18話:教えたくないこと

 ……はじめてだった。既にこの世のモノではない異端的な存在の為に、ではなく、今を生きている誰かの為にと少なからず行動を起こしたということを。こんなこと、今まで生きてきた中でおれはどれ程発生しただろう? 片手で数えたって、きっと指が余るはずだ。
 それでも足を運んでしまったのは、少なからず何かしらの異変がおれを引き寄せたからだというのと、一応もうひとつの理由が存在する。……到底口には出したくないものだ。
 おれがそこに辿り着いたとき、どうやら目の前にいる何かは既に原型を留めていなかったらしい。辺りに蔓延する黒い靄と、付随する黒い本体らしきモノがそれを物語っていた。集まった粒子によって出来たヒトガタの黒い物体。今のところこれといって目立った動きはないものの、見慣れない存在を見る羽目になるというのは、余り気持ちのいいものではない。

「せ、先輩どうしましょう……」

 そう口にした中条さんの声は今にも泣きそうで、どうしてかおれが申し訳なくなってしまった。彼女の鞄は、相変わらず何かに反応して光を紡ぎ続けているらしいが、そこには敢えて言及はしない。
 さて、来たはいいもののここからどうしたものか。恐らくこの状況は大事なのだろうが、そう理解は出来てもおれ自身そこまでの緊張感を持ち合わせていない。ひとりだったら、それもまた違ったのだろうか?

「……栞、持ってるよね? 見せてくれると嬉しいんだけど」
「え、あ……は、はい!」

 元気な返事のすぐ後、中条さんは慌てて鞄のファスナーを開けた。そこまで急必要があるかは置いておくとして、昔のことを少しだけ思い返した。生真面目な人間がもうひとりここにいたら、そんなことをしている状況ではないと怒られそうなものだが、おれにとっては重要極まりない。昔というほどのものではないが、脳裏に過ったのは拓真を前に似たようなことがあったということは、恐らく一番重要な出来事だろう。

「ど、どうぞっ!」

 中条さんによって行儀よく両手で持たれた一枚の栞。おれが片手で触れても尚、光が途切れることはなかった。そればかりか、おれが触れた途端、瞬く間に光が強くなっていった。おれの手から堕ちていく光の粒は、消えることなく地面を徘徊した。
 するとどうだろう。僅か、ほんの少しばかり黒い粒子が主張し始めたのを肌で感じ、それに該当する存在を視界に入れた。さっき、ここに来た時よりも形が崩れ歪んでいるようにも見える。少し悠長にし過ぎてしまったか、ここでようやく真剣に対応出来る心持ちに晒される。おれが一歩黒いそれに近づくと、傍にいる彼女が慌てた様子で声を発した。

「あ、危ないですよ……?」
「大丈夫だよ、多分。うん、多分大丈夫」

 どちらかと言うとこれは、自身に言い聞かせていた節の方が多かっただろう。大丈夫かどうかは、これが初めてだから分からない。不安を仰ぐような状況にはしたくないし、これは彼女には黙っておこうと思う。

「心配しないで」

 考える時間は、有限ではない。
 今までは一応話の通じる相手だったから何とかなっていたのだろうが、今回はそうもいかないだろう。明らかに話なんて聞いてくれる感じでもないし、何より既にヒトのかたちとは言い難いせいで、相手と会話をすることによって比較的穏便に済ませるという思考にまで到達しない。
 この時のおれは一体何を思ったのか、無意識にとある衣類のポケットに触れた。その瞬間だった。
 おれが目を瞑るのが早いか否か、今まで見たことのない程の光に晒される。側にいるであろう彼女の驚いた声が聞こえてくるということは、余程のものなのだろう。
 これはあくまでも感覚的なものかもしれないし、もしかしたら勘違いかも知れない。それくらい微々たるものだといって差し支えはない。
 ……その光に、僅かながらも温度があったのだ。
 徐々に、少しずつ光が収まっていくのを瞼越しに感じ、おれはゆっくりと目の前の情景を目に写しはじめる。半分くらい開いた頃だっただろうか? 突然の出来事に、おれの目はすぐさましっかりと開かれた。

「……いない?」

 目を瞑るその瞬間までは居たはずの黒いヒトガタの何かは、忽然と姿を消していた。微かに残る地面すぐ側で浮遊している粒子だけが、先ほどまではそこに何かが居たということを表していた。だが、それも徐々に空気にまみれて消えていくのがよく分かる。

「ど、どこに行っちゃったんでしょう……? それとも消えた、とか……」
「……どうかな」

 少し、素っ気ない言葉が出てきてしまった。出来れば余り考えたくないことが頭を過ってしまったせいだと、思っておくことにしよう。
 力がどうとかいつだったかに誰かが言っていたのは、恐らくはこういうことなのだろう。心当たりが無かったというわけでは当然ない。数年前に起きたことはちゃんと覚えているし、忘れ難いことだったというのも分かる。ここに来れたのだって、その力とやらのお陰だと言ってもいいのだろう。
 それをとうとう認めざるを得ない日が来たという、ただそれだけの話だ。というより、わざわざ走ってまでここに向かってしまったのだから、少なからず心のどこかで自覚はしていたのだろう。

