第13話:仕組まれた不戦勝

 ドタドタと、誰かが廊下を騒がしく歩く音がする。その音を掻き立てているのは自分自身であるということに、当の本人は気付いていない。というより、そんなことを気にしていられる余裕なんてどこにもなかったのだ。足を動かすたびに靡く髪の毛に気を取られることもなく、少し息を切らしながら険しい面持ちで目的の場所を目指す。ああ早く、一刻も早くこの状況を何とかしないと。
 このままだと自分がどうにかなってしまいそうで、気付いたら家を飛び出してここに来てしまっていた。

「クレイヴっ! 助けてください今日――」

 勢いよく開いた扉の向こうにいるのは、図書館の館長の息子であるクレイヴ。何かにつけて、僕……私がいつも助けを求める人物だ。

「……アルセーヌ。来るのは構わないけど、ノックくらいはして欲しいな」
「す、すみません……」

 クレイヴを前にしたということと、いつものように苦言を提示されてしまったことで若干の落ち着きを取り戻しはしたものの、焦りが収まることは無い。彼は、少し困ったような面持ちで手にしていた本を閉じ、悠長に言葉を続けた。

「で、何の用? その様子だと、もしかしてまた逃げてきたんじゃないだろうね?」
「だって、社交ダンスなんて僕は好きじゃ……! じゃなくて、えーっと私……? ああもうっ! とにかく匿ってください!」

 別にいいけど、多分すぐに見つかるよ。その声を聞きながら、私はクレイヴとの距離を足早に詰めた。溜め息の次に出てきた言葉に近づいて、当時の私はクレイヴの座っているテーブルを視界に入れた。
 置いてあるのは、いつものチェスの盤面。それに、なんだかよく分からない難しそうな本。唯一違ったのは、カップに入っていたであろう紅茶が飲み干されていたということと、チェスの駒がしまわれていたということ。

「今日はチェスじゃないの?」
「私だって、別にいつもやってる訳じゃないからね? 本が読みたい時だってあるさ」
「そっかぁ……」

 私がこの時からチェスを覚えることが出来なかった理由は、主にふたつ。

「……やる? ま、アルセーヌとはまともな対戦が出来るとは思えないけど」
「そんなこと! ……ある、けど」

 まずひとつ目は、比較的簡単であるルールを覚えることが出来なかったということ。これに関して言うなら、チェスとの相性というのもあったのだろうし、単純にそこまで興味がなかったのかも知れない。

「クレイヴがやってるのを見てるくらいが丁度いいから、今日は大丈夫」

 そしてふたつ目。これはあくまでも推察に過ぎないけれど、恐らく私は、単にクレイヴがひとりで淡々と駒を動かしているその様子を、見ていたかっただけなのだ。相手がいないのに、白と黒の駒を巧みに使い分けながら「今回は接戦だった」とか、「黒の調子が良くなかったらしい」とかいう適当な設定をつけて楽しんでいるその横で、特に何をするでもなく駒が動く様子を見ながら、クレイヴと雑談をする。ただそれだけでよかった。
 確かに、私がルールや駒の名前を覚えることが出来ていたら対戦も出来ていたかも知れないし、その方が楽しいこともあったのかも知れない。でも、そういうことじゃ無かったのだ。

「じゃあ、何をして暇を潰そうか? どうせ君の父君が近いうちにやってくるだろうし、雑談をするっていうあれでも……」
「どうして見つかる前提なんですか!」
「君が来る場所なんて大体決まっているじゃないか。ここなんて、真っ先に来て見つかりそうだけど」
「だ、だって、他に行くところなんてないし……」
「ああもう……。分かったから、そんな顔しないでくれよ。そうだな、確か……」

 こうやって簡単に気を落とした私を前にしてそう言うと、徐に席を立ち棚のある方へと足を向ける。控え目な足音が向けられたその先にあったのは、四角いひとつの缶だ。

「この前に人から貰ったマドレーヌ、まだ残ってるんだ」

 そう言ってクレイヴは、幾つかのうちのひとつを私に差し出した。

「……いいんですか?」
「こうやって人が来ることもそうないから、かなり余らせていてね。どうしようかと思っていたところだったから、貰ってくれると嬉しいんだけど」

 手渡されたそれは、確かこの街のものではなくて、どこかの有名店のもの。柔らかな笑みに誘われ、私は無意識的に手にしてしまっていた。

「あ、ありがとうございます……!」
「父君が来てしまう前に、一緒に食べようか?」
「父さんに怒られないかな……」
「今更そこを気にするのかい?」

 内緒にしてしまえばいいさ。そう言いながら包みを開けるクレイヴに急き立てられるように、私も同じ動作をする。開けた途端に広がるバターの芳しい香りに、少しずつ口の中が潤いはじめていく。優しい甘さが口に広がっていくのが、なんとも心地よかった。
 その僅か数十分後のことだっただろうか。慌ただしい足音と共に、いかにも怒っているといった形相で父が私の前に現れたのは。クレイヴの後ろに隠れ、せめて怒られるのだけは逃れようとしたのも意味がなく、かなりこっぴどくしかられた記憶がある。
 アーネット家とルヴィエ家は元々親交があったというのもあり、父は彼の前で大っぴらに怒っていたし、なんならクレイヴは笑っていた。これくらいのことは、当時わりと頻繁にあったのだ。

「酷い目にあいました……」

 あれから約二時間ほどした後。半強制的にそれの指導を受けた私は、気付けばまたクレイヴの元を訪れていた。マドレーヌを食べたということだけはお互いに口にすることはしないまま、一日が過ぎようとしている。

