19話:事後報告
切れ切れになった息が、オレの横を通っていく。それが一体誰の発している吐息なのかというのは、さして重要なことではない。何故なら、それが一体誰かということなんて既に分かりきっていることであって考えるまでもないからだ。
ここまで全力で走ることなんて、日常生活ではそうないと言ってもいいだろう。せいぜい、授業の一環である短距離走のタイムを計る時くらいなものだ。だがそれも、言ってしまえはただの通過儀礼のようなもので、ある一定の時間を過ぎてしまえばすぐに終わりを告げる。
これから起こる全てのことも、恐らくはそれくらい容易に終わりを告げるほどに些細な出来事でしかないだろう。そうでないと困るというものだ。
そもそもの話、どうしてオレはここまで必死で走っているのだろうか? もうよく分からない。
「……アホらし」
よく分からないフリをするというのは、比較的簡単だ。
誰に言うでもない声を淡々を漏らし、気づけばオレは走ることを止めていた。一体どれくらいの距離を走ったのかなんて覚えていない。最も、そんなことはどうだって構わないだろう。
息を整えながらも、足は少しずつ動いていた。ゆっくりと歩を進めているこの間にも「とある黒い何か」は迫っているのだろうが、それに関しては想定内だ。
「来るの久し振りかも……」
だが、辿り着いた場所はオレの想像している場所とは少し違う。
宇栄原先輩とはじめて会ったのは、確かここだった。とある公園に再び足を踏み入れたのは、一体何時ぶりだろう? それ程の時が経っているとも思えないけど、如何せん思い更ける時間がないせいでちゃんと思い出すことが出来なかった。そのすぐ後のことだ。
何かが砂利を踏みしめる音が、後ろから反響した。
それと同時に微かに視界に触れたのは、黒い粒子。それが一体何なのかというのを分かっていながらも振り向かなければならないというのは、なんと億劫なことか。それでもオレは、ちゃんと目に焼き付けなければいけなかった。
一体何処から粒子が溢れているのか、数えるにも至らない程のそれがひとりの男を離さんと蠢いている。僅かに見え隠れする容姿に、オレは思わず眉を歪めた。
そうしている間にも、とある男はゆらりと揺れながら近付いてくる。ここまで逃げおきながら、今はもう逃げるという思考は何処かへ消えていた。
いっそ季節外れの雪でも降れば、もう少しは何とかしようと努力をしたのだろうか? そうは言っても、今は残暑も通り過ぎようかとしている九月半ば。そんなことは起こるはずがないというのは、想像しなくても分かるというものだ。
「……よくもまぁ、こんなところにまでついてくるよね」
まだ辛うじてヒトの形を繕っているといったところだろうか? 本来は身体の一部であるはずの左肩や左手、右足部分が完全に黒ずんでいるのがよく分かる。有り体に言えば化け物と呼ぶに相応しく、これじゃあもう、本体のとある男と話をするなんていうことは出来ないだろう。
僅か、ほんの数ミリほど唇が動いたような気がしたが、恐らくは気のせいだ。
そうじゃなきゃ、今こうして黒いヒトガタがオレを襲ってくるなんていうことは起こらない。そう、起こるはずがないのだ。あくまでも、買いかぶり過ぎていなければの話だが。
特別かわすことも無く左腕をむんずと掴まれ、勢いに任せて地面へと身体が擦り付けられる。怪我をするというには程遠いが、それでも叩きつけられた反動が骨を走った。
乱れた衣服を、オレは特別気にすることはしない。
「いいよ、別に」
嘲笑う、というよりも挑発に近かったかも知れない。そう思うほどに、目の前にいるソレは静かにオレの目を貫いた。冷たい眼差しが十二分に刺さっているという事実を、オレはこの先絶対に忘れることは無いだろう。
オレは再び声を発し、尚も笑みを繕った。
「――殺せよ」
……。
…………。
………………どうしてオレが諦めるに至ったのか、一体誰に聞いたら分かるのだろう?
