11話:視えないものは何もなかった
――砂が踏みしめられる、音がした。
何処からともなく聞こえてきたそれがおれの耳に入って来た時、どうしようもなく心臓が跳ね上がったのがよく分かる。
まさか幽霊? さっき会ったばかりなのに? まるでなにか悪いことでもしたかのように、おれは反射的に振り返った。
その先、おれの視界に入ったのは、ひとりの男。しかし男と呼ぶにはかなり幼く、同い年くらいの黒いランドセルを背負った男の子と呼んだ方が適切だろう。
さっきからそんなところで何をしているのか? とでも言いたげに、キョトンとした視線をおれに向けていたその彼に初めてあった時の印象としては、どちらかというと大人しそうな、この歳にしては雰囲気だったと記憶している。
「あ、いや……。虫がいたから……」
なにも聞かれていないはずなのにどうしてか酷く動揺してしまったのは、きっと、心のどこかでこれが人に見られてはいけないことであるということが分かっていたからに違いない。意味の分からな言い訳を口走ってしまったことに後悔していたけど、目の前にいる男の子は、そもそもおれがそこで何をしていたのかなんていうことに興味を示すなんていうことは無かった。
「……それ、あそこにあったやつ?」
「え?」
彼の視線の先にあったのは、さっきまで女の子がいたはずの場所に静かに置かれていた名前の分からないとある花。
「あ、ああ……。うん」
それは正しくおれがさっきまで手にしていて、かつ女の子が手にしたものだった。一緒に消えたんじゃなかったのか、そんな疑問が頭から離れないでいる中、畳み掛けるかのように男の子が言葉を発した。
「リンドウ、だったけ……」
その言葉に、おれはかなり驚いたのを覚えている。
「……それだ」
あの時公園で姉さんが教えてくれた花の名前は、正しくリンドウだった。花屋の息子が覚えていないような、公園の隅に咲いている何処にでもある普通なら名前だって知らないであろうその花の名前を簡単に言い当てたのだ。
砂場に落ちている、リンドウと呼ばれた花。彼は、それ以上何かを言うでもなく静かにそれを手にとった。いやちょっと待って。忘れるところだったけど今はそれどころじゃない。そもそも、一体いつからこの人はここにいたのだろうか? おれがここに来た時はいなかったはずだけど、もしかして見えない所にいたのだろうか? それとも暫くしてから? どんなに考えても、どんなに思い返しても分からない。
もしこの人が一番最初からおれのことを見ていたのだとして、そのことに全く触れずに砂場に落ちているだけの花の話になるのだろうか?
「花、好きなの?」
その疑問を、おれは口にしなかった。
「好きっていうか……」
もしかしたら、さっき起きたことを忘れたかっただけなのかも知れない。でも、興味があったのだ。この余りにも何も動じることをしない、おれの目にちゃんと映っている存在に。
「そしたらさ、ちょっと来てよ」
「え……」
「こっち!」
それはもう、さっき起きたことが本当にこのまま忘れられるんじゃないかという錯覚に陥るくらいに、おれは夢中になってその人の腕を取って足を進めた。今会ったばかりなのにとか、どうしてその花の名前を知っていたのかとか、おれのことをいつから見ていたのかとか、そういうのを全て忘れようとしているかのように、とにかく走った。
恐らくは、罪悪感のようなものを振り解きたかったというのもあっただろう。
「花屋……?」
一直線に向かった先は、おれの住んでる家だった。
「ここ、おれんちなの」
そう言いながら、一緒に走ってきた男の子を視界に入れる。さっきまでとは明らかに目が光っているというか、輝いているのがよく分かった。もしかしてだけど、この時の彼はおれが見た中で一番輝いていたかも知れない。ゆっくりと歩を進めて店に入り、辺りを向かった場所。そこには当然花しかない訳だけれど、その場所がまた意外だった。
「ゼラニウム……。初めて見た……」
ここに来て言った第一声がそれだとは思わなくて、かなり驚いたというか、どちらかというと面白かった。だって、例えば女の子だって花に興味が無ければその単語をこの歳で言うこともないだろうに、それを同い年くらいの男の子の口から聞くことになるなんて、誰が予想しただろうか。
もしかしてこれが、人は見た目で判断してはいけないという典型的なパターンだったのかも知れない。
「ねえねえ、そういえば名前は? おれは宇栄原 渉っていうんだけど」
「……神崎、拓真」
神崎と名乗ったその人は、そう口にするだけしておれの方なんて見向きもせずに花から花へと目を移していく。それを見た時、おれは確かに彼のことを変な人だと思った。恐らく見ていたのであろうさっきのことも全然言及してこないし、寧ろその時のことなんて眼中にさえないんだろうなという気さえもした。
でも、あの場所に現れたのがこの人で良かったのかも知れないと思うことはある。いや、多分あそこにいたのが拓真じゃなかったら、そもそもこれから先の展開なんて起きることはなかったのだろう。
もしも出会わなかったとするのなら、おれが幽霊の見えるような人間であるということなんて、きっと誰も知る術はなかったのだから。
