第18話:孤独に別れを告げられない

 静かに落ちてくる光に包まれた、ある晴れた日のこと。

「……なにか、気になることはあったかい?」

 オレの目に映っていた景観が途端に現実に引き戻されるのに、そう時間はかからなかった。
 頭の上から降りかかるレズリーの声は、紛れもなくオレ自身に向けてのものだった。オレは僅かに下をむき、考えるふりをする。

「アルセーヌとオレ、ずっと前に会ってたんだね」

 こんな話、一体誰に向けて言っているのかよく分からなかった。

「アルセーヌと会ったの、この前が初めてだと思ってたのに……そうじゃなかった」

 誰も居ない虚空に落ちた言葉は、誰も拾ってはくれない。

「言うタイミングなんていくらでも――」

 あった。そう口にしようと思ったのに、言葉が出てくることはなかった。確かにタイミングと忖度さえ計らなければ、言うこと自体は簡単だろう。
 しかし、オレとアルセーヌが裏路地で会った時から遡れば、そう簡単なことではなかったことかも知れないというのはある程度想像ができた。あの時点でオレが昔のことをろくに覚えていなかったのだから、タイミングもなにも存在しないも同義だろう。その後図書館で会ったときだって、オレに名前を聞いてきたくらいに初対面を徹底していた。あの口ぶりからするに、オレが思い出さない限りはずっと黙っているつもりだったんじゃないだろうか。
 アルセーヌもオレのことを忘れていたというのは、どちらかと言えば考えにくい。

『私はね、シント君。キミが知りたくないと思うのであれば、それはそれで構わないと思っているんだ』

 何故ならアルセーヌは、可能な限りのヒントをオレに提示していたはずなのだ。

「……俺が忘れてたのがいけなかったのかな」

 もはやこうなてしまっては、自分を責め立てる言葉しか出てこない。

「父さんと母さんのことだけじゃなくて、自分が思ってるよりも沢山のこと忘れてる」

 それは決して父さんと母さんのことと、アルセーヌのことだけというわけでは毛頭ない。
 レズリーの腕をほどき、何をするでもなく後ろを向く。間に流れた風は、オレとレズリーの間に存在する超えることの出来ない生と死の狭間を意味しているようで少し居心地が悪くなった。
 目が合ったのはこれがはじめてではないはずなのに、どういうわけか少し新鮮に感じてしまう。

「レズリーのことも、きっと沢山忘れてるよね?」

 それくらいの罪悪感が、オレのまわりを纏わっていた。

「……シントくんは、どうして過去の記憶が曖昧なのか考えたことはあるかな?」

 その言葉に、オレは僅かに首を傾げてしまう。確かにそう言われると、レズリーのいう部分をちゃんと考えたことはなかったかも知れない。
 幼い頃の記憶は余り覚えていない、あるいは朧気で明確には覚えていないというところまでは誰もが当てはまるだろう。アルセーヌのそれも、無理矢理結論づけるのならそれに当てはまるのかも知れないし、目の前に居るレズリーだってそうかもしれない。だが、そうではなく両親とどうやって時を過ごしたのかすら全く覚えていないとなると、話は大分違ってくるだろう。
 可能性のひとつとして、オレと両親の仲がかなり悪く思い出というほどのことを蓄積していなかったというのもあるにはあるが、流石にそれは疑いたくない。あんなものを見せられれば、それは余計だった。

『十二年前、彼……レズリーが行方不明とされた日。あの日、彼の家で、従者二人とたまたま訪れていた客人二人が殺害されるという事件が起きた』

 ――この事件があったとされた時、オレは一体どこに居たのだろうか?
 アルセーヌは、それを教えてくれたことはあっただろうか?
 ……これはあくまでも、もし過去の記憶がないということに何か大きな理由があるとするならばの話だ。

「オレ、父さんと母さんが死んだ時……もしかしてここに居た?」

 そんなことがあったとするならば、一体オレはその瞬間に何を感じ何を見たのだろうか?
 思わず、自然と疑問が口から零れてしまう。すると、レズリーの顔が途端に今までより一層真剣な面持ちに変化していく。そして僅かに視線をずらし、オレを視界から消した。