掴まれた左腕に男の指が食い込むたびに、軋む音が身体を走る。冷や汗が頬を伝っていることに、この時のオレは気づいていない。
またひとつ、目の前の何かが口を開いたように見えたが、それが何を発していたのかまでは憶えていない。
目の前で振りかざされたのは、こういう場合に世間一般的に使われるナイフや包丁と呼ぶには程遠いように見えた。それはとても黒く、黒く黒く黒く澱んでいた。そうであるのに、何よりも研ぎ澄まされているように視えたそれは――。
それはまず、オレの右腕を抉った。
ここまで全力で走ることなんて、日常生活ではそうないと言ってもいいだろう。せいぜい、授業の一環である短距離走のタイムを計る時くらいなものだ。だがそれも、言ってしまえはただの通過儀礼のようなもので、ある一定の時間を過ぎてしまえばすぐに終わりを告げる。
これから起こる全てのことも、恐らくはそれくらい容易に終わりを告げるほどに些細な出来事でしかないだろう。そうでないと困るというものだ。
そもそもの話、どうしてオレはここまで必死で走っているのだろうか? もうよく分からない。
「……アホらし」
よく分からないフリをするというのは、比較的簡単だ。
誰に言うでもない声を淡々を漏らし、気づけばオレは走ることを止めていた。一体どれくらいの距離を走ったのかなんて覚えていない。最も、そんなことはどうだって構わないだろう。
息を整えながらも、足は少しずつ動いていた。ゆっくりと歩を進めているこの間にも「とある黒い何か」は迫っているのだろうが、それに関しては想定内だ。
「来るの久し振りかも……」
だが、辿り着いた場所はオレの想像している場所とは少し違う。
宇栄原先輩とはじめて会ったのは、確かここだった。とある公園に再び足を踏み入れたのは、一体何時ぶりだろう? それ程の時が経っているとも思えないけど、如何せん思い更ける時間がないせいでちゃんと思い出すことが出来なかった。そのすぐ後のことだ。
何かが砂利を踏みしめる音が、後ろから反響した。
それと同時に微かに視界に触れたのは、黒い粒子。それが一体何なのかというのを分かっていながらも振り向かなければならないというのは、なんと億劫なことか。それでもオレは、ちゃんと目に焼き付けなければいけなかった。
一体何処から粒子が溢れているのか、数えるにも至らない程のそれがひとりの男を離さんと蠢いている。僅かに見え隠れする容姿に、オレは思わず眉を歪めた。
そうしている間にも、とある男はゆらりと揺れながら近付いてくる。ここまで逃げおきながら、今はもう逃げるという思考は何処かへ消えていた。
いっそ季節外れの雪でも降れば、もう少しは何とかしようと努力をしたのだろうか? そうは言っても、今は残暑も通り過ぎようかとしている九月半ば。そんなことは起こるはずがないというのは、想像しなくても分かるというものだ。
「……よくもまぁ、こんなところにまでついてくるよね」
まだ辛うじてヒトの形を繕っているといったところだろうか? 本来は身体の一部であるはずの左肩や左手、右足部分が完全に黒ずんでいるのがよく分かる。有り体に言えば化け物と呼ぶに相応しく、これじゃあもう、本体のとある男と話をするなんていうことは出来ないだろう。
僅か、ほんの数ミリほど唇が動いたような気がしたが、恐らくは気のせいだ。
そうじゃなきゃ、今こうして黒いヒトガタがオレを襲ってくるなんていうことは起こらない。そう、起こるはずがないのだ。あくまでも、買いかぶり過ぎていなければの話だが。
特別かわすことも無く左腕をむんずと掴まれ、勢いに任せて地面へと身体が擦り付けられる。怪我をするというには程遠いが、それでも叩きつけられた反動が骨を走った。
乱れた衣服を、オレは特別気にすることはしない。
「いいよ、別に」
嘲笑う、というよりも挑発に近かったかも知れない。そう思うほどに、目の前にいるソレは静かにオレの目を貫いた。冷たい眼差しが十二分に刺さっているという事実を、オレはこの先絶対に忘れることは無いだろう。
オレは再び声を発し、尚も笑みを繕った。
「――殺せよ」
……。
…………。
………………どうしてオレが諦めるに至ったのか、一体誰に聞いたら分かるのだろう?
掴まれた左腕に男の指が食い込むたびに、軋む音が身体を走る。冷や汗が頬を伝っていることに、この時のオレは気づいていない。
またひとつ、目の前の何かが口を開いたように見えたが、それが何を発していたのかまでは憶えていない。
目の前で振りかざされたのは、こういう場合に世間一般的に使われるナイフや包丁と呼ぶには程遠いように見えた。それはとても黒く、黒く黒く黒く澱んでいた。そうであるのに、何よりも研ぎ澄まされているように視えたそれは――。
それはまず、オレの右腕を抉った。