01話:名前のない本

 ぱらぱらと、適当に開いたページを眺める。そして僕は、どうしてルシアンが歯切れの悪い言い方をしていたのかをようやく理解した。

「わあ……読めない」
「でしょ? 昔の文字なんだろうけど」
「へー……」

 その文字は、今僕らが使っているものとはまるで違うもの。ルシアンの言うように、昔使っていたそれに見える。所々読めそうな部分もあるが、それでも読めない文字のほうが明らかだった。
 何ページか進めてみても、その文字の羅列は変わることはない。唯一の変化と言えば、僕の好奇心をより掻き立ててくるということだけだろう。
 少し厚みのあるリベリオさんの手記。これだけ分厚い手記の中には、一体何が書かれているのだろうか。そう思いながらペラペラと適当にページをめくっても、そこにあるのは当然見たことのないものばかり。読めないが為に、意味を持たない文字列の集まりだ。

「ん……?」

 ついさっきまではそれだけだったのに、とあるページが僕の目に止まった。

「誰もが、見とれ、る……赤い、花……?」

 そのページが、僕にそう訴えてくるのがよく分かる。決してそこに書いてあるものを読み解いたわけでも、文字を理解できた訳でもない。それなのに、どうしてか理解できるページがそこにはあった。
 窓の側で外を眺めていたルシアンが、僕の方に体を向け問いかけてくる。

「読めるの?」
「いや、読めるっていうか……」

 ルシアンの問いに、どうやっても答えを濁すことしか出来ないでいた。何故ならそれは、読めたのではなく解っただけに過ぎないのだから。
 僕は、誰に言われるでもなくそのページに書かれていることを口にする。それはまるで、窓から流れてくる風に促されているかのようだった。

 ――誰もが見とれる赤い花。

 狂ったかのように咲き誇るその花に心奪われると、人は身も心も少しずつ狂っていく。そして、身の回りにいる人間すら狂わせていき、全てを無へと還すかのように、関わった者は謎の死を遂げる。
 そんな噂が蔓延る花畑があった。
 噂というのは不思議なもので、まるで枝分かれするかのように色々な解釈がなされ、そしていつしか、真実とはかけ離れたものが真実と呼ばれるようになる。噂なんてそんなものだと私は思っているし、そもそも信憑性がないものを信用する気は毛頭ない。
 ――だが、ある日突然、ひとりの男が私の前に姿を現した。
 うすべ笑いを浮かべた男は、私にこう述べる。

『俺は、噂の真実を知っている』と。

 私は、その言葉に酷く困惑した。それは何故か?答えは、至極簡単で単純だ。
 ここにいる人間は、その男が来る遙か前から既に狂っていたのだから――。

 まるで小説の一節のようなそれ。これが、僕が読めたそのページも全てだった。

「……読めた、ってことだよね?」
「いや……うーん?」

 確かに読めた。でも多分、そうじゃない。この場合の多分という言葉にどれだけの意味があるのかは分からないけれど、何か別の理由があって読めた気がする。ということだけは確信として僕の中に存在していた。
 読めたことへの疑問とか恐怖なんてものはまるでなく、ただただ不思議でしょうがない。他のページは読めなかったはずなのに。どうしてここだけ読めてしまったのだろう。

「花畑って、よく言われてる『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑がある』ってやつ?」
「どうだろう……。リベリオさんの手記ならその可能性は高いとは思うけど、これだけじゃ、そうとは言い切れないなあ……」
「ふーん?」

 信じているのかいないのか、ルシアンの口からは適当な言葉が僕へと向けられる。

「でもこれ、僕何処かで見たことあるような……」
「あー……まあ、小説家の手記っていうんなら、そういうのが書いてあってもおかしくないかもね」
「そ、そうだね……」

 ルシアンが何処まで本気にしてるか分からないけれど、こうして相手の言うことを真っ向から否定しないところは、昔から変わらない。そのいつもの様子に、少なからず僕は救われていた。

