第8話:蔓延る矛盾

『ねえレズリー、噴水は直さないの?』

 ……どこかから、また誰かの声が聞こえてくる。

『ああ……直すのに少し時間がかかるみたいだから、そのままになってるんだ』
『そうなの……』

 あの時、ここに来る前に広場の噴水のところで聞こえた女の人の声。それと全く同じものだ。それともうひとり、恐らくこの声はレズリーだろう。薄暗いもやが段々と晴れていくように、ふたりのいる場所が次第に鮮明に見えてくる。

『噴水、好きなの?』
『好き、というか……』

 そして、この前よりもはっきりと見えた景観は。そこは、明らかに今オレがいる、このレズリーの庭だ。ふたりは、整備された庭に似つかない廃れた噴水のそばで、談笑しているようだった。

『噴水なら広場にもあるんだし、なんだったらカルトと行ったらいいんじゃないかな?』
『おいおい、俺が何処にも連れて行ってないみたいな言い方止めろよなー』

 それらに交じって、明らかにそのふたりではない声が、どこかから聞こえてくる。多分、カルトと呼ばれた人物の声だろう。テーブルのほう、椅子に座って苦笑いを浮かべながら、ティーカップを手にしている。その様子は、何処か様になっているように見えた。

「ですが、彼は市民ですよ? 使う使わないは置いておいて、魔力が込められているものを持っているというのに、我々が見過ごすわけにはいかないと思いませんか?」
「市民、ねえ……」

 現実と、そうじゃないものが混ざる。アルセーヌの声がするということだけが、辛うじて俺がちゃんと現実にいるということの証明だったけど、頭の中にある何かと現実、全てがぐちゃぐちゃになっていく。そうなった先にあるもの。俺の頭の中をかき乱すのは、一体誰だ?

「その市民と貴族とかいう肩書に、一体なんの意味があるっていうの?」

 その正体は……。

『ふんすい、うごかないの?』
『そうだね。……動いてるところ、みたい?』
『うんっ』

 カルトと呼ばれは男のすぐそばにいた、小さい男の子。いや、小さい男の子という表現は余り望ましくないかも知れない。

『じゃあ、皆の……いや、シエルとシントの為に、近いうちに直しておかないとね』
『おい、俺は無視か?』
『だって、カルトは見たくないみたいだから』
『んー……まあ、お前の家の噴水がどうだろうと別に興味はないわ』

 それは明らかに、幼い頃のオレだったのだ。

「……そういうことじゃないでしょう」

 アルセーヌの声が、夢見心地だった俺の意識をはっきりとさせた。その声は、苛立ちに似た何かが上乗せされているようだった。

「貴方、魔法を使うということがどういうことか分かっていない訳じゃないですよね?」
「……さっきからアルセーヌはおかしなことばかり言うね」

 終始気だるそうに受け答えをするレズリーだったけど、アルセーヌにゆっくりと微笑み返すその姿からは、狂気のような何かが見え隠れしているのが、オレですらも分かる。あの時、ここに来た時のレズリーと、さっき見たいつかのレズリーからは考えられないもの。もっと言うなら、見た目だけが同じの、中身は別人なのではないかとさえ感じるものだった。

「然るべき人間に返すものを返した。ただそれだけなのに怒られてしまうだなんて、たまったもんじゃないね」

 一貫して、レズリーは「ブレスレットを然るべき人間に返しただけ」と主張している。何かを言いたげに、眉をひそめたアルセーヌだったが、その何かを言うことはしなかった。
 ふと、庭の壁の近くに置かれている噴水が目に入れる。そういえば、この中で唯一あの噴水だけが汚れている。整備がされていないようだけど、それはつまり、結局噴水は直らなかったということなのだろうか?

「……噴水が気になる?」

 声をかけてきたのは、他でもないレズリーだ。

「あ、いや……。噴水だけやけに汚れてるから……」
「ああ……昔はちゃんと動いていたんだけどね。整備が行き届かなくて、今は動いていないんだ」

 その言葉、聞いたことのあるようなそれを合図に、また何かの一場面がオレの頭を過った。

『君達が見たいって言うから、ちゃんと直しておいたんだ』
『マジで直したのかよ?なんか悪いな……』
『噴水を直しただけでそんな顔されてもな……。それに、見たいと思ってくれる人の為に動いた方が、噴水だって幸せだよ』

