06話:クチナシに視えたもの
この歳で何を言っているのかとか言われそうだが、時間の流れというのは本当に早い。早くて、早すぎてついていくことさえも困難だ。だからと言って、その時間とやらが誰かを待ってくれるだなんて優しいことはしてくれない。自らの足で進む意外の道なんて存在しないのだ。
まるで目に見えないそれに追いつこうかとでもいうように、俺の足は勢いに任せていつもより早く動いている。こうしている間も時は流れていっているはずだ。ただ、今から行く場所は恐らくあの時を境に時が止まっている。そんな気がしてならなかった。だから足早になってしまうのも致し方ないというものだろう。
俺はふと、左手に持っている紙袋の中身を確認した。小さくまとまった花束の主役は、ギリギリこの時期に咲く花だとは呼べないクチナシの花だ。白く眩い花弁は確かに綺麗だが、それに付随するどこか寂しい雰囲気。そして強く香る甘い匂い。少し前まではその匂いも悪くないなどと思ったこともあったけど、今となっては出来るだけ視界に入れたくないとさえ思ってしまうし、その匂いから逃げたくなってしまうくらいには敬遠している。
だから、今となってはよっぽどの理由がない限り視界に入るなんてことは起こらない。そのよっぽどの理由というのが、今日クチナシの花を買ったそれに当てはまるわけだ。
信号が点滅しているのが見えて、俺は足を止めた。たどり着いたのは、俺が今日来なければならなかった図書館へ続く道。とある人物と俺が必ず立ち止まる、なんの変哲もない道路だ。チカチカと信号が点滅しているが、横断歩道を渡る気はさらさらない。俺はただただその場に立ち尽くしていた。
何度も切り替わる信号を前に、俺はやっと体を動かし始める。紙袋から花の束を出す際に発せられた擦れる音が、酷く耳についた。手にとったクチナシの花。俺はそれを、すぐ側にあるガードレールの下へと置いた。その時だった。
「神崎さん……?」
後ろから、聞き逃すはずのない某人の声が聞こえたのだ。嫌になるくらいに頭の中を反響するのがよく分かる。思考を巡らせるよりも遥か前に、俺は振り向いていた。
「やっぱり神崎さんだ……!」
その声の主は、雅間 梨絵(みやま りえ)という、俺とは違う制服に身を包んだ人物だ。
嬉しそうに声が弾んでいる様子は、俺の知っているいつものそれとかなり酷似している。そう、"極めて似ている"というだけに過ぎないのだ。
「……お前、なんでここにいるんだ?」
「なんでって……。図書館に行く道だからに決まってるじゃないですか」
首を傾げる雅間は、いつものそれと全く同じだった。そんな問いなんてしている場合ではないというのに、どうしてか口は勝手に動き、言う必要のなかったことを溢してしまう。全く暢気なものだ。
「神崎さんこそ、どうしてここに……?」
「……図書館に行く以外で、こんなとこ通らない」
「じゃあ、私と一緒ですね」
などと言いながら、笑顔を浮かべる彼女が目の前にいる。そうじゃないだろ? と、思わず口にしてしまいそうな程に冷静な自分と、何処かから漂ってくるまるでクチナシの花のように甘美な香りが、俺の思考を酷く鈍くさせる。どうして俺は普通にこいつと話しているのか、どうしてこいつは目の前にいるのか、全く見当がつかなかった。
「それなら、早く図書館に行きませんか? 余り遅くなってもいけないですし」
疑問符が頭から離れなくなっている隙をつくかのように、雅間が俺の手を取る。氷のように冷たい温度が、一瞬にして冷静さを取り戻させる。気付けば、雅間の手を振りほどいていた。
「神崎、さん……?」
困惑した雅間の顔。それよりも、俺はきっと酷い顔をしているだろう。おおよそ見当がついていたにも関わらず、俺は困惑した。この時期であるなら当たり前に流れてくる汗。それが、重力に負けてゆっくりと落ちていくのが分かる。
「……お前、どうしてこんなところにいる?」
少し前の話になるが、とある某人がこの花を好きだという話を俺に零した。
「どうしてって……。さっき言ったじゃないですか。図書館に行くための通り道ですよ……?」
毎年育ててるんです。といった類の言葉を口にされた。
「そういうことじゃない」
しかしそれは起きることは無かった。それは何故か?