「私の口からは、言えないな」
「……どうして?」
「どうしてと言われると困ってしまうね」

 苦笑いを浮かべ肩をすくめるレズリーのすぐ側を、小さな光の粒が通っていく。それに目もくれることなく、レズリーはそのまま話を続けていった。

「今考えたことと、これまでに思ったこと。今からでもちゃんとアルセーヌに言ってみてごらん? 私なんかよりもずっと、彼はきみのことを考えて行動してくれるよ。私とじゃ駄目だ」

 そう言って見せたレズリーを、オレは視界から外すことはしなかった。

「なんで、そんなこと分かるの……?」
「そうだな……ただの勘かな」

 まともな返事を期待していたのに、レズリーはそれを切って落としていく。そこに何か、レズリーの口からは言い難い何かがあるのかも知れない。アルセーヌと話をしないといけないというのは、確かにその通りかもしれない。その道理は一応理解はできる。でもだからといって、レズリーの口からは何も聞けないというのはおかしな話ではないだろうか? そんなことをされてしまったら、一体何を隠しているのかと勘繰りたくて仕方がなくなってしまう。

 今までとは少し毛色が違う生ぬるい風が、髪の毛と一緒に頬に当たる。その時だった。
 オレの知らない何かの変化に気づいたかのように、レズリーが急にそっぽを向いた。レズリーが視界に入れているであろう方を見ても、既に見慣れてしまったやけに光の落ちる庭に隠れたように存在する、壊れた噴水以外には特に変わったところはない。

「……深淵が呼んでいる」

 風に負けそうなほどの、気を抜けば聞き逃してしまいそうな声量で、レズリーはそう口にした。

「深淵……?」

 レズリーから出てきた聞き馴染みのない言葉に疑問を提示するものの、レズリーは初めてオレを認識したかのようにオレを視界に入れ、その瞳をゆらつかせている。居たたまれなくなったオレは一歩足を踏み出そうとした。

「来ないでくれ……!」

 思わず踏みとどまった時の、草と砂利が鈍く擦れたような音が酷く耳についた。

「これ以上の慈悲を、私に向けないでくれ」

 木の葉を揺らめかせる程度の風にすらかき消されそうな声は、辛うじてだがオレの耳に届いていた。来るなと言われ止まっていた身体は動きたくて仕方がなくなっているようだが、それでもオレはあと数歩歩けば届くはずのレズリーのもとに行くことが出来なかった。
 僅かに、先ほどと似た生温い風のようなモノが足に触れた感覚が走った。もっと正確に言うのなら、それは風というよりも得体の知れない何かがすぐそこにいるような感覚だった。
 段々と、徐々にレズリーの周りに何かが集まっていくように、地面の草が何かに感化され靡いていく。気を抜くと何かに身体が持っていかれそうな、そんな空気が辺りに纏っているようだった。自然と地面を強く踏みしめその何かへ抵抗を加えていると、どこからか違和感のない身に覚えのある感覚に襲われた。それはやはり、足共から伝ってくるモノだった。
 恐る恐る、その原因であろうモノを視界に入れようとして、オレは思わず目を丸くした。

「な、なんで……?」

 左手首に巻かれているブレスレットから、黄みがかった白い光が零れていく。一粒のそれが地面に落ちた時、今までとは比べものにならない程の風が辺りを覆った。
 一体何が起こっているのか、両目を開いていることもままならずオレは思わず自身の腕で風を防いだ。この光が何かの引き金になったのか、それとも別の要因だったのかはよく分からないがこのブレスレットから漏れた光によって起きたと言われてしまえば、否定なんて出来ないだろう。

「……え?」

 ゆっくりと、少しずつ姿を現してく、何かの正体。レズリーの周りを卑しく包む、黒い何か。そしてそれは、僅かではあるものの確かにオレの足下にも存在していた。
 それは光の粒なんていうモノとはほど遠く、かなり小さな粒子と言った方が分かりやすいくらいに細かく、今のオレが持っている記憶だけで言うのなら見たことがない事象だった。恐らくはそれが、さっきオレが感じた得体の知れない何かなのだろう。そしてこれもあくまで憶測に過ぎないのだが、レズリーが口にしたとある単語が自然とオレの脳裏に過っていく。

『――深淵が呼んでいる』

 黒と紫で形成された靄のようなモノが、この庭に蔓延していたのだ。
5/6ページ
スキ!