第8話:蔓延る矛盾

 ――何処かから、水の流れる音が聞こえる。
 ゆっくりと目を開けると、目の前に広がる何か。そこは、レズリーの庭であるというのがすぐに分かった。ただ、それはさっきまでオレがいた場所とは少し違う。一見同じではあるけれど、モノクロの景色に、隅に黒いもやみたいなものがかかっている。それは、断片的な記憶が頭に過った時と少しだけ似ていたけど、それとも違うもの。夢、という単語が一番近いのかもしれない。
 レズリーの庭から聞こえたそれは、水しぶきをまといながら、光を纏ったかのように輝いていた。

「わあ……っ」

 噴水が巻き起こすそれらを見た女の人……いや、母さんの口からは、感嘆の声零れていた。

「君達が見たいって言うから、ちゃんと直しておいたんだ」

 足早に近寄っていく母さんのその後ろをついてくる小さなオレは、近づくや否や、当たり前の様に母さんの足へと手を伸ばす。オレの目線に合わせるようにしてしゃがむ母さんは、とても楽しそうに見えた。それを遠巻きに眺めている父さんは、驚きのような呆れにも近い声で、レズリーに話しかけているのが見える。

「マジで直したのかよ? なんか悪いな……」
「噴水を直しただけでそんな顔されてもな……。それに、見たいと思ってくれる人の為に動いた方が、噴水だって幸せだよ」

 どうも腑に落ちない、といった様子の父さんだったけど、オレと母さんを視界に入れた時の表情は、とても嬉しそうだった。

「ねえカルトっ、噴水よ噴水!」
「おいおい、あんま近づくと濡れるじゃんか。程々にしておけって」
「だってあなた、こんなにも綺麗じゃない。それに、庭に噴水があるお家なんて、中々ないもの」
「あーまあ……、そうだよなぁ」
「ほら、シントも触ってごらん?」
「ふんすい、きらきらー」

 そう、こうして俺は、母さんに抱っこされてその噴水の水に触れた。初めて触れたそれは冷たくて、きらきらしてて……。皆と一緒にいるっていうことが、純粋に楽しかったとか、きっとそんなことを思っていたのだろう。それは、幼い頃のオレの顔を見れば明白だった。
 だけど、これはオレが今見ている夢の中の話。こんな光景なんて、きっともう、見ることは出来ないという事実が、どうしてもオレを縛り付ける。
 どうしてオレらが、こんなにも当たり前の様に貴族の家にいるのかは分からない。接点のないはずの市民と貴族。そのふたつの要素がどうやって絡み合ったのか。それを知る時が、いつか来てしまうのだとしたら。オレは、それをちゃんと受け入れることが出来るのだろうか。父さんと母さん。そしてレズリー。それと……。

「みなさあん、お茶が入りましたよー」

 誰かの声が、少し遠くから聞こえてくる。

「ああ、ありがとう。ティシーとトールも座ってよ」
「いいんですか? じゃあ、お邪魔しちゃおうかな」
「私は遠慮します」
「なんだトール、反抗期か?」
「この歳で反抗期なわけないじゃないですか。私は忙し……」
「はいはい、そういうのは良いから。たまにはさー、シントじゃなくて俺の相手してよー」
「……まあ、いいですけど。じゃあ。お手柔らかにお願いしますね」
「いや、別に喧嘩するわけじゃねーからな?」

 ああそう。レズリーの家にいたメイドと執事が、オレ達が来るたびにお茶を持ってきてくれたんだっけ。トールは気さくな人だったけど、何かと理由をつけてすぐ何処かに行こうとするところを、よくオレや父さんに止められていた。ティシーはと言うと、穏やかでまったりとした話し方が印象的で、よく母さんと話していたのを覚えている。……覚えているというか、今見えている光景が、まさしくそれだった。
 テーブルに置かれた、トールが淹れてくれた紅茶にスコーン。それと、ティシーが作ったブルーベリーとオレンジのジャム。その日は、いつもの皆が庭に揃っていた、はずなのだけれど。
 この日はいない誰か。もうひとり、たまにレズリーの家に来ている人物がいたようなそんな気がするのだけれど、それはきっと、俺の考え過ぎなのだろう。でも、これら羅列された記憶の中で確信が持てることがいくつかある。俺が幼い頃。レズリーの家に来たことがあるということ。レズリーとは、家族ぐるみで進行があったということ。あとこれは、別に関係のないことだけど……。
 噴水がいやに綺麗だったということ。それだけは、紛れもない真実だった。
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