 噴水の近くには、シエルと呼ばれた人と子供の頃のオレがいる。つまり、側にいるシエルと呼ばれた女の人と、カルトと呼ばれた男の人。ふたりは、オレの父さんと母さんなのか? 何かを喋っているその様子は、とても楽しそうではあったけど……。沢山の疑問が、オレの周りを駆け巡る。
 忘れていた家族の記憶。それが例えば、一部分だけ抜け落ちていたとか、余りにも昔のことだったからということで片付けられるのならそれでいい。普通に考えれば、そう思うのが常なのだろう。でも、本当にそうなのだろうか? こんな、何処にでもありそうな日常の出来事なら、いくら昔のこととは言え、ひとつやふたつ覚えていてもいいんじゃないか? それ以前に、記憶はおろか、父さんと母さんがどんな人だったのかすらも覚えていない。どうして、何も覚えていないんだ?

「……シント君?」
「え、あ……なに?」
「いや……」

 アルセーヌに名前を呼ばれ、一瞬にして現実に引き戻される。オレを見るアルセーヌの顔は、確かにオレを心配しているような様子だったけど、それとは違う、何か違う感情がそこに存在しているようにも見えた。
 断片的な記憶のようなもを振りほどくようにして、徐に席を立つ。足は、自然と噴水のほうに向かっていた。さっきの、断片的な記憶のようなもの。それによると、どうやら噴水は直したみたいだけれど、どうしてここにあるそれは、廃れたままなのだろうか今、オレがいるこの場所が、レズリーがいなくなる前の状態だったとするなら、噴水はちゃんと直っているんじゃないのか?
 どうして、噴水だけ何事もなかったかのように壊れたままなんだ?

「……あのさ」

 ほんの少しの沈黙が、静かにオレの口を動かした。

「オレって、前にこの屋敷に来たことあるの……?」
「……どうして、そう思うの?」
「いや……何となく」

 もしオレが、本当にここに来たことあるのなら。さっきからオレの頭に蔓延る断片的なものが、過去の記憶として当てはまるのかも知れない。だけど。

『おいおい、あんま近づくと濡れるじゃんか。程々にしておけって』

 なんだ?

『だってあなた、こんなにも綺麗じゃない』

 なんなんだ?

『ほら、シントも触ってごらん?』

 知りたくないって言ってるのに。
 なんてことない、ただの日常の記憶なのかも知れない。だけど、どうしてオレの意思に関係なく思い出さなきゃいけないんだ?どうして……。どうしてオレは、こんなにも過去のことを思い出したくないだなんて思うんだ?
 そういえば、最初からそうだ。噴水で女の人の声を聞いた時も、変な空間を経てここに来た時も、ブレスレットに魔法が込められていると言って、アルセーヌに出会った時も。どうしてか、オレは何も知らないと、何も知りたくないと完全に拒絶をした。考えることを放棄した。もしそれが全部、オレの知らない過去に関係していることだからだとしたら? そうだとするなら、オレがオレの記憶を否定するのには十分な、理由じゃないか。

「まずいな……」

 何かに危惧しているかのようなその声が、一体誰のものかなんていうことは、もうどうでもいい。騒がしく、何かが蠢くのを感じる。何か得体の知れない存在が、オレを取り巻いていく。身体にまとわりつくような感覚は、今日、レズリーにあう前に感じた時のそれとよく似ていた。
 優しく靡いていた風が、強風へと変わっていくのが嫌になるほどよく分かる。それは、魔法が暴走することの表れだった。

「シント君……っ!」

 誰の声かも分からないものが、オレを呼ぶ。もう、何も聞きたくない。頼むから、ほっといてくれ。

「……っ、落ち着かないか」

 誰かに強く手を取られ、少しだけ我に返る。自分の手によって塞がれていた視界は、誰かによって一瞬にしてクリアになる。でも、それ以上何も見たくないと拒絶しているかのように、どうしようもない程に手が震えているのは、誰が見ても明白だった風になびく髪の毛が視界の邪魔をする。それが酷く鬱陶しかった。

「何か、嫌なことでも思い出したのかい?それとも……」

 目の前に立っていたのはアルセーヌ。それはまるで、いつかの時と同じように、何処か寂しそうな笑顔を張り付けているように見えた。

「それともキミは、真実を知らずして消えてしまっても構わないとでも言うのかい……?」

 アルセーヌの言っている意味が、今のオレにはよく分からない。だけど、今オレを取り巻いている全ての事柄に関係しているであろうということは、どうしてか理解が出来た。
 視界がブレる。濡れた頬が何を意味するのかなんて考えることも出来ないまま、オレの視界からアルセーヌが消えていく。目の前は、完全に暗闇に包まれた。
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