18話:教えたくないこと

 一か月という期間は、カレンダーで視認すると長く見えるけれど実際は思っているほど長くはない。この帰り道も、それくらいの感覚が空いたからといって特別新鮮味が増える訳でもないけれど、しいて言うのであれば、ひとりでの帰路がいい加減飽きてきたというところくらいだろうか。
 仲のいい人がいるわけでもなく、かと言って虐げられているわけでもないのだが、友人と呼べる人間は今のところまだ存在しない。
 もう少し社交性があればそれも違ったのだろうかと思うことは、ふとした場面で確かにある。しかし、そうまでしないと友人という存在にお目にかかれないというのなら、別にこのままでもいいと思うのだ。
 大通りを歩く自分の足音は、他の人達に比べて酷く貧相だった。今日は本を借りるということもなく、単に図書室にある本棚を眺めていただけ。この前みたいに荷物が増えて後悔するということは無いものの、それはそれで少し物足りなさを感じるというものだ。
 あの日のことは、出来れば余り思い出したくはない。思い返せば返すほど、あの人は一体何だったんだろうかという思考に侵される。目的もなんだったのかよく分からないし、どうしてわたしだったのかもよく分からないままだ。いっそ夢なら良かったのにと、そう思った回数は計り知れない。でも、あれが本当に全部夢だったと言われてしまったら少し困る。……その理由は、恥ずかしくて到底口にすることは出来ない。
 向かう先、帰路を無視して左に行くと確か公園があったはずだ。当然、今の私に用がある訳でもなく通り過ぎるだけなのだけれど、どうやら寄り道をしようがしまいが、その後に起こる出来事は変わらないらしい。

(……変な風)

 今日わたしを取り巻くそれは、とても生温かった。季節のそれと言われれば確かにそうなのだけれど、少しだけ違う。何処と無く、この前と良く似たそれに感じた。
 だからどうというわけでもないのだけれど、わたしは思わず辺りを見回した。まだ、行き交う人の目線が蔓延っている。その事実に安堵したものの、それはどうやら早計だったらしい。

「お嬢さんの探し物は俺だったりする?」

 耳元に、吐息がついた。
 思わず跳ね上がる体と同時に、わたしは勢いに任せて後ろを向いた。

「ま、また……?」

 目に映ったのは、紺の上着に白のシャツ。赤いネクタイとチェックのズボン。

「そうそう、また。あーいや、一応偶然なんだけど」

 この前出会った、わたしとは別の制服を着た男子生徒だ。

「今日も持ってるの? 光るやつ」

 柔和な声であるにも拘らず、その一言のせいで全ての五感を奪われたような気分になった。でも、今回は少し状況が違う。

「も、持ってたって良いじゃないですか」

 車が走る音も、誰かの喋り声も、風が横を通り過ぎる音も、全ての環境音が聞こえてくる。

「そうだね、うん。別に駄目とは言ってないよ」

 それが、唯一わたしの心を落ち着かせる要因だったと言ってもいいだろう。それくらい、耳に入ってくる音の数々に救われたのだ。ただ、当然混乱はしている。周りの状況も含めて、あの時と状況がまるで違うというのは明白だ。

「駄目じゃないけど、それキミのじゃないでしょ? なのに、まだそれを持ってるっていうのが気になるっていうか?」

 それなのに、あの時と同じ卑しい気配が夕に堕ちた。

「今日はそういうつもり無かったんだけど、出会っちゃったんじゃなあー」

 少し弾んだような声が、ゆっくりと耳を通り頭に響く。男の周りを漫然と取り巻く黒く淀んだ何かは、果たして他の人達には見えているのだろうか? そもそも今のこの状況で、わたしの周辺にわたしとこの人以外に誰が居るかを把握する余裕は全くない。
 気付けばわたしは、思わず足を後ろへ動かした。僅かではあるものの、目の前の男との距離をとったのだ。

「あ、ちょっと。逃げようとしてるとかそんなことないよね? もしそうなら酷くない? 酷いでしょ? 酷いよね? ねえ?」

 その防衛行動が、この男の勘に障ったらしい。

「話くらい聞いてくれたっていいのに」

 一歩踏み出した男を前に、わたしはまた一歩後ろに下がった。

「く、くくく来るのは駄目です!」
「どうして? あ、もしかしてビビってるの? そんな怖いことは起こらないハズなんだけどなあ」

 目を少し細目ながら、男は更に言葉を続けた。

「ボクは単純に、キミと話をしようって言ってるだけなのに」

 本当に意味が分からないとでも言いたげに、右手で蔓延しているそれらに触れる。紫を帯びた黒い靄を、男が握りつぶすかのように拳を作った。ゆっくりと、人差し指から順に手が開かれていく。僅かに光を帯びているように見える粒がぱらぱらと堕ちていくのが、嫌でも目についてしまった。
 きっとそう、恐らく、わたしを殺すなんていうのはあれくらい簡単なことのだろう。ただし、男が嫌煙する類いのモノを持っていない場合に限る、という特殊な条件付きなのかも知れない。

