第18話:孤独に別れを告げられない

 それは必ずしも純粋な黒ではなく、どこか紫色が含んでいるように見えた。足下でおぼつくそれらは、地面の色が見えないくらいよ層を形成させていた。ただ単に波打っているだけと言えば害こそはないように聞こえるが、どういうわけかオレの方が異端であるような気持ちにしてくるのだから、それだけ居心地を悪くさせてくるものだったのだろう。その証拠というわけではないが、思わず右手で触れたブレスレットからは、依然として光の粒を落とし続けているのが見て取れた。
 レズリーの周りには、黒く淀んだ沢山の粒子が足元だけではなく纏わりついている。渦中にいるレズリーは、すぐ側にあるテーブルに右手をつきその身体を預けている。眉を歪め、余った手で頭を抱えるようにしているその様を、オレはただただ視界に入れているだけで精一杯だった。
 徐々に色濃くなっていく黒い靄の中、苦しそうに息を吐いたレズリーが腕をひとつ振りかざした。たったそれだけの仕草だったはずなのに、どういうわけか取り巻いていた靄が綺麗に上下に切れた。それはレズリーの顔がはっきりと見えるほどだった。

「頼むよカルト……」

 まるでこの場に居ない人物へと懇願するかのように、どういうわけか父さんの名前を口にする。

「わ……え、ちょっ……!」

 すると、左腕に巻き付いて離れないブレスレットが一瞬で光りに満ちあふれていった。目が開けられないほどの光に呑まれたのはほんの数秒のことで、気づけば光は落ち着きながらも僅かに光の粒を落とし続けており、オレの周りにあった黒い粒の数々は既にどこかへと消えて無くなっていた。
 ……この感覚は、既に経験をしたことがあるものに近かった。驚きはしたが、動揺とまではいかなかったのがまだ救いだったかもしれない。
 しかし、そうはいってもレズリーの周りには依然としてそれらは漂っていた。幾分かはマシになったようにも感じるが、それも微々たる差でしかないだろう。

(ど、どうしたらいいんだろう……)

 次第に、何かしなければならないと焦りが募り始めていく。
 どうしたら、レズリーの周りからあれを無くすことが出来るのだろう?
 どうしたら、レズリーがあんな顔をせずに済むのだろう?
 どうしたら、レズリーの役に立てるだろう?
 ……もしオレが貴族だったら、この状況をなんとかすることが出来たのだろうか? そのイフの思考は、この状況ではなんの役にも立ちやしない。それを証明するかのように、後ろから草を踏みしめる音が聞こえてきた。一体いつからそこに居たのか、気付けば家の影を越えてこちらへと向かってくる足音がする。オレはすぐさま後ろを振り向いた。

「君、ひとりでここに来るなとアルセーヌから言われなかったのかな? まあ、この際それはどうでもいいんだけれど……」

 聞き馴染みのない声と、身に覚えのない容姿。淡々と言葉を投げながら近づいてくる男は、オレが今日初めて出会った人物だ。

「ああそうか。一応、こうして会うのは始めてということになっているね」

 否、本当のところはそうではないらしいということは、この男の口ぶりで比較的早く理解が出来た。

「図書館館長のクレイヴだ。名前くらいは覚えておいてくれ」

 それだけを口にすると、自身をクレイヴと名乗った人物は光を右手に集約させ、それを元に何かを形成しはじめる。図書館館長といえば、街一番の権力を持つと言われている貴族であるとされている人物で、オレでも知っている常識のうちのひとつだ。
 思い描いてみれば、今まで貴族の力……もとい魔法というのをちゃんと目にしたことがなかったオレにとって、その光景は目を見張るものでしかなかった。形を取り繕い始めているそれは、男の手に馴染むように空の上で徐々に現実へと写し出されていく。
 思わず目を見張ってしまったのは、その光景が到底現実では見ることの出来ない形象であるというのは勿論なのだが、市民ではまず見ることの出来ないはじめて目にするとある武器が目に飛び込んできたのだ。グリップを掌でしっかりと持ち、貴族のレズリーへと向けたそれは拳銃だった。

「な、何するの……?」

 今にも撃ち放たれそうなそれに居たたまれなくなったオレが思わずそう口にすると、男は視線だけをオレに向けた。

「彼が心配?」

 男はオレの問いに答えることをせずに、更に疑問を上乗せしてくる。本当はその答えなんてすんなりと言えるはずなのに思わず言葉に詰まっていると、男は僅かな笑みを乗せはじめた。