「……今日は、逃げなくてよかったの?」

 誤魔化す行為に、いい加減変化を与えないといけない。

「ここに来る頃には、もういないと思ってたんだけど」

 落ち着きを取り戻そうと、深く息を吐く。君に向けて出したかった言葉は、本当はこれとはまた少し、違うもののはずだった。

「だ、だってあの時は……!」
「あの時は?」
「だってぇ……」

 情けなく、何かに縋るような声に少しだけ後悔したのもつかの間。悪戯な笑みが、自然と零れていく。

「いいよ、真面目に答えなくて」

 中条さんの頬が、朱く染まっている。それが夕空から落ちるもののせいなのか、それとも彼女自身のものなのか。考えるのは野暮なのだろう。

「何があったの?」

 一応聞いてはみたものの、果たして彼女は答えてくれるだろうか? その自信は正直ない。視線をおれに向けたり外したりと忙しい瞳を、取りあえず待ってみることにした。

「何があったんでしょう……?」
「……ちょっと整頓しようか。歩きながら」

 そう言って、オレは彼女との距離を詰めた。「家この辺り?」「あ、はいっ」「じゃあ、結構近いかもね」間にそんな会話を挟んで、足を動かした。女子と並んで帰路につくというのを想像したことは無かったのだが、世の中何があるかわからない。……本当に、わからないものだ。
 彼女の言葉を聞く限り、どうやら出会ったのはこの前の不審な男らしい。しかも、この辺りで起きた交通事故に言及してきたそうだ。
 人間の仕業だと思う? そう聞かれたと彼女は言っていた。おれはその時、何か言ってはいけないことを口にしてしまいそうになるのを必死に抑えた。自分でもよく分からない、声にもならない何かがすぐそこまで出かかっているのがよく分かる。

「なるほどね……」

 そうして取り繕った言葉は、なんとも簡素なものだった。

「そうやってその人が言ったってことは、人間の仕業じゃないってことだ」
「た、多分……?」

 頭にこだまする、彼女の言葉。それを聞いたのがまだおれで良かったと心底思うものの、聞きたくなかったという気持ちが湧いて仕方がない。
 とある女子高生が死亡した、図書館付近で起きた交通事故。犯人がまだ捕まっていないと聞いているけど、そもそも捕まえられるわけがないとするなら、約一か月以上なにも進展がないというのもそれなりに理解が出来る。だが、いくらおれが幽霊が見えるからといって、容易には信用しがたいというものだ。そんなことが本当に起こり得るのかという疑問も勿論ある。でも、それだけではない。
 ――法律によって裁くことの出来る人間の仕業じゃないというのは、酷かもしれない。

「……なに?」
「あ、いや……」

 少し、考えていることが顔に出てしまっていたのかも知れない。おれは、彼女の視線に気付くことが出来なかった。その僅かなおれの自意識が、若干の嫌気に晒される。

「中条さんは、逝邪って知ってる?」

 気付けば、そんなことを口にしていた。

「逝邪……?」
「知り合いが探してるみたいなんだよね、その存在のこと。なんだっけな……」

 幽霊よりももっと格が上で、でも悪霊とかいうのとはまた別のもの。いわゆる怨霊・悪霊という存在を送り出すためだけに存在していて、基本的に人を襲うことはしない。要約するとこんな感じだっただろうか。
 中条さんは首を傾げたまま、ただおれの言葉を聞いていた。こんなことを彼女に話すつもりはなかったのだけれど、口が云うことを聞かないのだから仕方がない。

「知らないよね、こんな話」

 おれも、知り合いから聞くまでは知らなかったし。そう付け加えると、彼女はこんな言葉を口にした。

「……わたしが会ったのは、その逝邪さんだったりするんでしょうか?」

 そう問われたおれは、思わず足を止める。可能性が全くないというわけでもない、というところが、思考の妨げをした。

「あ、いや……でも、幽霊を送る? っていうのはわたし視てないですし、襲われてますから!」

 一体何を弁解しているのか、彼女は大層な身振りで否定をした。彼女のいう通り、確かに逝邪という存在であると明確に言えるようなことは起きていない。どちらかと言えば逆だ。
 でも、中条さんには言っていないことがひとつだけある。

 "基本的に人を襲うことをしたらいけないんですけど、まあそう言われてるってだけで実際は多分違いますよね。人を襲うってだけなら、別に簡単ですし。"

 その気を付けるという言葉にそこまでの信憑性が無いように感じるのは、多分彼女を取り巻く雰囲気の問題だろうから、余り突っ込まないことにする。と言っても少々心許ないのは確かなのだけれど、そこまで無鉄砲に動くタイプでもないだろう。……そうであることを、切に祈っておくことにする。
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