「今時社交ダンスなんて流行らないだろうに、君の父君は随分と熱心だね」
「ピアノだってそうです! 僕の素行が悪いからどうにかしたいとか何とか、適当なことばかり言うんですよ!」
「間違ってはいない気はするけど」

 口を開けば、ほぼ毎回こんなことばかりを声にしていたのをよく覚えている。よくもまあ、クレイヴは毎回こんなことに付き合ってくれていたものだ。

「僕、貴族の生まれじゃない方が良かったかな……」

 半強制的にやらされるそれらにすっかりと生気を吸いとられてしまった私は、気づけばこんな言葉を放っていた。

「……どうして?」
「だって、今でも言葉も丁寧に話せないし、社交ダンスだってピアノだってろくに出来ないし……。僕は別に、って、僕じゃないってば! あーもうっ!」
「はは、その歳で全部を完璧にするっていうのは、流石に無理があるんじゃないかな」
「でもっ! クレイヴはいつも完璧じゃないですか!」
「私は別に、ピアノもダンスも出来ないけど」
「オーラが出来るって言ってます!」
「あ、そう……」

 屁理屈を並べただけの、特に意味のないやり取りは、次のクレイヴの言葉で終わりを告げる。彼が何かを口にすれば、それは本当に簡単だった。

「……まあ、それが本当にアルセーヌの為にならないというのであれば、無理にやる必要なんてどこにもないよ。本当にやりたくないのなら、ね」

 そう言いながら、彼は私の目を見てこう問いかける。

「君はどっちだい?」

 問われた私は、ほんの僅かながらも冷静さを取り戻す。周りの人は、さも当然のように私に色んなことをやらせようとしていた中、そんなことを聞かれたのは、もしかするとこれがはじめてだったのかも知れない。

「そりゃ、出来ないよりも出来た方がいいとは思いますけど……。でも……」
「でも?」
「人には向き不向きがあるというか……。あの、本当に出来なくて……」

 すっかりと悄気る私を前に、僅かな沈黙が走る。例えばの話、頑張って覚えようと努力をして、その過程の中で楽しさを覚えながら出来れば、私だってこんな駄々のこねかたはしなかったはずだ。……というのは、紛れもなく自分を正当化させようとする為の嘘だと言えるだろう。
 それは、クレイヴが口にした次の言葉に対して当時の私が口にした数々が物語っているはずだ。

「……そういえば、それらを始めたのはいつ頃のことだったかな?」
「えーっと……。一週間前、くらい?」
「それは君が悪いよ。気が早すぎだ」
「でも僕っ、やりたいなんて一言も言ってないです!」
「君の言うオーラというのが、父君に出来ると言ってくれたのかもね?」
「オーラなんてあるわけないじゃん!」
「君が言ったんじゃないか。言葉には責任を持ってくれないと困るね」

 その様子は、端から見たら貴族とは程遠いものであるというのは間違いないが、これら全ての出来事をいつになっても忘れられないというのは、誰が思うよりも有意義な時間だったということの表れなのかも知れない。
 但し、そう思えるようになるまでの時間と、公の場において発生するそれ相応の貴族の理想像というものを身に付けるのには、沢山の時間が必要だった。昔と比べて、果たして今はどうなのかという部分について問われたら、きっと答えることは出来ないだろう。

「私の前なら、別にどうでも構わないのだけれどね。ああでも、ノックくらいはしてくれると嬉しいかな」
「努力する……します……」

 ほんの僅かでしかないけれど、あの時よりは幾らかマシにはなった。それくらいだったら、言っても許されるだろうか?

「明日、また来るといいよ。私も、もう少しマシなもてなしくらいは出来るようにならないといけないからね」
「……いいの?」
「私が良いって言ってるんだから、そこを疑われると困るよ。それに、いつも予告なしに勝手に来るじゃないか」

 そうだったら良いと思う反面、恐らくは何も変わっていないのだろうという狭間というのには、もうすっかり慣れてしまっている。だからきっと、私はいつまで経っても駄目なのだろう。
 早くしないと、また父君にどやされるよ。その言葉に、私はようやく我を取り戻した気がした。そういえば、稽古が終わってすぐ、父さんの小言に聞き飽きて図書館に行くと言って逃げてきたのをすっかりと忘れていた。

「じゃ、じゃあまた来ますねっ」

 そう口にすると、クレイヴの口が綻んでいった。もう日没時間だから送っていこうか? そう聞かれたけれど、考えるまでもなく二つ返事で大丈夫と答えていた。一応、罪悪感というものは持ち合わせていたというのが大きかっただろう。今更慌てたところで既に遅いのだが、日没間際ということもあって、これ以上の長居は流石に出来ないというのは流石によく分かる。私は、一刻も早くとクレイヴの部屋から姿を消した。……そのはずだった。

「明日っ! また来るから!」
「分かった分かった。また明日」

 この時の私は、彼と約束を取り付けたことが嬉しくてかなり上機嫌だった。それは、今となっても何ら変わらない。

 ――図書館の外。扉を開ける音が、私を現実に引き戻したようなそんな気がしたのは、恐らく気のせいではなかっただろう。
 もうすっかり日中の明かりが消えてしまった街路には、まだ沢山の市民が出歩いている。それは、ほんの僅かではあるものの私の心を曇らせた。向こう、つまり市民側がどう思っているかなんていうことは別にどうでもよく、単に夜くらいは静かに歩いて帰りたかったのだけれど、どうやらそうなるには少し早かったらしい。もう少しくらい図書館に居ればよかっただろうか。そんな考えを払拭する為、私は自身の意思で足を動かした。
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