02話:聞こえた音とキミの声

 手のひらサイズ程の小さな妖精。それが、恐らく僕に背を向けた状態で小さな音を奏でている。はじめて妖精という存在を目にしたという事実に、一瞬思考が止まった気がしたが、心が踊っているのが自分でもよく分かった。
 風に乗って聞こえてくるような微かなそれを耳に入れるのに必死で、話しかけるとかそういう思考になるには少し時間が必要だった。

 妖精なんて、今の時代にはその姿を見ることなんてまずないけど、その昔は、それこそ共存という言葉に相応しいくらいに人と妖精、またそれ以外の存在は互いに尊重しあって生きていたと言われている。ただ、その裏では彼らが持っているらしい力を無理やり行使しようと『人外狩り』のようなことが行なわれていたらしく、そのせいもあってか、今の時代では姿を見ること自体が珍しくなってしまったと、まるで示し合わせたかのように文献にはそう綴られている。
 そもそも、彼らのような存在に害を為すことは禁止されてはいるものの、隠れてすることなんて幾らでも出来るわけで。勿論、僕はそんなことはしないけど。しかし、初めて出会ったそれを見たせいもあって、純粋にそこにいる妖精に興味があった。
 本でしか出会ったことのない存在。いつか、いつか俺も出会える時が来るのだろうかと考えたことは何度もあったけど、正直、先人が本の中で作り上げた存在だと思っていたというか。心の何処かでは、きっといないだろうとなんて思っていたこともあった。それくらい、彼らと出会う機会なんてまず起こり得ないのだ。だから、ついつい言葉が漏れる。

「本当にいた……」

 目の前にいるそれを前に、勝手に口が動いてしまう。僕の声にやっと気付いたのか、笛の音がようやく止まった。妖精が僕の存在を確認するかのようにして振り向いた時。
 僕は、僕としてこの世界で生きている中、はじめて泣き虫で小さな彼と顔を合わせた。

「え……うわっ、にんげんだあああ……」

 小さな彼は、僕の姿を見るや否や声をあげて一目散にその場から飛び去ろうと羽を広げていた。その様子を見て、どうしてか僕まで焦ってしまう。咄嗟に引き止めようと、気付けば声が出てしまった。

「あっ、待って! 僕は――」
「わあああああ……!」

 慌てながらその場を去っていく小さな彼に、僕はそれ以上の言葉をかけることが出来なかった。

「行っちゃった。怖がらせちゃったな……」

 まあでも、小さな彼の反応は最もかも知れない。これが大昔のことだったらこうはならなかったのかなって思うと、やっぱり寂しく感じてしまうけど。

「ふえ……う、うわあああああん!」
「ん……?」

 居なくなったはずの小さな彼の声が、何処かから大きくなって聞こえてくる。さっきの、僕を見た時のそれとは少し違うような、何処か切羽詰まっているような声だった。さっきも逃げられちゃったし、こういうのって多分余り干渉するべきじゃないんだろうけど、聞いてしまった以上、このまま無視するというのは流石に出来なかった。
 出来るだけゆっくりと、小さな彼が向かった方へと足を進める。葉っぱが生い茂っているところ、明らかにガサガサと音を立てている場所に向かって、腰を下ろす。

「……大丈夫?」

 言いながら、僕は葉っぱにそっと手をかけた。

「ありさんっ……! おいらの事虐めないでよお!」
「蟻さん……?ああ、帽子に付いちゃったのか……」

 ぼろぼろと大粒の涙を流し慌てふためく妖精に、僕は無意識に手を向けしまう。そうしてやっと僕の存在に気付いたのか、妖精の声は更に大きくなっていった。

「わあああああ! に、にんげんもやだあ!」
「ああ、ごめんごめん。どうしようかな……」

 妖精は完全に動揺している。というか、なんなら帽子についてしまった蟻も困惑しているようにも見えた。僕がなんとかしようとすればまた同じことの繰り返しになっちゃうけど、かといって放っておくのもどうかと思うし、何か別の方法が出来ないだろうかと辺りを見回してはみたものの、当然、辺りは木々に囲まれているだけだ。ただ、その中でだって、自分がやろうと思えば方法なんていくらでもあるというものだ。
 地面に落ちている何でもないそれを手に取り、ゆっくりと妖精の帽子に向けた。

「よっ、と……」
「え……?」
「……はい、蟻さんいなくなったよ」

 妖精に向けたそれ。地面に落ちていたなんてことない木の棒には、さっきまで帽子で慌てふためいていた蟻の姿があった。

「キミが驚いてばかりだから、蟻さんも困ってたんだよ」
「うう……ごめんよ、ありさん……」

 ぐすぐす鼻をならしていた彼は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。そこで、はじめて僕たちはちゃんと顔を合わせた気がした。

