09話:クチナシが馨る

 後日、学校を終えた俺は独りでに帰路を歩いていた。がしかし、家に帰るだけなら通ることのない道を進んでいる。
 茜色に染まる空。いつにも増して主張しているように感じた空の色も今の俺には目に入っていないし、近くを通っているであろう車の音なんて聞こえない。本当に辺りには誰もいないのか、それとも気付かないうちにすれ違っているのかもよく分からないかった。
 図書館へと向かう道を進んだのは、雅間 梨絵らしき人物に再び出会って以降はじめてのことだ。
 今の俺にとって、向かっている先の位置づけは学校から図書館へと続く道ではなく、とあるひとつの事故のあった場所という認識だ。本当ならこれから先一度たりとも足を運びたくはないと思っているのだけれど、その思いと行動がどうしても結びつかない。行かなければならないと思ったわけでもないというのに、どうして家に一直線に歩を進めなかったのだろう?

 いつにも増してひどく静まり返っているように感じる俺を取り巻く空気には、確かにほんの僅かながらに疑問は感じていた。それが一体何を意味するのかというのは、恐らく宇栄原だったらすぐに理解が出来たのかも知れない。でも俺は、それに気付ける力のないごく普通の人間だ。この前宇栄原の言っていたことを受け流したわけでは決してない。いつもの俺だったら、こんなことは決してしない。そう、決してだ。
 一度車が大きなエンジン音を立てて横を通り過ぎたのを皮切りに、ようやく今いる場所が何処なのかというのを意識をした。辿り着いたのは、俺のよく知っている場所。交通事故のあった信号のすぐ側だ。誰もいない道路、信号が移り変わる中、俺は青色のそれをただ眺めていた。そうして、一体どれだけの時間が流れたのかは分からない。きっとそれほど時間は経っていないのだろうけど、とにかく静かな空間の中だったと認識している。
 刹那、上着のポケットから振動が伝わってくる。しかし、それに手をかけるにまで至らなかった。一体何故か?

 ――誰かが、俺の名前を呼んでいたのだ。
 今、俺の目の前には誰もいない。だから後ろを振り向いた。そうだ、俺は確かめたかったのだ。俺を呼んでいたのであろうこの人物は、どうして今もここにいるのかを。今のこの状況だからこそ、『本当に、ここにいたのが雅間だったのか』というのを。
 ゆっくりと、その誰かが近付いてくる。一瞬、それを避けてしまいたくなった自分を必死に押し殺す。それは絶対にしてはならないという直観だった。そしてその行為は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていたのだろう。
 何かを言いながら、とある某人が俺の手を取る。でも、一体なにを喋っているのかがよく分からなかった。何も聞こえなかったと言った方が正しいかも知れない。
 俺の手を取ったまま、そいつは青信号の歩道へとゆっくりと足を向けた。今思えば、この時ちゃんと拒めば良かったのだ。そうすれば、少なくともこうなる事態は免れたかも知れない。……いやどうだろうか。俺しかいないこの状況なら、結果は恐らく同じだったに違いない。最も、今も振動をすることを止めない携帯を手にしていれば、話は別だったのかも知れないが。

 手を引かれるがまま、俺の足は動いていた。信号は青だった。だから俺は止まらなかった。右から来ている車にも、さして注意は払わない。だって止まると思っていた。車側の信号は赤なのだから。しかし、この状況がいかに異端的であるということを、この時の俺はすっかりと忘れていたのだ。気付けるはずだったのに、気付いていたはずなのに、されるがままだった。

 ――何かがぶつかるような大きな音が耳元で聞こえたということだけが、これが現実であるということの象徴のようだった。身体に衝撃が走ったのは、車の正面が俺に突進してきた時だ。この状況で、俺の足を止めることが出来たのは右から走ってくる車しかいない。そこから先はあっという間だった。俺を乗り上げてきたのか曳き続けたのか、どうやらさっきまで足を踏みしめていた場所からは大きく離れた場所に居るらしい。べったりとしたものが顔にまとわりついているということと、上手く呼吸が出来ないということ意外はよく分からない。身体を起こすことも、腕を動かすことも到底叶わなかった。
 辛うじて見えている範囲、道路には俺がまき散らした血と思われるものが散乱しているようで地面が普通の色ではなくなっていた。こういう時、意識が朦朧としている時は痛みを感じないとかいうのを聞いたことがあったけど、あれはどうやら本当らしい。
 少しずつ、しかし確実に意識が何処かへと落ちていく中、既によく視えていないその目で俺は必死に俺の手を引いた誰かを探した。すると、歪む景色に同化するように今までは見つけることの出来なかった人物がようやく姿を現した。足先を捉えて、なけなしの力でゆっくりと視線を上へと持っていった。
 何処かで見たことのある制服。何処かで見たことのある姿。それが、明らかに俺を見据えているのが嫌になるほど目に付いてしまった。でも、そいつの顔が霞んでよく見えない。一体どういう顔をして俺のことを眺めているのかも、それがさっき俺の手を引いた人物と本当に同一なのかということすらも、分かる手立てが何処にもない。

 どうしてか、目の前の景色が酷く赤かった。それはこの時間だから起こる夕焼けによるものなのか、それとも俺の目が赤く染まっているからなのか。……なにもかもが、分からないままだ。
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