 彼の言う『枯れることなく永遠に咲き続ける花畑』というのは、この世界に昔から伝わるもので、簡単にいうなら都市伝説というものがそれに当てはまるのかも知れない。正確に言うと、『足を踏み入れると呪われる』の部分が抜けているけど。
 リベリオさんの色褪せたシリーズは、その花畑を題材としていると言われている。言われているというか、そういう伝記のようなものは見つかっていないから、リベリオさんの小説から広まったんじゃないかというのが、一番有力な説だ。

「そういえばさ、そのリベリオさんの家って、街から少し外れたところにまだ残ってるんだよね」
「え、そうなの?」
「うん。立ち入り禁止になってるところあるでしょ? あの辺りって、一応俺ん家持ちなんだけど、そこの奥にまだ残ってるんだよ」
「……それ、僕に言って大丈夫なの?」
「別にいいんじゃない? ほぼ放置っていうか、管理する気まるでないみたいだし」

 それは管理者としてどうなのだろうか。というより、何百年前の家がそのまま残っているというのも普通に考えれば不自然だし、何よりリベリオさんの家がこんなに近くに本当にあるのだろうか? そんな疑問の数々が口から零れそうになる。でも、だからといってルシアンが僕に嘘をつくメリットがどこにもないし、辛うじてそれらを言うことはしなかった。

「明後日図書館休みだし、暇ならリベリオさんの家にでも行く?」
「ええっ、そんな感じで行っていいの? 僕部外者なんだけど……」
「いいんじゃない? 目ぼしいものは大体ここにあるだろうし。それに、言っちゃえば今となってはただの廃墟だよ」

 そう言われてしまえば確かにそうだけれど、リベリオさんの家なんてかなり気になるし、とても行きたい気持ちはある。でも、なんだろう。ルシアンはこういうことには余り興味がないのか、わりと適当な態度を取ることが多い。リベリオさんの手記を渡された時もそうだったけど、こういうのって、部外者の僕に簡単に言っていいものなのだろうか。
 いや、普通に考えたら良くはないというのは分かる。下手したら怒られるどころじゃすまされない案件だろう。……なんていう綺麗ごとを思いはしたものの、一度芽生えた好奇心というものは中々抑えることが出来ないから不思議なものだ。
 若干の後ろめたさもあるけど、管理者の息子が行ってもいいって言うのなら、最悪何かあっても僕の責任にはならないだろう。と、思う。まあ僕が無理やり案内を頼んだとか言われたら即終わりだけど、その可能性は限りなく低い。一応それなりに長い付き合いだから、そう言える自身はあった。

「……行ってもいいなら、断る理由はないかな」
「じゃあ決まりで。それより掃除だよ掃除。この調子だと、明日もやらなきゃだし」
「あ、ああそうだね。……っていうか、この状態を二人で掃除するっていうの、かなり無理があると思うんだけど……」

 ルシアンは、どちらかと言うと掃除のほうに思考がいっているようで、そこら辺に転がっていた雑巾を手にとる。動き出すルシアンをよそに、僕は未だリベリオさんの手記から目を離すことが出来ないでいた。それを見かねたのか、ルシアンはため息混じりで僕に話しかける。

「探せば、他にも面白そうなのあるんじゃない?その日記だって、この前オレがたまたま見付けただけだし」
「え、本当?」
「資料室っていうより、保管室みたいなもんだしね。だから、見るのはいいけど掃除しながらにしてよ。俺、休み跨いでまでここ掃除したくないから」
「そ、そうだね……」

 つまるところ、気になるのは分かったから掃除をしろということのようだ。まあここに来た目的は掃除だからそれは分かるんだけど、こういうのルシアンは気にならないのだろうか。切り換えが早すぎないか。まあ、管理者の息子だから昔からこういうことには多く触れてきたんだろうし、そう思えば無理やり納得することは出来る。僕はあくまでも手伝いでここに来ているだけだし、ルシアンの言うことはそれなりにちゃんと聞いておいたほうが色々と得策だろう。……やっぱり行かないとか言われたら困るし。

「帰ったら、色褪せたシリーズ読み返さなきゃ……」

 という言葉が口から零れてしまうのだから、恐らくこの瞬間から一日が終わるまで僕は上の空だろう。その言葉をリベリオさんの手記に溢しながら、僕は手に持っているそれをゆっくりと閉じた。
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