「……お前、死んだだろ?」
それは、今から約一ヶ月ほど前。
恐らくもう少し陽が落ちている時間だろうか? 図書館に行く途中の、まさにこの道で信号待ちをしている時の話。信号を無視してきた車が、雅間 梨絵という女子高生に向かって突っ込んできたのだそうだ。女子高生は、その身体を何メートルと引きずられながら道路と制服を赤く染めていったらしい。病院に運ばれた時には既に意識がなかったそうで、その事故が起きた二日後に女子高生はこの世界から姿を消した。
つまり何が言いたいのかというと、今俺の目の前にいるこの雅間 梨絵だと名乗る人物は、もうここにはいないはず。居るはずのない人物だ。
今日は、雅間が世界から消えてから四十九日目に当たる日。交通事故の起きた場所に置かれたクチナシの花が、優しく流れる風によって揺らめいているらしい。匂いが鼻を掠めていくということは、そういうことだ。
ゆっくりと、風が少しずつ強くなっていくのを感じる。それはまるで、目の前にいる誰かというもうこの世にはいない存在と、俺という生きた存在との間にある決して越えることの出来ない壁のようだった。
靡く髪の毛が視界を覆ったほんの一瞬。俺の視界が僅かに遮られたその隙に僅かに見えた、とある表情。一体どういうことなのかと考える隙も与えられることもなく、雅間らしい人物は目の前から姿を消した。
信号が、当たり前のように規則正しく切り替わりはじめている。
「……幽霊、か」
もうそこにいない何かへの言葉を、ポツリと溢す。
その声は、不規則に通り過ぎていった車の音によってかき消されていた。
まるで目に見えないそれに追いつこうかとでもいうように、俺の足は勢いに任せていつもより早く動いている。こうしている間も時は流れていっているはずだ。ただ、今から行く場所は恐らくあの時を境に時が止まっている。そんな気がしてならなかった。だから足早になってしまうのも致し方ないというものだろう。
俺はふと、左手に持っている紙袋の中身を確認した。小さくまとまった花束の主役は、ギリギリこの時期に咲く花だとは呼べないクチナシの花だ。白く眩い花弁は確かに綺麗だが、それに付随するどこか寂しい雰囲気。そして強く香る甘い匂い。少し前まではその匂いも悪くないなどと思ったこともあったけど、今となっては出来るだけ視界に入れたくないとさえ思ってしまうし、その匂いから逃げたくなってしまうくらいには敬遠している。
だから、今となってはよっぽどの理由がない限り視界に入るなんてことは起こらない。そのよっぽどの理由というのが、今日クチナシの花を買ったそれに当てはまるわけだ。
信号が点滅しているのが見えて、俺は足を止めた。たどり着いたのは、俺が今日来なければならなかった図書館へ続く道。とある人物と俺が必ず立ち止まる、なんの変哲もない道路だ。チカチカと信号が点滅しているが、横断歩道を渡る気はさらさらない。俺はただただその場に立ち尽くしていた。
何度も切り替わる信号を前に、俺はやっと体を動かし始める。紙袋から花の束を出す際に発せられた擦れる音が、酷く耳についた。手にとったクチナシの花。俺はそれを、すぐ側にあるガードレールの下へと置いた。その時だった。
「神崎さん……?」
後ろから、聞き逃すはずのない某人の声が聞こえたのだ。嫌になるくらいに頭の中を反響するのがよく分かる。思考を巡らせるよりも遥か前に、俺は振り向いていた。
「やっぱり神崎さんだ……!」
その声の主は、雅間 梨絵(みやま りえ)という、俺とは違う制服に身を包んだ人物だ。
嬉しそうに声が弾んでいる様子は、俺の知っているいつものそれとかなり酷似している。そう、"極めて似ている"というだけに過ぎないのだ。
「……お前、なんでここにいるんだ?」
「なんでって……。図書館に行く道だからに決まってるじゃないですか」
首を傾げる雅間は、いつものそれと全く同じだった。そんな問いなんてしている場合ではないというのに、どうしてか口は勝手に動き、言う必要のなかったことを溢してしまう。全く暢気なものだ。
「神崎さんこそ、どうしてここに……?」
「……図書館に行く以外で、こんなとこ通らない」
「じゃあ、私と一緒ですね」
などと言いながら、笑顔を浮かべる彼女が目の前にいる。そうじゃないだろ? と、思わず口にしてしまいそうな程に冷静な自分と、何処かから漂ってくるまるでクチナシの花のように甘美な香りが、俺の思考を酷く鈍くさせる。どうして俺は普通にこいつと話しているのか、どうしてこいつは目の前にいるのか、全く見当がつかなかった。
「それなら、早く図書館に行きませんか? 余り遅くなってもいけないですし」
疑問符が頭から離れなくなっている隙をつくかのように、雅間が俺の手を取る。氷のように冷たい温度が、一瞬にして冷静さを取り戻させる。気付けば、雅間の手を振りほどいていた。
「神崎、さん……?」
困惑した雅間の顔。それよりも、俺はきっと酷い顔をしているだろう。おおよそ見当がついていたにも関わらず、俺は困惑した。この時期であるなら当たり前に流れてくる汗。それが、重力に負けてゆっくりと落ちていくのが分かる。
「……お前、どうしてこんなところにいる?」
少し前の話になるが、とある某人がこの花を好きだという話を俺に零した。
「どうしてって……。さっき言ったじゃないですか。図書館に行くための通り道ですよ……?」
毎年育ててるんです。といった類の言葉を口にされた。
「そういうことじゃない」
しかしそれは起きることは無かった。それは何故か?
「……お前、死んだだろ?」
それは、今から約一ヶ月ほど前。
恐らくもう少し陽が落ちている時間だろうか? 図書館に行く途中の、まさにこの道で信号待ちをしている時の話。信号を無視してきた車が、雅間 梨絵という女子高生に向かって突っ込んできたのだそうだ。女子高生は、その身体を何メートルと引きずられながら道路と制服を赤く染めていったらしい。病院に運ばれた時には既に意識がなかったそうで、その事故が起きた二日後に女子高生はこの世界から姿を消した。
つまり何が言いたいのかというと、今俺の目の前にいるこの雅間 梨絵だと名乗る人物は、もうここにはいないはず。居るはずのない人物だ。
今日は、雅間が世界から消えてから四十九日目に当たる日。交通事故の起きた場所に置かれたクチナシの花が、優しく流れる風によって揺らめいているらしい。匂いが鼻を掠めていくということは、そういうことだ。
ゆっくりと、風が少しずつ強くなっていくのを感じる。それはまるで、目の前にいる誰かというもうこの世にはいない存在と、俺という生きた存在との間にある決して越えることの出来ない壁のようだった。
靡く髪の毛が視界を覆ったほんの一瞬。俺の視界が僅かに遮られたその隙に僅かに見えた、とある表情。一体どういうことなのかと考える隙も与えられることもなく、雅間らしい人物は目の前から姿を消した。
信号が、当たり前のように規則正しく切り替わりはじめている。
「……幽霊、か」
もうそこにいない何かへの言葉を、ポツリと溢す。
その声は、不規則に通り過ぎていった車の音によってかき消されていた。