「う、その……あ、ありが……とう……」
「あ、いや……こっちこそ、キミを怖がらせるつもりはなかったんだ。驚かせてごめんね」
「う、うん……」
「あ、そういえば……。さっきの笛の音、キミだよね?」
「え……?」
「えーっと……違ったかな?」
「そ、そうだけど……。ほんとうに、聴こえたの……?」
「うん。小さかったけど、可愛かったよ。ねえ、ルシア……あれ」

 辺りを見回してみたけど、ルシアンの姿が見えない。そういえば、彼の音に誘われて自分からはぐれに行ったんだっけ。目の前にいる彼と話がしたくて、完全に忘れていた。

「おーい、ルシアーン?」
「はいはい、ちゃんといるよ」

 少し遠くの方、ルシアンの声と同時にガサリと音が響いてくるのが聞こえてくる。段々と近付いてくる草の音の正体が何なのかというのを想像するには、十分だった。

「何処行ってたの?」
「いや、こっちの台詞なんだけど……って、そこの小さい彼はどうしたの?」
「あ、うん。さっきね、蟻に襲われてたから」
「ふーん?」

 視線が、ちらりと小さい彼の方へと向けられる。だけどそれはほんの一瞬のことだった。

「それはいいけど、探すの面倒だから勝手に行かないでくれる?」
「そ、そうだね……。ごめん……」
「リベリオさん家でも同じことしないでよね?あの家広いし」
「りべりお……?」

 その言葉を発したのは、僕ではなく小さな彼だ。一見、ルシアンが発した言葉のひとつを口に出しただけのように見えたけど、そう思ったのはどうやら僕だけのようだった。

「……君は、リベリオさんのこと知ってるの?」

 ルシアンが、さも当たり前のように彼と話をし始めている。それは、彼がそういうことにまるで興味がないからなのか、それとも僕が知らないだけでこういう類の存在に出会ったことがあるのか。今の僕には、それが分からない。単純に、ルシアンがこういうのに物怖じしない人間だから、というのが一番しっくりきそうではあるけど。

「う、うう……」

 小さな彼は、帽子を被り直しながら何かを言いたそうにしているようだったけど、如何にも泣き出しそうな声を上げていた。それを見たルシアンは、彼の目線に合わせて腰を落とす。

「君も一緒に行く?」
「……え?」

 その質問は、小さな彼と僕の口を開かせた。小さな彼の口から『リベリオ』という単語が出てきたからなのか、いつも面倒になりそうなことには余り首を突っ込まないルシアンが、自らこうやって問いかけるなんて正直思わなかったのだ。
 少しの沈黙は、風と一緒に何処かへ流れていく。

「に、人間についていったら、きっとおいら食べられちゃうよ……」
「はは……生憎、俺は妖精を食べる趣味はないんだけど」

 苦笑いかけながら、再度小さな彼に問いかけた。

「どうする?」

 僕が唯一理解できたのは、ルシアンのそれは何かを考えた上での行動であるということだけ。

「お、おいらも……一緒にいきたい……」

 風の音にすら負けてしまいそうな小さな声で、彼はそう答えた。

「じゃあ一緒に行こうか、小さい妖精くん?」
「う、うんっ!」
「で……君って名前ある?」
「ロ、ロデオだよ……」
「へぇ……じゃあ宜しくね、ロデオくん?」

 僕はと言えば、この件に関してだけは完全に蚊帳の外だった。リベリオさんの家に行くというだけで一大イベントなのに、そこに追い打ちをかけるように妖精のロデオが現れた。
 それはある意味では偶然で、ある意味では必然だったのかも知れない。

「……なに?」

 気付けば僕は、ルシアンを視界に入れていた。

「いや……ルシアンって、結構優しいんだね」
「は? そういうお世辞いらないから」

 捨て台詞のようなそれを置いて、さっさと元の道へ戻っていくルシアンの姿は、いつものそれと全く同じに見えた。

「えーっと……宜しくね?」
「う、うん……っ」

 ロデオは、自身の持っている羽を動かして空を飛び始めたたかと思うと、一直線に向かったのは僕がしているマフラーだった。

「え、ちょ……っ!」

 もぞもぞと潜り込んで、何かを探しているかのように動くそれは、さながら巣作りのようで。

「おいら、ここがいいな……」
「はは……。まあ、いいけどね」

 満足したかのように呟く声が、マフラーの中から聞こえてくる。右の頬に微かに触れる彼の帽子だけが、姿を確認できる唯一の感覚だった。
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