「それなら、少しやり方を考えないといけないな」

 一体何に向けての言葉なのか、それだけ口にすると銃口を地面に向けて数発何かを撃ち放していく。しかしそれは、オレの想像するいわゆる銃弾が放たれたわけではなかった。

「今から起こることを、ちゃんと見ておきなさい」

 庭に蔓延している黒い靄の上に落ちたのは、銃弾ではなく光の粒だ。その光は地面に落ちたと同時にはじけ飛び、靄を上書きしはじめていく。しかしそれは、靄が光によって蒸発したとかはじけ飛んだと言うよりかは、融合したという方がしっくりとくる程に森閑と行われた。

「今後、何かの役に立つときが来るかも知れないからね」

 男がその一言添えた、すぐのことだ。腕と共に銃口を空に掲げ、またしても数発天に光を放っていく。先ほどよりも幾分か大きく見える光は、どこかの段階で弾け粒子となり、まるで最初からそこに存在していたかのように降り始めていく。その様子は、季節外れの雪を思わせるくらいにしんしんと、そして確実に地面へと降り注いでいった。
 その形象に、オレは思わず手のひらの上に光が降ってくるのを待った。恐らくは手に触れたのだろう数粒は、更に無数の粒子となり指の間をすり抜けていく。はらはらと落ちていくたびに黒く淀んでいた庭が、オレの知っている景観へと徐々に変化していく。レズリーの周りを執拗になめ回していた黒い靄も、その限りでへはなかった。
 靄が少しずつ消滅していくのが分かったのか、レズリーは鉛でも入っているようにそのまま椅子にへたり込んだ。その様子を見て思わず近づこうとしたのだが、それは叶わない。側に居る男に腕を掴まれたのだ。それが行ってはいけないという意思表示であるということをすぐに理解したオレは、それ以上足を動かすことをしなかった。

「……クレイヴに助けられるなんて、思っていなかったな」
「貴方には正気でいてもらわなければ困りますからね。それ以外の理由はありません」

 まるで台本でもあるのではないかと思ってしまうくらいに淡々と、そして静かにクレイヴという人物は言葉を落としていく。その先には、もう深淵と呼ばれるものは存在しない。

「すっかりと大人になったね」
「十年も経てば、ですよ」
「……なんの用かな? まさか遊びに来たわけでもないだろうに」
「今のこの状況下の中、一度くらいは会っておかないとと思いまして」

 そう口にしたクレイヴは一瞬だけオレを視界の隅に置いたかと思うと、すぐにレズリーの元に戻された。その表情からは、一体何を考えているのかを汲み取るのはオレには難しい。ゆっくりと、右腕にかかっていた圧力が解けていった。

「レズリー・スヴァン殿。貴方に幾つかお聞ききしたいことがある」

 クレイヴのピシャリとした口調によって、今までのどこか夢見心地であった心持ちがより一層現実に引き戻されていくような感覚が走った。

「貴方、どうして今になって現れたんですか?」
「……私は知らないよ。気づいたらここにいたんだ」
「それは信じていいんですか?」
「君に任せようかな」

 果たしてどこにレズリーの真意があるのか、到底まともな答えとは言いがたい返事しか返ってくる気配がない。オレと話している時よりもどこか投げやりのような気がした。取り合う気はないということなのだろうか?

「……それならもう一つ。この空間が今も保たれているのは何故ですか?」
「私が居るから。ということ以上に答えられる術が今のところないね」
「そうですか。ならこの話は辞めることにします」

 レズリーのその姿勢を見てなのか、それとも考えが一致しているのか、クレイヴは全ての質問において深く掘り下げるようなことはしない。

「……本当に聞きたいこと、それじゃないんだろう? 遠慮しないで言ってごらんよ」

 そして更に、核心を突いてこないクレイヴをたき付けるようにレズリーはわざと言葉を選んでいく。クレイヴの小さなため息が、果たしてレズリーの元に届いたのかは分からない。