何処からともなく聞こえてきたそれがおれの耳に入って来た時、どうしようもなく心臓が跳ね上がったのがよく分かる。
まさか幽霊? さっき会ったばかりなのに? まるでなにか悪いことでもしたかのように、おれは反射的に振り返った。
その先、おれの視界に入ったのは、ひとりの男。しかし男と呼ぶにはかなり幼く、同い年くらいの黒いランドセルを背負った男の子と呼んだ方が適切だろう。
さっきからそんなところで何をしているのか? とでも言いたげに、キョトンとした視線をおれに向けていたその彼に初めてあった時の印象としては、どちらかというと大人しそうな、この歳にしては雰囲気だったと記憶している。
「あ、いや……。虫がいたから……」
なにも聞かれていないはずなのにどうしてか酷く動揺してしまったのは、きっと、心のどこかでこれが人に見られてはいけないことであるということが分かっていたからに違いない。意味の分からな言い訳を口走ってしまったことに後悔していたけど、目の前にいる男の子は、そもそもおれがそこで何をしていたのかなんていうことに興味を示すなんていうことは無かった。
「……それ、あそこにあったやつ?」
「え?」
彼の視線の先にあったのは、さっきまで女の子がいたはずの場所に静かに置かれていた名前の分からないとある花。
「あ、ああ……。うん」
それは正しくおれがさっきまで手にしていて、かつ女の子が手にしたものだった。一緒に消えたんじゃなかったのか、そんな疑問が頭から離れないでいる中、畳み掛けるかのように男の子が言葉を発した。
「リンドウ、だったけ……」
その言葉に、おれはかなり驚いたのを覚えている。
「……それだ」
あの時公園で姉さんが教えてくれた花の名前は、正しくリンドウだった。花屋の息子が覚えていないような、公園の隅に咲いている何処にでもある普通なら名前だって知らないであろうその花の名前を簡単に言い当てたのだ。
砂場に落ちている、リンドウと呼ばれた花。彼は、それ以上何かを言うでもなく静かにそれを手にとった。いやちょっと待って。忘れるところだったけど今はそれどころじゃない。そもそも、一体いつからこの人はここにいたのだろうか? おれがここに来た時はいなかったはずだけど、もしかして見えない所にいたのだろうか? それとも暫くしてから? どんなに考えても、どんなに思い返しても分からない。
もしこの人が一番最初からおれのことを見ていたのだとして、そのことに全く触れずに砂場に落ちているだけの花の話になるのだろうか?
「花、好きなの?」
その疑問を、おれは口にしなかった。
「好きっていうか……」
もしかしたら、さっき起きたことを忘れたかっただけなのかも知れない。でも、興味があったのだ。この余りにも何も動じることをしない、おれの目にちゃんと映っている存在に。
「そしたらさ、ちょっと来てよ」
「え……」
「こっち!」
それはもう、さっき起きたことが本当にこのまま忘れられるんじゃないかという錯覚に陥るくらいに、おれは夢中になってその人の腕を取って足を進めた。今会ったばかりなのにとか、どうしてその花の名前を知っていたのかとか、おれのことをいつから見ていたのかとか、そういうのを全て忘れようとしているかのように、とにかく走った。
恐らくは、罪悪感のようなものを振り解きたかったというのもあっただろう。
「花屋……?」
一直線に向かった先は、おれの住んでる家だった。
「ここ、おれんちなの」
そう言いながら、一緒に走ってきた男の子を視界に入れる。さっきまでとは明らかに目が光っているというか、輝いているのがよく分かった。もしかしてだけど、この時の彼はおれが見た中で一番輝いていたかも知れない。ゆっくりと歩を進めて店に入り、辺りを向かった場所。そこには当然花しかない訳だけれど、その場所がまた意外だった。
「ゼラニウム……。初めて見た……」
ここに来て言った第一声がそれだとは思わなくて、かなり驚いたというか、どちらかというと面白かった。だって、例えば女の子だって花に興味が無ければその単語をこの歳で言うこともないだろうに、それを同い年くらいの男の子の口から聞くことになるなんて、誰が予想しただろうか。
もしかしてこれが、人は見た目で判断してはいけないという典型的なパターンだったのかも知れない。
「ねえねえ、そういえば名前は? おれは宇栄原 渉っていうんだけど」
「……神崎、拓真」
神崎と名乗ったその人は、そう口にするだけしておれの方なんて見向きもせずに花から花へと目を移していく。それを見た時、おれは確かに彼のことを変な人だと思った。恐らく見ていたのであろうさっきのことも全然言及してこないし、寧ろその時のことなんて眼中にさえないんだろうなという気さえもした。
でも、あの場所に現れたのがこの人で良かったのかも知れないと思うことはある。いや、多分あそこにいたのが拓真じゃなかったら、そもそもこれから先の展開なんて起きることはなかったのだろう。
もしも出会わなかったとするのなら、おれが幽霊の見えるような人間であるということなんて、きっと誰も知る術はなかったのだから。