第1話:耳障りな音飛沫

「逃げるようにここまで来ちゃったけど……」

 よく考えたら、暇なんだし押し売りをされるというところを差し引けば、別に逃げる必要なんて無かったような気がする。まあ、どうせ帰りにまた通らなきゃいけないから別にいいか。
 人が行きかう市場を抜けると、少し開けた場所に噴水がある。ここはいわゆる広場だから、それなりに人は多い。噴水近くにあるベンチに腰掛け、オレは特に何かをする訳でもなく、空を眺めていた。
 噴水の音と子供の声に混じって、大人が話していることと言えば、路地裏での事件ばかり。子供をひとりで歩かせられないとか、怖くて夜は歩けないとか、警察は何をやっているのかとか。これだから貴族は、とか。何でだろう。その声がどうにも耳障りだった。
 貴族についてオレが知っている事といえば、魔法を使えるという事くらいだろうか。街で見かけることは余り多くないし、何をやっているのかとか、そういうことは余り知られていない。というかそこまで興味が無い。
 噴水は、そんなオレを他所に水しぶきを散らしていく。水しぶきが太陽の日差しに照らされてキラキラしている様子は、日常が非日常に変わってしまうかのような危うさに色づいている。この様子を、オレは何処かで見たことのあるような、そんな既視感に溺れそうになっていた。

『――やっぱり綺麗ね』

 ふと、誰かの声が頭にちらつく。その声は、オレの知らないであろう人。女の人が誰かに何かを言っている声だ。今、オレの目の前に広がっているのは、広場の噴水でも噂話をしている誰かでもないように感じる。
 よく見えないけど、ここではない何処か。噴水のある別の場所。その噴水のそばで、女の人が誰かに話しかけている場面。記憶にもやがかかっているようなモノクロの景色が、いつの間にかオレを取り巻いていた。これは別に、噴水を見ると必ずと言っていいほど思い出す場面とかいうわけでは無く、今、単純にそんな誰かか頭を過ったのだ。

(……ここ、何処だったっけな)

 よく知っているはず風景の筈なのに、そこが何処なのかなんて分からない。そして、耳を棲ませるほどに、その声は聞こえなくなっていく。そして、ひとつの疑問が渦巻いた。

(噴水なんて、誰かと見たことあったっけ……?)

 靴屋の誰かとだったら、一回くらいはあったのかも知れない。でも恐らくそれは違うだろう。靴屋でいう女の人といえば、ローザおばさんとレノンの妹である幼いセリシアだけ。でも、明らかにこの二人ではないと、オレは断言ができた。というよりもそれ以前の話で、オレには噴水を一緒に見にいけるような人なんて、何処にもいない。


 だったらなんで、あの女の人の言葉はあんなにも鮮明に聞こえたのだろうか? ひとつの仮定としてなら、当てはまるものが確かにある。それは、これが過去の記憶であるということ。だけど、オレはそう断言できなかった。それはどうしてか? そんなの、簡単だ。
 だって、オレの何処かに存在しているはずの昔の記憶なんて、残っていないのだから。

「何も、知らないのに……」

 気がつくと、そんな言葉が口から漏れてしまっていた。何だか知りたくもないことを無理矢理知らされているようで、気分は余り良くない。仮に、昔噴水があった何処かの場所であったのだとしても、今のオレにそれを知る術はない。さっきまで目に焼き付いていた風景を振り払うように首を左右へ動かし、思いっきり立った。ちらりと、噴水が視界に入る。
 水が落ちていく様子や、水しぶきが舞っているのを眺めていると、どうしてか、ここではない何処かへ連れていかれそうな気になってしまう。気がするってだけで、普通に考えたらそんなことが起こるわけがないんだけど。
 ただ、魔法がそういう現象を起こせるのだったら、また別の話かも知れない。

「……帰ろ」

 何となく居心地が悪くなったオレは、買い物を済ませて帰ってしまおうと、足を翻した。すると、さっきまでは感じなかったもの。明らかに誰かがオレを見つめているような、そんな感覚に苛まれた。そして、それを裏付けることが起きる。

『おや、もう帰ってしまうのかい?』

 何処からか聞こえる男の声。その声は、明らかにオレに向かって放たれた言葉だというのが、どうしてだか分かる。
 それは、さっきまでオレを悩ませていた記憶の中の誰かではなく、確かにそこに存在しているであろう声だ。オレは考えるよりも前に、その声のする噴水へと体を向ける。そしてオレは驚愕した。
 そこにあったのは、広場の噴水とさっきまでオレが座っていたベンチ。そして、オレだけしかいない空間だったからだ。
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