12話:知られてはいけないこと

 内心、心臓が痛くなるほどに跳ね返っているのをひしひしと感じながら。平常心を保つというのは中々に難しい。思ってもいなかった人物が現れた時のおれは、はじめて幽霊を見た時よりも目を丸くしていただろう。

「そういう神崎君こそ……」

 おれに問われた神崎君は、どこか言いずらそうな顔で目を泳がせている。ただ、それはおれと再び視線が交わったからなのか、すぐに収束した。

「……お前の跡、つけてたんだけど」

 その言葉が放たれた時、酷く冷たい風が横を通り過ぎた。嫌な予感が働いて振り向くと、黒いそれがさっきよりも色濃くなっていたのが見てとれた。斜め後ろで状況に似合わない顔をしているこの男。完全に、この人がいるタイミングが悪すぎる。差異はあれどまるであの時みたいだ。
 相手がどういう存在なのかというのが分かっていない今、正直神崎君の相手をしている暇なんてどこにもない。目の前にいる存在を何とかするのが先だろう。
 ……ここで、ひとつの疑問が頭を過る。本当に何とか出来るのだろうか?というところだ。そんな不安は今更ではあるのだか、自分ひとりだけだったら何とかなるだろうで済んだのに、そうもいかなくなってしまったせいで完全に動揺していたのだろう。

「やっぱりそういうことか……」

 突然、神崎君が明らかに不審な声をあげる。
 やっぱりそういうことか。彼が漏らしたその言葉を聞いて、途轍もなく身体が冷えたのはよく覚えている。あの感覚は、本当に嫌いだ。

「……神崎君って、見える人だったの?」
「いや、今はじめて見た」

 余りに冷静に言葉を発する神崎君にペースを乱されているのもつかの間、忘れるなと言わんばかりに黒いもやが迫ってくる気配がした。もういい、神崎君のことは一旦無視だ。目の前にいる今にも凶悪化しそうなこれを何とかしてから考えることにする。そして、先ほどの話に戻ることになるだろう。
 そうは言っても、おれに一体何が出来るのかという部分だ。
 特別身体能力が高いという訳でもないおれが避けられるとは到底思えない速さで迫って来るそれ。一瞬にして襲う危機感と、逃れる術のない弱者が陥る絶望視。
 ――残り、数ミリのことだった。何かがおれの危機に反応したかのように、迫ってきたそれを弾き飛ばしていた。
 眩しく感じたのは本当に一瞬のことで、咄嗟に目を塞いではいたけど、恐らく何かが終息する方が早かっただろう。

「なに、今の……」

 そんな言葉しか、おれの口から出てくることはなかった。

「……宇栄原」
「な、なに? 今混乱してるから出来れば後にして欲し――」
「俺とお前の鞄めちゃくちゃ光ってるけど」
「はぁ?」

 少々現実味に欠ける言葉に思わず言葉を返してしまった。言われるがまま反射的に視界に入れたのは、おれと少し距離を取っている神崎君。そして――。

「……次から次へと何なの?」

 彼の言うまま、どこからともなく光を放っている鞄だ。

「俺に言われても困る」

 神崎君の言い分は最もだけれど、別に彼に向けて言った訳ではない。単純に独り言だったんだけど、誰かに拾われてしまったら会話は成立してしまうという典型的なそれだった。
 よく見ると、光っているのはどうやら鞄そのものではなく、鞄の中に入っている何か光が光っていて、それが鞄から漏れ出しているらしいというのが見てとれた。そういえばあの時、小学校のあの日のことだ。女の子を前にしておれは何をした? 確か公園の隅に咲いている花を手に持っていて、それで? それからおれはどうした?

「もしかしてあれか……?」

 噛み砕いて反復する余裕と時間は、そこまで多くはない。
 自らが導いた答えを前に、おれはすぐに自らの鞄のチャックを開ける。無機質な音が、喧しく聞こえて仕方がなかった。こういう現象が起こるには、必ず条件が必要だ。もし考えていることが正しいのなら、原因はひとつしか考えられない。
 おれが探しているものは、学校に持ち歩く鞄の中にある必至アイテムの教科書でもノートでも筆箱でもペンでもない。

「……あった」

 鞄から取り出したのは、本だ。いや、正確に言うなら本に挟んである栞。もっと言うなら、姉さんが好きでよく作っている栞。まるで自己主張をするかのように、はらはらと光を溢していた。
 ……決して忘れていた訳ではない。あの時もそうだったのだ。その辺に咲いていた花を手にして、幽霊に渡そうとして。そして、その花からは光が溢れていた。
 神崎君の鞄から漏れているのも、恐らくそういうことだろう。確か前に貸した本に、おれと同じような栞を挟んだまま渡したのを思い出す。それを到底理解したくなかった自分も確かに存在していただろう。だが、事態はそれを許さない。
 この時、黒いもやは確かにおれらの周りを取り巻いていた。それでも、それ以上のことは何も起きなかったということは、おれの考えていることは恐らく正しかったのだ。

