18話:教えたくないこと

 この時期、ようやく過ごしやすい気温になりつつあるお陰で、通り過ぎる生徒の服装はすっかり秋模様だ。この学校の制服の上着が秋を連想させる色味というのもあるだろう。こういった感覚も今年で終わるというのをたまに忘れそうになってしまうのは、それくらい学生という時期を当然のように過ごしていたからなのかもしれない。
 図書室の入り口で中を除いていた橋下 香という人物は、何かの気配を察したのか後ろを振り向いた。

「あ、先輩だ」
「……そんなところで何してるの?」
「いや、今日は先輩たち来るのかなぁと思って」

 どうもばつが悪いというような空気を感じたのか、橋下君はおれの顔をまともに見てはくれない。

「……今日はひとりなんですね」
「お互いさまでしょ」
「そうでした」

 お互いひとりでここに来たということについて、これ以上口を挟むことはしなかった。

「……入らないの?」
「先輩こそ」

 ここまで相手を探りながら話をするというのも久しぶりだが、別におれ自身に疚しいことがあるわけではない。橋下君がどうはかまるで見当がつかないが。

「暇なら、少し雑談に付き合ってよ」
「雑談ですか? 別にいいですけど、宇栄原先輩がそういうこと言うなんて珍しいですね」
「ちょうど君に聞きたいことがあったからさ」
「えぇ? じゃあ帰ろうかな……」
「はいはい、邪魔だからそういうのは中入ってから考えて」

 彼が軽口を叩くのはいつものことで、それに対しては別にどうとも思わない。いや、思わなくなったというのが本当のところだろう。それくらい慣れてしまったということだ。少し強引に背中を押し、彼と共に図書室に入る。少し不服そうな橋下君ではあったが、だからといって本当に帰る素振りをするわけでもなかった。
 少し奥のテーブルを適当に探し、テーブルを反した向かいの椅子を陣取る橋下君を視界に入れながら、各々のタイミングで椅子に着く。

「……で、聞きたいことってなんですか?」

 早速口を開いたのは、おれではなく彼のほうだった。欲を言うなら、本当にこの話をするべきなのかという部分についてもう少し考えたいものだが、そうもいかない。

「逝邪って、本当にいるのかなって思って」

 というより、ここに至るまでこの話をまともに聞くタイミングがなかったという方が問題だ。それに、十分過ぎるほど時間は経っているのだから今更考えるも何もないだろう。

「いるんじゃないですかね? オレは詳しく知らないですけど」

 この期に及んで、詳しくは知らないという彼の言葉を容易に鵜呑みにするのは流石に出来ない。あそこまでスラスラと逝邪という存在を口にすることが出来たというのに、はいそうですかと信じるには値しないだろう。

「……じゃあまあ、いいや。その逝邪って単語、何処で知ったの? 君の言うネットってやつで調べたけど、そんなの何処にも書いてなかったから」
「あー、調べちゃったんですね。で、ネットで拾ったっていうのが嘘だって知って、わざわざ聞きに来たってことですか」

 参ったなぁと、腕を組みながら目のやり場に困っているところを見るに、何か知られたくはない部分が含まれているというのが伺える。それすらも嘘、というのは流石に考えたくはない。
 おれだって、出来ることなら無闇やたらに疑うという行為は極力避けたいとは思ってる。

「逝邪本人に聞いた……とかだったら、どうします?」

 それなのに、この人物はすぐに軽口を叩いてくるのだ。

「……こういうの、本来なら先輩の方が詳しいはずなのに。持ち腐れですね」

 この時に彼が溢した言葉を、おれはまともに拾ってやることが出来なかった。

「本当にそれに関しては無知で、興味がなくて必要としてないんだったら、オレが欲しいくらいですよ」

 感情を潜めた笑顔の底に一体何を隠しているのか。それを知るには、どうしても胆力が必要だったのだ。

「逝邪の情報が気になるっていうことは、さては会いましたね?」
「会ってはない。気になることが増えただけ」
「気になることですか、なるほどねぇ……」

 僅か、ほんの少し納得がいかない。彼はそういった単語を言いたげに見えたけれど、その類の言葉は口にはせずに思案を重ねていく。おれの質問に答えるにあたって言いたくないことでも含まれているのか、それともおれだから言いたくないという唸りなのだろうか? どちらにしても大した違いではないのだけれど、やっぱり少し気になってしまう。

