に知らないのだろうかというのが頭に過るせいで、馬鹿正直に名前を言う気にはならなかった。貴族が多くない街の中、オレのことを知らないということがあるのだろうか? 一度もあったことない、そもそも街に顔を出すことが少ない、といった特徴があるのならともかく、生憎そこまで引きこもりではない。今の状況がその証拠だ。

「……っていうのは半分嘘。お礼したくて探してたんだよ」

 その言葉は、オレからすると少し意外なモノだった。

「礼言われるようなことしてねぇけど」
「そんなことないでしょ。助けてもらったんだし。ああ、大したことは出来ないけど」

 男はそう言うと、着ている上着のポケットを音を立てて漁り始めた。衣擦れの音とは少し違う別のモノが混じっているようなそんな耳障りに感じたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。

「丁度妹が作ってたから、ちょっと貰ってきちゃったんだよね」

 左のそれから出てきたのは、簡素なリボンで縛られている小袋だ。中身には、その袋のサイズに見合った濃い茶色をしたクッキーが数枚入っている。

「……それだけの為に探すとか、オマエ暇だな」
「いや、探すというか……」

 言葉を探すような仕草で、男は空いている左手で自身の頭に触れた。

「だって君、あっちこっちでよく猫と遊んでるでしょ? 人に聞いてみたら結構すぐに見つかったよ」

 男が見せる笑みに僅かにペースを乱されるこの感じ。どことなくあの夜と似ているようだ。

「で、名前だよ名前。俺まだ聞いてないんだけど」

 そう言うと、男はすぐに笑顔を繕った。あの時と状況が似ているような気もしたが、未だに手に纏わりついている僅かに触れる猫の毛並みだけが、少なからずあの時とは状況が全く違うということの表れのようなそんな気がした。
 今のこの瞬間にこの男から逃げることは容易だが、同じ街に住んでいる以上隠していたところでいいことは余りない。それこそ、なにか如何わしいことをしているのであれば偽名でも口にしていたかも知れないが、それをしたところでメリットは無いに等しいだろう。

「……ネイケルだよ。ネイケル・ヴォルタ」

 それに、生憎オレは不真面目な貴族というほど振り切れる行動を取れる性格ではなかった。オレの名前を聞いて男は一瞬驚いたような視線をオレに向けたが、すぐに笑みを見せた。

「やっぱりあそこの貴族の人かぁ! そうだろうなとは思ってたけど、どうせなら名前ちゃんと聞こうと思ってたんだ」
「んだよ、知ってんじゃん……」

 なんだ、やっぱりこの男は知っていたんじゃないか。そんな思いが、ため息に混じって落ちる。よく考えてみれば、猫と遊び歩いているという特徴だけでオレのことを簡単に探せるわけがなかったのだ。既に名前を知っていて人に尋ねたか、その訪ねた人物がオレの名前を口にしたのかどちらかだろう。
 この類いの、ズカズカとテリトリーに入ってくるようなタイプはどうにも苦手で煩わしい。何でもいいから早く話が終わって欲しかったのだけれど、どうもそうはいかないらしかった。

「よろしくね、ネイケル」

 一体何を宜しくされるのか、理由もよく分からないまま、気付けば手のひらには小袋に入ったクッキーが乗せられていた。どういう訳か、小袋の置かれた右手が酷く重くなったような、そんな気がした。
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