「ここで起きた事件の犯人を、ご存じなんですよね?」

 今までの質問なんてただの茶番であるかのように、ここに来る貴族の誰もが知りたがっているであろう疑問を、クレイヴはすぐさま口にした。

「……その根拠は?」
「無いに等しいですが、それだと貴方がここにいる理由が付きません」

 レズリーは、その根拠のない証拠と理由に肯定も否定もしなかった。

「出来れば私は、その答えを貴方の口から聞きたいんですけどね?」
「それは出来ないな」
「……どうしてですか?」
「内緒」

 何も言いたがらないレズリーに呆れることもせず、クレイヴはじっとレズリーのことを視界に入れて離さない。何かを聞き出しているというよりは、レズリーの仕草や様子、口調から何かを視ているような、そんな感じに近かったのかも知れない。

「それなら、最後に一つだけ」

 そうじゃなければ、ここまでクレイヴが引き下がることもないだろう。

「これまでの発言、全て信じて問題ないですか?」
「……それはどういう意味かな?」
「言葉の通りですよ。むやみやたらに人を疑いたくはないのでね」

 レズリーがクレイヴの言葉に疑問を提示したのはこれがはじめてではないが、その中でも特に、クレイヴの言葉に引っ掛かりがあったらしかった。

「貴方が私の思うレズリーという人物であるのなら、これまでの言葉は信用します。ただ、そうもいかない状況にある」

 今まではただ単にレズリーに質問を投げ、その際の動向を伺っているだけのようだったのに、どうやらそれがようやく収束したらしい。

「最近になって、どうもこの街をうろつく煩わしい存在が活発化しているようでね。恐らくは、貴方が丁度ここに存在し始めた頃のことでしょうか。ああそう言えば、路地裏で通り魔事件が起き始めたのも、確かそのくらいの時期でしたね」
「通り魔……?」

 この口ぶりからするに、レズリーは今の街の状況をそこまで知らないのだろう。

「通り魔事件が起き始めたのは、貴方がここに現れたであろう数週間前。我々が懸念しているそれが本格的に力をつけ始めたのは、恐らく――」

 まるで考えているフリのように、一呼吸置く。

「貴方が、彼にブレスレットを渡した直後ですね」

 クレイヴがそう口にした時、一瞬にして自分の血の気が引いていくのがよく分かった。
 オレは思わず、左手首に巻き付いているブレスレットを目だけ動かして視界に入れる。この人物が言う時系列が正しいとするなら、少なからず原因のひとつとしてこのブレスレットが関わっているということなのだろうか?
 だとしたら、原因はオレにもあるのではないか? そんな疑念が頭にこびりついて離れそうになる。そうじゃない可能性だって確かにあるが、心臓をそのまま掴まれているような気分だった。

「……気づいたらここにいた。というのは、少し語弊があった」

 まるで独り言であるかのように、誰にいうでもなくレズリーは口を開き始めた。

「恐らくは、私は最初からここにはいたよ。でも、気づけなかった」

 その間、レズリーの視線はずっと下を向いたまま、地面に向けて言葉を落としはじめていく。

「誰も来ないという夢を見ていたんだと、私は思っていたんだ」

 髪の毛の隙間から見える非力な笑みが、どういうわけかオレの心を絞めた。出来ればそんな顔は見たくないのに、今のオレにはそれをどうにかする術を持ち合わせていない。
 これから先、レズリーがそうなる理由を知ることが出来るのだろうか? ……否、恐らくは知らないといけないはずだ。

「シント君」

 オレを呼ぶ声は、いつものそれと全く同じモノで思わずはっとした。
 そう思うくらいには、レズリーはオレの見えない記憶の中でオレの名前を呼んでいたのだろう。しかしその明確な状況をまだそんなに思い描くことが出来ないというのが、なんとも矛盾していて心地が悪い。

「帰ったら、ちゃんとアルセーヌに言うんだよ? それ以外のことは、この人が懇切丁寧に教えてくれるはずだから」
「……まあ、一応そのつもりではいますけど」

 釘を刺されたクレイヴは、まるでやるつもりだったことを第三者に指摘された時のそれのように嫌々答えを示した。
 レズリーがふといつもの笑みを零したかと思うと、途端に風が吹き荒れる。それに合わせるように、レズリーの身体が光の粒へと変化し、あっという間に姿を消していった。
 ゆっくりと靡く髪の毛が、目の前を泳ぐ。それが、どういうわけかいつにも増して酷く邪魔に感じた。
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