「逝邪が居るっていうのは嘘じゃないですよ? 逝邪本人から聞いたっていうのも本当です」

 横を通っていく知らない生徒が通り過ぎるのを待って、彼はそう言った。

「その逝邪って存在、どうして橋下君は知ってるの?」
「え? ああ……。昔、死にかけた時に助けてくれたことがあったんですよね」

 思わず聞き逃してしまいそうになるほどにさらりと述べられる言葉に、おれの時間が些か狂ったような感覚に陥った。

「……逝邪って、不思議なんですよ」

 しかしおれの言葉を待つなんてことは、この人物はしない。

「人間から見て敵とか味方とかそういう概念が通用するわけでもなくて、かといって幽霊の味方かっていうとそれも違う。傍観してるだけかと思った側から現れるんですよ」

 面倒だし、意味わからないですよね。最後にそう付け足した彼の言葉は、どこか第三者目線からものを言っているかのように淡々としていた。

「この前……橋下君が逝邪の話をした時だけど、その時は教えてくれなかったよね? 理由はあるの?」
「神崎先輩が居たからっていうのが半分」

 更に彼は、続けてこう言った。

「もう半分は、単純に言いたくなかったからですかね」
「……どうして?」
「嫌いなんですよ。その逝邪っていうの」

 今までよりも一段にハッキリと答えた彼の目に、どうやらおれは映っていないらしい。

「……あの黒いヒトガタの、おれらが視たやつ。あれは逝邪じゃないんだよね?」
「そうですね。あれが何なのかっていうのは、オレもあんまり詳しくないんですけど、多分逝邪と対の存在ですよね。幽霊って感じじゃないですし」

 話を聞く限りで言うのなら、橋下君の言う通りあの存在が対のモノであると言って差し支えはないのだろう。逝邪自体の悪い情報が無いということくらいでしか今は判断出来ないが、それはそれ、ということにしておくことにする。
 不確定な要素が多いからといって、定義をしないというのは悪手極まりないのだ。

「最近は、その黒いのに会った?」
「ここ最近は視てないですね」
「そう……」
「疑ってますか?」
「まだ何も言ってないでしょ。それに疑ってない」
「ならいいんですけど」
「……そんなに信用ない?」
「逆ですよ逆。いつも適当なことしか言ってないオレのこと、どこまで信用してくれるのかなって」

 しかし、今日の彼は少し様子がおかしい。拓真と相谷くんがいないからなのだろうか?

「出来ることなら、全部信用して帰ってくださいね」

 ふいに見せるこの誰に向けているかの分からない笑みは、時々おれを不安にさせる。

「なにかあった?」

 そのお陰で、気付けばそんなことを口にしてしまっていた。

「……どうしてですか?」
「いや……」
「オレは大丈夫ですよ」

 でも、それでも彼は否定をする。

「大丈夫なんです」

 笑みを浮かべながらも、その目はどこか遠くを見据えている。そんな気がしたにも関わらず、おれはこの時それ以上のことを聞くに至らなかった。

「……先輩の気になること、全部解消されました?」
「え? ああ、まぁ……」
「オレから言えるのはこれくらいですかねぇ。真面目な話したら疲れましたよー」

 それが、この一連の流れにおいて最大の汚点と言っていいだろう。

「ほかに何にも無いんだったらオレ帰りますけど。先輩はまだ居るんですか?」

 この時、おれは一体どういう返事をしたのかは覚えていない。

「じゃあ先輩、また今度」

 だが、彼がおれを置いて席を立ったということはそれが答えなのだろう。
 少し、感覚が麻痺していたのだ。前まではこんなことを人前で話すことはなかったはずなのに、それが今はどうだ? いつからそうなったのかを思い出すことが出来ないというのは、どうにも煩わしい。
 ゆっくりと、徐々に、少しずつ。こうして感覚は麻痺していくのだと痛感するには、まだ至っていない。

 彼が口にした「また今度」という言葉。それに一体どれほどの重みがあったのか? そんなことは、今もこれから先も知りたくなんてないというものだ。
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