「……おれ、この先に何が起きても責任は取れないからね?」

 誰に向かって言うでもなく、そんな言葉を振り撒いた。当然独り言なんかではなかったが、これをどう受け止められたのか、返事はひとつも返ってこない。
 おれは、手にした栞をその幽霊とやらに勢いに任せ投げつける。それはもう、完全にやけだった。
 風に乗って栞がたどり着いた先にいた彼女に当たったのかどうなのか、空気が変わっていくのがはっきりと分かった。というより、取り巻いていたはずのもやが、栞が放っていた光に負けていくかのように消えていったのだ。
 段々と黒い靄が消滅していく中、流れるままに女子生徒の手に栞が渡る。依然として光は止まることのないまま、やっとといったて差し支えはないだろう。始めて、彼女がおれに何かを訴えてきた。言葉としてではなく念のような、直接脳裏に訴えてくるかのような、そんな感覚だった。

 黒く染まる深淵ではなく、優しく馨るこの光に呑まれて消えてしまいたい。
 そういった類の言葉だっただろう。

「……その黒いのに完全に呑まれる前だったら、まだ間に合うんじゃないの? そんな気がするよ?」

 周りからすれば、明らかに誰もいないところに話しかけているようにしか見えないこの状況。神崎君にはあの声は聞こえていたのだろうか? ……だからといって、別にどうという訳でもないのだけれど。
 今この状況下においては、単純に目の前にいる存在以外の興味はどこにも存在していなかった。

「今行かないと、その次があるなんておれは思えないよ?」

 おれがそう口にすると、瞬く間に光の強さが増していく。
 ……彼女らにとって、この光とは一体どういうものなのだろうか? 黒と白が対で、光と闇が対であると言うのなら、答えを導くことは容易に出来るのかも知れない。
 でも多分、そんな単純な問題ではないのだろう。

「……じゃあね」

 光は、いつしか彼女を取り巻き粒となって収束していく。黒い靄がどうなったのかは知らないが、消えていったのは彼女だけのようにも見えた。ゆっくりと、枯れ葉の上に落ちていく栞。この点は、あの時と全く同じだった。それを確認したのが早いか否か、無意識に体を縮こませていた。
 深いため息と共に、風に任せてゆっくりと木の葉が足元に落ちてきたのが視界に入る。少しだけ落ち着きを取り戻したその場所に残されたのは、力を濫用するひとりの巧者と。それを良しとしないひとりの流者。流者を背に、巧者は言葉を紡ぐ。

「……神崎君って、人のあとをつけるとかそういうことする人だったんだね?」
「いや、なんつーか……」

 数秒の無音が蔓延る中、地面を踏みしめる音が横を通った。神崎君が歩を進めている証拠だろう。顔を上げると、彼が向かっていった先はさっきまで女子生徒がいたところ。ここから僅か数歩先には、一枚の栞が落ちている。
 それを徐に手にしながら、神崎君は言葉を続けていった。

「……お前、前から変なところばっかり見てることあったし、よく一人でどっか行ってることが多かったから……。だから多分、俺には見えないもんでも見えてんだろうなってずっと思ってたんだけど。今日は、いつもより変な顔してたから。だからなんか……」

 その言葉の数々は、おれの思考を停止させた。

「気付いたら、跡つけてたわ」

 何を言ってるのか、正直よく分からなかった。それはつまり、神崎君は前からおれの行動を不審に思っていたということなのだろうか?
 特別仲がいいなんてことをおれは思っていなかったけど、小学校からの仲ということもあって、それなりの時間をそれなりにふたりで過ごしたことは何度もあるし、お互いのことを何にも知らないという訳ではない。でも、そんなことを思われていただなんて夢にも思わなかったのだ。
 だって、気付かれていないものだと思ってた。
 今となってはただの過信となってしまったが、それ以前に気付かれるわけがないと思ってたから。
 気付かれる程の関係なんて築いていないと思っていたから。
 だから、こういう話を誰かとすることになるなんて当時は思っていなかったのだ。現に、姉さんとあの時出会った名前を思い出せない誰か以外の人物にこういう話をしたことが無かったし、姉さんがそんなことを言いふらす人間だとも思えない。拓真と出会って以降は、何となく人がいるところでは出来るだけそれらを視界に入れないようにはしていた。
 気付かれようがどうでもいいと思っていたにも関わらず、気付かれないようにするにはどうしたらいいのかと考えてもいた。
 だけど、この人は気付いていたと口にした。それは一体いつからだったのだろうか? あの口ぶりからしてやっぱり最初から? それとも最近になってからなのか?

「はあ……もういいや」

 屈んでいたせいなのか、立とうとするとどういうわけか身体が重い。そう、いっそおれごとあの光の中に連れていってくれれば良かったのに。そんなしょうもないことを思い浮かべている中、黙っているわけにもいかず声を出す。

「……神崎君ってさぁ」

 隠す必要が、隠していた意味が、なくなってしまった。

「幽霊って信じる人?」

 諦めにも近いそれは、おれの口を動かすのには十分だった。唯一の救いだったのは、それを言うことになってしまった人物が彼であるということだったと思うのは、もう少し時間が経ってからの話だ。
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