01話:名前のない本

「はあ……。なんか疲れた……」

 家に帰って早々に発せられた言葉は、まるで今日一日とてつもなく忙しかったかのような台詞だった。ただ掃除をしていただけと言われてしまえば確かにそうだけれど、普段しないことをするといつもより仕事をしたような気になってしまうなんてことは、実際よくある話だ。……なんだが、僕が普段ちゃんと仕事をしてないんじゃないかと思われそうだけれど、そんなことはない、はずだ。
 ぼふっと音を立てたベットが、僕の両脇を通り抜ける。正直なところ、最初に掃除の話をルシアンから聞かされた時は余り乗り気じゃなかったんだけど、手伝ってよかったと今なら思う。ルシアンに呆れられはしたけど、リベリオさんの手記以外にも面白いことは沢山あった。大きくて分厚い年表のようなものがあったり、絶版になっていた本を危うく読みふけってしまいそうになってルシアンに怒られたり、しれっと虫の湧いてる本を手渡されたこともあったけど、まあそれは気にしないでおくことにする。
 疲れた体をベットに任せてこのまま寝てしまいたい衝動にかられるけど、そうもいかない。明後日の為に、少しだけ考えたいことがあるからだ。普段より重く感じる体を起こし僕が向かったのは、ベッドのすぐ側にあるわりと大きめの本棚の前。目で本のタイトルを追い、目的の本を手にとる。それは、リベリオさんが書いた本のうちのひとつ。色褪せたシリーズの一巻目である『色褪せた記憶』という本。
 この本の話は、なんというか……読んでいると複雑な気分になる。それは決して不思議な話が繰り広げられているというわけではなく、単なる僕の感想なのだが。本との相性っていうのも勿論あるんだろうけど、彼の作品の中で唯一と言っていいくらいに賛否が分かれているであろうシリーズである。

 色褪せたシリーズのあらすじを簡単に説明するとこうだ。

 町外れにあるとある貴族の家に、記憶を失ったひとりの青年と妖精が姿を表す。その青年は、記憶を取り戻すまでの間、使用人としてそこで暮らしていくことになるのだが、少しずつ記憶が戻っていく中、記憶を無くす前の彼の不審な動向と、この家の住人らの何処かおかしな部分が、この話を狂気という空気に包まれていく。その様子を、あくまでも日常を交えつつ描いており、『どうしてそうなったのか』という答え合わせと、『何が彼らをそうさせたのか』という部分に焦点が当てられている。
 また、主人公はその家の主人でも記憶喪失の青年でもなく、リベリオさんの作品に必ず出てくる「ラック」という人物であることも特徴のひとつだろう。この色褪せたシリーズは、全5巻と上下巻で構成されており、上下巻では記憶喪失の男が貴族の家にくる前の話が綴られていて、『何が彼らをそうさせたのか』という部分が色濃く描かれている。それと、この作品を語るに当たって、外すことの出来ないものがひとつ。
 ルシアンが言っていた、とある花畑だ。

『この世界の何処かに、枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある。そこに足を踏み入れた者は、咲き誇っている花に魅了され、囚われる。そして、自身と周りの環境全てを巻き込み、自ら滅びの道を進んでいく』

 要約すると、その花畑に足を踏み入れると死ぬ。というわけだけれど、その花畑に登場人物の誰かが足を踏み入れたことによって、本来なら何も起きなかったであろうことが起きてしまったのか。それとも、呪われた花畑なんて関係なく起きた出来事だったのか。それは、読み手によって大きく意見が別れる部分となっている。というより、上下巻を読まなければ殆どの人がその呪いによってこの事件が起きたのではないかと思うだろう。
 作中では答えが示されていないからか、どうにも複雑で、読んだ後に色々と考えてしまう構成になっているのがなんとも憎い。
 所謂フィクションではあるんだけど、時々考えてしまう。

 本当に、そんな花畑は存在しないのだろうかと。

 存在しないのならば、あの時、僕が読めてしまったリベリオさんの手記に書かれていたものは、一体なんだったのだろう。気になっているのは、どうして僕があれを読めたのかという点ではない。
 書かれていたあの文章は、一体なんだったのか。
 どうしてリベリオさんはそれを手記に残したのか。
 僕の興味は、そこに注がれていた。ルシアンが一体何を考えてリベリオさんの家に行こうと言い出したのかはよく分からないけど、その答え合わせは恐らく明後日に行われるだろう。何かがあるとは思っていないけど、単純に嬉しいというか、何処かソワソワしてしまっている自分がいる。小説家の住んでいた家に足を踏み入れるだなんて、そんなことはまず起こり得ないと思っていた。
 でも、起きないと思っていたことが起きようとしている。

「取りあえず、寝る準備だけはしておこう……」

 多分、まだ寝られないであろうことは直感で分かる。でもまあ、明日は普通に仕事というか、結局掃除が終わらなかったからまたあの資料室に行くことになってるから、つまり僕の気が早いのだ。
 ひとまず、本を棚に戻す。暫くしたらまた戻ってくるであろうその場所に、ほんの少し後ろ髪を引かれながらも、訪れるその日を待ち遠しく思いながら僕は一旦その場を後にした。
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