「……そういえば最近、この辺りにある図書館で事故があったんだってね?」

 男の言葉は、突然だった。
 さも世間話であるかのように、男によって話題が切り替わる。軽快な口調は、今までの卑しさとは僅かに違うモノが含まれているような、そんな気がした。

「な、なんで……」
「ん?」
「なんで、そんなこと言うんですか?」
「イヤだなぁ、お嬢さん」

 くつくつと笑いが、辺りを蔓延する。

「そんな目で見ないでよ」

 その言葉に、どういうわけか背筋に悪寒が走った。

「話もまともに聞いてくれないっていうんなら、お嬢さんともこれでお別れだね。ザンネンだなあ」

 いい加減飽きた。そう言いたげにまたしても一歩、男が足を踏み込んだ。わたしは当然後ろへ足を動かしたのだが、恐らくは半歩も動いていなかったのだろう。男がわたしの腕をむんずと掴んだということは、そういうことだ。

「悪いんだけど、お遊びの時間はもう一秒も残ってないらしいんだよね」

 少し、ほんの僅か。今までの男の口調との齟齬が含まれていたようなそんな気がしたが、男が言葉を発するのを止めた瞬間、今までとは違う黒く歪んだ景観がわたしの目に飛び込んだ。男の周りから、忽然と黒い粒子が大量に噴き出している。無論それは、わたしの足元も例外ではなかった。

「さて、その五月蠅い光でオレを殺すのは、一体いつになるのかな?」

 果たして誰に向かって言っているのか、恐らくは、わたしではない見えない何かに向かって言っているのではないかというような気がしたが、もしかするとそれはわたしの勘違いだったのかも知れない。
 何故なら、男の言った「五月蝿い光」と思わしきモノが、わたしと男を瞬時に飲み込んだからだ。
 声にもならない、息の詰まった呼吸音が口から漏れる。わたしは思わず目をつむっていた。人工的な光とも、太陽の光とも違うこの光。わたしはこれをつい最近目にしたことがある。

「……ここまでしないと駄目なんだから、狂ってるよ、ほんと。そう思わない?」

 目の前の間の男に襲われたあの時のそれと、全く同じ光だ。
 一体いつ男との間に距離が出来たのか、気付けばひと一人が通れるほどにまで空間が出来た。揺れた男の身体の端々からは、黒い粒が滲み出ているのがよく分かる。風に乗ることはなく地面へと墜ちていくその様が、少しばかり男の様子を表しているかのようだ。
 男の周りに堕ちた粒は、徐々にという程の猶予も無く、男の周りに集まりながら渦巻き始める。大蛇にも似た卑しい動きを前に、わたしは動く手立てをとっくに失っていた。
 そして、まるでこの時を誰かが望んでいたとでもいうように、男の口調に光が消えた。

 ――自我が消えていく、音がする。

 誰かに向かって言ったとは思えないほどに小さく、粒子にも満たない声だったとわたしは記憶している。黒い粒子の隙間から、僅かに見えた男の顔。靡く髪が、しだれ柳のように靡いていた。
 しかしそれが見えていた時間はすぐに終わり、男の顔はどうにも見えなくなっていった。
 わたしは、ただただその様子を眺めるほかなかった。さっきまでの威勢はどこに行ったのか、特に何もされていないのだから当然動けるはずなのに、わたしはそこに立ち止まったままだ。思考を動かすのに、少し時間が必要だったのだ。

「――!」

 刹那、誰かがわたしの名字を呼んだ。
 声が聞こえた方へ振り向いたときには、既に誰かがわたしの腕を掴んでいた。さっき、名前も知らない男がわたしの腕を掴んだ時よりも痛くはなく、かといって優しかったわけではないのだけれど……。

「間に合った……いや、間に合ったのか……?」

 それでも、安堵する条件は全て揃っていた。
 声の主が現れるのは、いつも突然だ。一回目は学校の帰り道、二回目は図書室。そして三回目の今日。
 今日一番望んでいた人物だったはずなのだけれど、心臓の動きが一段と早くなっていく。まるで悪いことをして見つかった時のそれのような心境だ。今のこの瞬間だけを切り取れば、あの時と状況はさほど変わらないかも知れない。でも同じことを繰り返しているというわけでは当然無いから、この次に起こることは前とは違う。恐る恐る、わたしは口を開いた。

「な、なんで……?」

 なんでまた先輩なのか? 恐らくその類の言葉を言おうとしたのだけれど、言葉が上手く口に乗らないせいで中途半端になってしまったのが悔やまれる。
 あの時は思わず逃げてしまったが、今回はそうじゃない。今すぐにでも逃げてしまいたい気持ちは確かにある。でもそれよりも、別の感情が上回っているということに、動揺が隠せない。

「さて、なんでだろうね?」

 わたしの言葉をどこまで汲み取ったのか、悪戯に笑う先輩を、わたしはただただ見つめていた。
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