03話:記憶媒体
無機質な扉をノックする音が、大きな廊下に控えめに響く。それは、目的の人物の耳に入ることは無かった。
「……リベリオ様?」
いつものことではあるけれど、この家の主の声が一向に返ってこない。大方、深夜まで起きていたのだろうし、普段だったらこの時間に彼の部屋に入ることは余りないのだけれど、今日はその限りではない。
「入りますよ?」
仕方なく、私は彼のいる部屋の扉を開けた。目の前にある作業机には、当然の様に姿はない。となると、残る場所はベットかソファしかないのだけれど……。
「にゃー」
「ああ、おはようクロード」
猫のクロードの鳴き声が、足元から聞こえてくる。その黒い毛並みを撫でてくれと言わんばかりに顔を摺り寄せてくるのに合わせ、私は彼女の視線に出来るだけ近づくように一旦しゃがんだ。
「えっと……?」
彼女の頭を撫でながら、元の目的である人物を目で探す。というより探すまでもないもだけれど、視界に入った彼の姿を見て、私はため息をついた。
「……またあんなところで寝て」
クロードを抱きかかえ、彼のいる場所へと向かう。大方、いつものようにソファに身体を預けてそのまま眠りに着いたのだろう。テーブルと床には、乱雑に散らばった用紙と、恐らく資料として何度も読み返したのであろう本が大量に置かれていた。
正直なところ、このま布団でもかけてそのまま出ていきたいところではあるけど、そうもいかない理由があった。
「リベリオ様、そろそろ起きないと時間が……」
「んー……?」
「今日は、皆さんで出掛ける予定じゃないですか。私、一週間前からずっと言ってますよね?」
「……うん」
たった一言。リベリオ様はそれだけを口にして、ソファから落ちないように寝返りをうったかと思うと、また小さな寝息を立て始めた。この人が夜遅くまで作業をしているのは十分知っているし、別に私だって、特に用が無ければ無理に起こすなんてことはしたくない。でも、約束をしているというのであれば話は別だ。
「……ちょ、ちょっと寝直さないでください。またレイヴェン様に怒られますよ?」
「んー……」
この状態、果たして私が無理矢理起こすべきかと考えあぐねていると、抱きかかえていたクロードがするりと腕から外れていく。彼女はその軽い身のこなしで、すたりと彼の身体に飛び乗り、顔の近くまで歩みを進めていった。
「んにゃー」
「クロード……?」
「にゃっ」
そして、彼女は自身の右手を高らかに上げた。
「ん……んんっ……」
ぺしぺしと、彼の顔を叩いていく。それは多分、クロードなりの起こし方なのだろうけど、爪とか当たったらそれなりに痛いはずなのだから、出来れば止めて欲しいものではある。しかしまあ、日常的なそれであることは知っているから、止めたりはしない。というより、これを私は待っていたのだ。
「んにゃっ」
「……な、なに……?」
「にゃあ!」
「いてて……な、なんだよクロード……飯か?」
観念したのか、クロードのそれを制止しようと彼の手が動く。捕まってしまったクロードは、相変わらず鳴き声を上げていたものの、彼の上半身を動かすことには成功した。
そこで、はじめて私と彼の視線が交わった……のだと思う。眼鏡をかけていない今の彼の瞳は確実にぼやけているはずだから、今のこの状況では、恐らく「ゼフィルっぽい誰かがそこにいる」くらいのことしか分からないだろう。
「あれ、ゼフィルっぽいシルエットが……」
「おはようございます」
「……眠い」
「遅くまで作業してるからですよ。それより、今日はレイヴェン様達と近くの花畑に行く約束だったじゃないですか。そろそろ準備しないと、本当に遅れてしまいます」
「あー、そんな話もあったような……」
「早く後支度を。朝食の準備は出来ていますから」
「はいはい……」
しょうがない、とでも言いたげなに大あくびをしながら、ほぼ手探りでテーブルに置いてあった眼鏡に手をかける。目を擦る彼の見ながら、私はいくつか思うことがあったため、彼を諫言するために口を開いた。
「それと……」
「ん?」
「面倒なお気持ちは分かりますが、これじゃベットの存在意味がないので、寝るなら然るべきところでちゃんとお休みください。それと、何度も言ってますけど約束の前の日くらいは早めに作業を切り上げて頂かないと……」
途中で、私は言葉を止める。何故なら、彼の目は完全に閉じていたからだ。
「……聞いていませんね?」
「え? 聞いてる聞いてる……。準備しろって話でしょ?」
「……ま、とにかく急いでください。余り時間はありませんので」
「はいはーい……」
絶対に分かってないであろう適当な言葉を述べて、やっと彼は重そうな腰をあげる。それと同時に、彼の手からクロードが離れていく。私が扉を開けると、一目散に部屋から出ていってしまった。
時間が時間だから、当たり前と言われればそれまでではあるけれど、猫の気まぐれさというのはさながら私が仕えている主のようで、何とも形容しがたいものを感じてしまう。
