07話:クチナシは回視する

 図書館の自動ドアが開く。その瞬間から既に静寂は蔓延っていた。集中すれば別に何とも思わなくなるが、来て早々この空気感というのはやっぱり少々落ち着かない。座る場所だって俺が座りたいところが毎回空いているとは限らないし、環境音だけでも気を使ってしまう。そして何より、本を借りに来ている訳ではないからよりそう思ってしまっているのかも知れない。
 図書館まで勉強をしにきたといえば聞こえはいいが、わざわざ図書館にまできて、と言われればそれまでだろう。それくらいちゃんとした理由なんてものは俺にはなかった。

 当たり前に置いてある無数の本棚には目もくれず、座れる場所を探して歩く。決まった場所があるというわけではないが、大体窓際にあるカウンター席のような場所で空いている席を探すのが常になっている。今日はそんなに人がいないのか、思っていたよりも空席が目立っており、幸運なことに窓際の席はいくつか空いていたようだった。
 適当なところに座り、荷物を乱雑に置く。館内に入ってしまえばマフラーは用済みだった。席を確保して早々、鞄からいかにもな勉強道具をいくつか取り出していく。学校から出ている宿題とかいうのは出来るだけ早々に済まして、あとは適当な本でも手に取ってそれとなく読む。それがいつもの過ごし方だ。
 正直宿題自体は別にどうってことはなく、集中力が途切れなければ何時間とかからないものばかりだ。大方の場合、本を読んでいる時間のほうが圧倒的に長いだろう。

 先にやらなければならない事柄を済ませれば、左手に持っていたペンは手から離れ一時の休憩時間に入る。ずっと座っていたせいもあって、固くなった身体がいい加減悲鳴を上げそうだった。

「はあ……」

 何に対するものでもない溜め息が、ノートの上に落ちる。いい加減陽が傾いてきたが、まだ帰るというには少々早い。
 余った時間は適当な本でも読んでいこうか。そうして俺は席を立った。別に読みたい本があるわけではないが、暇を潰せれば正直何だっていい。そうして目についた先にあったのは、法律書のある本棚だった。地方自治法や憲法資料集といったものは勿論、税制改正について書かれたものも数多くある。別に法律に興味はないのだが、実はこの辺りは大体読みつくしてしまっている。
 だからどうという訳ではないが、父がそれ関連の仕事をしているせいで家にそういった類の本が幾つかあって、たまたま手に取って読んでいたらいつの間にか読破してしまっていたのだ。もちろん一日二日で全てを読み切ったわけでは無く、それなりに時間を要したけれど。
 何か他の本、と思い別の本棚へ足を運ぼうとした時だった。なにか、重いものが落ちる音が耳に入った。静かな空間には少し似合わない音と言っていいだろう。

「うわっ……」

 女性の声と、ドサリと響く何かが床に落ちる音。それが何を意味するのかは何となく察しがついたが、まだ手に取っていなさそうな本を適当に手に取り、音のする方へと足向ける。いや、単に座っていたのがそっち側だったから向かっただけなのだけれど、自然と音のした方へと身体は向いていた。

「ああ……」

 そして案の定、床には何冊かの本がぶちまけられていた。
 情けない声が落ちている本へと被さるのが聞こえてくる。別に見て見ぬふりをしても良かったのだけれど、そうすることを俺はしなかった。
 何故ならそれは、俺の知っている人物だったからだ。
 知っている、というのは少し語弊があったかもしれない。俺は目の前にいる人物が一体どういう存在なのかは知らないし、名前だって知らないのだ。知っていることと言えば、たまに図書館で見かけるくらいだというのと、どうやら通り道が途中まで同じであるということ。そして、隣町の制服を着ているということくらいだ。本当に、なんかよく見かけるなくらいの認識である。この日も当然、そんな感じだった。例えばそう、駅のホームで毎日のように見かける知らない誰かと偶然喋ってしまった時のそれと同じ感覚だろう。

「あ、ありがとうございま……」

 本を落とした張本人は、俺を見るや否や驚いたように目を見開いていた。

「あ、えっと……す、すみません。五月蠅くして……」
「いや……」

 簡素な言葉だけを残して、俺は早々にその場を去った。特別話すことがあるわけでもないし、何か用があったわけでもない。
 俺はただ、今目の前にいる人物が今日は来ているのだろうか、なんて思っていただけ。本当に、ただそれだけだった。

 これが、今はいない雅間との出会い。
 出会いというよりは、俺と雅間が初めて会話を交わした日。
 この時の俺に、それ以外に別の感情があったのかと聞いた場合、「それはない」なんてはっきりと言っていただろう。今だって、恐らくそう答えるはずだ。

 ……手にした本が一度読んだものだったというのに気付くのは、席に戻ってからだということはまた別の話である。
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