05話:クチナシは喋らない

「あーいたーにくんっ」

 本日二回目のその呼び声を、出来るだけ耳に入れないようにしながら僕は帰る準備を進めている。

「図書室行こうよー」

 慣れというのは怖いもので、学年なんてお構いなしに入ってくるその様子は、もう日常的なものになっているような気がした。……いや、気のせいなんかではなく、実際ほぼ毎日お昼にやってきては勝手に前の席を占領して、なんかよく分からない話を橋下さんは勝手にしているのだから、気のせいだなんていうのは通用しないだろう。
 その内容なんて本当に他愛のないものばかりだから、普段なら全然覚えていないのだけど、今日だけはそうもいかなかった。

「先輩たちが待ってるからさ。ま、別に先輩たちとは約束なんてしてないんだけど」

 どうしてかこの日は、帰りに図書室に行くことになってしまっていたのだ。承諾した覚えは無いのだけれど、まあそれはしょうがないというか、この際別にどうでもよかった。

「……なんで腕掴むんですか?」
「いやだって、逃げるでしょ?」
「嫌は嫌ですけど、流石に逃げないですよ」
「まあまあ」

 一体何がまあなのか、そこから続く言葉は一向になく、橋下さんにがっちりと左腕を掴まれ半ば強引に連れていかれる形で、図書室に足を運ぶことになった。確かに最初の頃は橋下さんに会いたくなくて色々と試行錯誤したことはあったけど、それが無意味だと分かった今、余計面倒になりそうなことを僕はするつもりはない。
 半強制的に引っ張られて連れてこられたのは、職員室がある一階の下駄箱の近くだ。階段を下りてすぐの下駄箱には目もくれず、橋下さんの言う目的の場所に向かった。目の前に立ちふさがる扉を、橋下さんはガラリと音を立てて開ける。当たり前ではあるものの、そこは本棚に敷き詰められた窮屈そうな本で溢れていた。

「あ、いたいた。せーんぱい」

 本棚の間を抜けるようにして発せられる橋下さんの声は、受付のすぐそばにあるテーブルで本を読んでいる人と、頬杖をつき暇そうにしている人の元へとたどり着く。僕らのほうに視線を向けたのは、なんだか暇そうにしている人だった。

「……なんだ、橋下君って友達いたんだね?」
「ちょっと先輩、それは流石に酷くないですか?」

 先輩……ということは、今橋下さんが話をしているのは上級生だろうか? 確かに何となくそんな感じはするけれど、それなら僕らを見ることすらしない、その先輩と呼ばれた人と同じテーブルで本を読んでいるもうひとりの人も先輩なのだろう。同い年というには大人びて見えるということは、そういうことだ。

「初めましてだよね? おれは宇栄原 渉(うえはら わたる)。まあ、別に宜しくしなくてもいいんだけど、話し相手くらいなら出来るから。良ければいつでも来てね」
「ど、どうも……。相谷です……」

 愛想のない言葉自分のが口から落ちるけど、そんなものは目もくれないといった様子で、宇栄原さんは笑顔だった。ただその態度が、橋下さんからすると気にくわなかったらしい。

「……なんか、オレと接するより優しいですね?」
「余り変わらないと思うけど。というか、別におれ優しくないし」

 宇栄原さんは優しそうな見た目ではあるけれど、思いのほかはっきりと物事を口にするタイプらしく、いつもずかずかと人のテリトリーを荒らしてくる橋下さんが何となく押されているようだ。

「拓真もさー、シカトも大概にして挨拶くらいしてあげたら?」

 宇栄原さんの前に座っていた拓真と呼ばれたとある人は、僕らの存在なんて本当に気付いていなかったとでもいうように、文庫本よりも少し大きな本を手に読み進めていた。宇栄原さんに呼ばれ、ようやくちらりと僕らを視界に入れる。

(こ、こわっ……)

 鋭い視線に思わずそんな感想を抱いてしまったのが、初めて神崎 拓真という人物と顔を合わせた瞬間だった。
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