08話:クチナシの戯れ言

 あれから一体どれくらい経った頃だったろうか。相谷と出会う前のことだったから、四月の始業式が始まるよりも前のことだったと思う。その日も、俺は図書館にいた。
 先ほどまで視線は手元のノートに向けられていたはずなのに、その目標物は小さな音を立ててテーブルの上で閉じられていく。今日は図書館に真面目に勉強をしに来ていたのだけれど、何ていうかこう、とにかく疲れた。それくらい集中していたということなのかも知れない。しかし集中力が切れてしまった状態で無理やり進めたところで効率は悪くなるだけだし、ここはひとつ席を立つことにした。特に何が入ってるわけでもない鞄の中を漁り、財布を探る。なけなしの金しか入っていないそれと、たまたま持っていたミルクキャンディーを手に持ち席を立った。

 本棚で作られた適当な通路を通り俺が向かったのは、自販機とテーブルと椅子だけが置かれているいわゆる休憩スペースだった。一応壁のような何かによって囲まれてはいるけど、外から様子が見えるようになっているため、自然と歩きながらそれらが視界に入っていく。人が多いところになんてそう長居はしたくないというものだが、座れないくらいに人がいるなんていうことはそうあるわけではない。図書館なんてそういうものだ。今日も、幸いに人は余りいないらしかった。……がしかし、ひとつだけ問題があった。見覚えのある某人がそこいたのだ。
 相手はどうやらまだ俺には気付いていないようだったから戻ろうかどうしようか迷ったけど、ここまで来て戻るほうがわざとらしくて嫌らしい。しょうがないから、オレはその誰かがいる休憩室のドアを開ける。ガチャリという音が、何かを読んでいるらしかったそいつの顔を上げさせた。

「はっ……」

 なにか、見てはいけないものを見てしまった時のように声を上げたのは、俺ではなく俺に視線を向けていたひとりの人物だ。

「あ……こ、こんにちは……」

 雅間 梨絵。確かそんな名前だっただろうか? 生憎それくらいの記憶しか持ち合わせていなかったが、知り合いと言うほどでもないからさして気にすることでもないだろう。

「どうも……」

 それにしても、俺の口から出てくる言葉はなんて愛想のな欠片もないのだろう。まあそんなことはいつものことではあるが、もう少しどうにかならないものか。しかし、どうにかならないだろうか等と思っているうちはどうせ改善しない。
 雅間の近くにある自販機まで寄り、財布から幾らかを手に取り適当に水を選んでボタンを押す。自販機からペットボトルが落ちる音は、ある程度静かな休憩室によく響いていた。水飲んで飴を含んだらすぐに出よう。それが一番最善だ。そう思いながら取り合えず水を口に含む。しかし、ふと視界に入った雅間の持っている本がいけなかった。
 いくつかの花の写真が並べられているそれは、どうやら花の育て方の本らしい。その本が視界に入ったせいで、俺に芽生えたのは一種の好奇心だったのだろう。本に熱い視線を寄せる雅間が、一体なんの花についてそんなに熱心に読んでいるのか、単純に気になったのだ。
 俺の視界に入ったのは、白い花の写真だった。それを、俺は何処かで見た記憶があった。こういう類のものを見る機会なんてそうそうない。安直に思いつく場所と言えば、宇栄原の家くらいだろう。随分昔の話だが、普段は入荷しない花が入ってきたらしく大慌てだったという話を店先で聴いたことがある。確かその花の名前は――。

「クチナシか……」
「え……?」
「あ、いや……」

 驚いた様子で俺のことを見る雅間を見て、我に返る。いや俺は馬鹿か? 口に出すつもりは毛頭なかったのに、思わずその花の名前が漏れてしまった。そのお陰で、ふたりの間に妙な空気が流れはじめていく。一刻も早く何も言わずに今すぐここから離れたい。そんな衝動に思考が追い立てられた。

「か、神崎さんってお花好きなんですか……?」

 しかし、それも雅間が言葉を発したことによってそうすることが出来なくなってしまった。

「……別に好きではないけど。知り合いに詳しい人間がいるだけ……」

 そうなんですね……と、一応納得はしたようで本に言葉が落ちていく。雅間はそのまま話を続けた。

「私の家、毎年クチナシの花を育てていて……ま、まだ先の話ですけど待ち遠しくて」
「ふーん……」

 今時、自分の家でちゃんと育ててるなんて珍しい。関心にも似たそれが、俺に適当な返事をさせた。
 クチナシというのは和名で、別名ガーデニアとも呼ばれている。あの甘く香る匂いが特徴的だけど、それに誘われてやって来る虫も多く、控えめに言っても初心者向けの花ではない。毎年育てているというのなら、きっと手馴れているのだろう。

「はっ、いや……すみません……! なんかどうでもいいことを……」

 急に我に返った雅間が勝手に反省しはじめた。それはまるで、さっきの俺のようだった。完全に俯いてしまって、俺を視界に入れないようにしているらしい。この場合、俺がさっさと出ていった方が無難だろうか? いやしかし、無言で出ていくのは流石に忍びない。だが、このままここに居るという方がもっと無理だ。

「……これ」
「え?」

 何を思ったのか自分でもよく分からないが、俺が差し出したのは持ってきたブツ。飲み物と一緒に食べようか、なんて思って持ってきたミルクキャンディーだ。それを、俺は雅間に差し出していた。当然雅間は驚いていたし、それを取ることはしない。だから、テーブルに置いてあるその本の上に雑に投げた。

「……じゃあ」

 それだけ言って、俺は視界から雅間を消した。足早に、かつ出来るだけ何も考えないようにそこから逃げた。果たしてこの時雅間が一体どんな顔をしていたのか、俺には想像もつかない。
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