歩きながら、リベリオ様が腕を天井に向けて伸びをしているのが見えた。それはそうだろう。一日二日だけならともかく、この人は夜に作業する時にそのままソファで寝るのが癖になってしまっている。身体が悲鳴を上げないわけがないのだ。
「やっぱり、徹夜は身体痛くなるよなあ……」
「徹夜もあるでしょうけど、ソファで寝るからですよ……。というより、いい加減規則正しい生活を送っていただかないと困ります。現に生活にも支障が出ているじゃないですか」
「んー……でもなあ、夜のほうが捗るじゃん?」
「それは、昼夜逆転した生活を送っているからだと思いますけど」
平行線で終わるいつもの会話。一階に辿りつく頃には、彼の眠気もそれなりに収まっているようだった。
階段を下りて斜め右、リビングへと続く扉を開ける。そこには、既にリベリオ様の妹君であるニシュア様がいた。
「あ、お兄ちゃんおはよう」
「おー、バッチリ決めてるなあ」
「だって、折角皆揃って出掛けるんだよ? あそこの花畑だって、今なら綺麗に咲いてるじゃない?」
「花畑なあ……」
頭に手をやりながら、まだ眠そうにしているのに気付いたニシュア様の目が、少しだけ曇ったように見えた。
「……余り乗り気じゃない?」
「いや、徹夜明けとかじゃなきゃなあ……。もっとこう、清々しい気持ちで行けるじゃん?」
「でもそれ、お兄ちゃんの自業自得でしょ?」
「その通りだわ……」
「それよりご飯っ! お兄ちゃんと一緒に食べるの久しぶりだから、あたしずっと待ってたんだよ」
「そうですよー。クロードはもう食べ始めてますし、彼女の方がよっぽどしっかりしてますね」
話の途中で割って入ってきたのは、この家のメイドであるティーナだ。但し、彼女の姿を捉えることは出来ない。恐らく、クロードの目線に合わせてしゃがんでいる為にテーブルが邪魔して見えないのだろう。
「なんだよ皆して……。だったらもっと早く起こしてくれよゼフィルー」
「は?」
「あ、ごめんなさい嘘です俺が悪かったです」
思わず口が悪くなってしまいそうだったが、適当に謝られてしまったことによりそれ以上のことが言えなくなってしまう。全く、これだからこの人は。なんていう言葉を口になんてしないけど、ある程度長い付き合いだとこういうことを思ってしまうのは、まあ仕方のないことだろう。
普段は余り揃うことのないこの人数。それが嬉しいはずなのに、いつもより少しだけ騒がしい朝の時間は、どうにも落ち着かない。 でも、それが酷く心地よかった。
「……リベリオ様?」
いつものことではあるけれど、この家の主の声が一向に返ってこない。大方、深夜まで起きていたのだろうし、普段だったらこの時間に彼の部屋に入ることは余りないのだけれど、今日はその限りではない。
「入りますよ?」
仕方なく、私は彼のいる部屋の扉を開けた。目の前にある作業机には、当然の様に姿はない。となると、残る場所はベットかソファしかないのだけれど……。
「にゃー」
「ああ、おはようクロード」
猫のクロードの鳴き声が、足元から聞こえてくる。その黒い毛並みを撫でてくれと言わんばかりに顔を摺り寄せてくるのに合わせ、私は彼女の視線に出来るだけ近づくように一旦しゃがんだ。
「えっと……?」
彼女の頭を撫でながら、元の目的である人物を目で探す。というより探すまでもないもだけれど、視界に入った彼の姿を見て、私はため息をついた。
「……またあんなところで寝て」
クロードを抱きかかえ、彼のいる場所へと向かう。大方、いつものようにソファに身体を預けてそのまま眠りに着いたのだろう。テーブルと床には、乱雑に散らばった用紙と、恐らく資料として何度も読み返したのであろう本が大量に置かれていた。
正直なところ、このま布団でもかけてそのまま出ていきたいところではあるけど、そうもいかない理由があった。
「リベリオ様、そろそろ起きないと時間が……」
「んー……?」
「今日は、皆さんで出掛ける予定じゃないですか。私、一週間前からずっと言ってますよね?」
「……うん」
たった一言。リベリオ様はそれだけを口にして、ソファから落ちないように寝返りをうったかと思うと、また小さな寝息を立て始めた。この人が夜遅くまで作業をしているのは十分知っているし、別に私だって、特に用が無ければ無理に起こすなんてことはしたくない。でも、約束をしているというのであれば話は別だ。
「……ちょ、ちょっと寝直さないでください。またレイヴェン様に怒られますよ?」
「んー……」
この状態、果たして私が無理矢理起こすべきかと考えあぐねていると、抱きかかえていたクロードがするりと腕から外れていく。彼女はその軽い身のこなしで、すたりと彼の身体に飛び乗り、顔の近くまで歩みを進めていった。
「んにゃー」
「クロード……?」
「にゃっ」
そして、彼女は自身の右手を高らかに上げた。
「ん……んんっ……」
ぺしぺしと、彼の顔を叩いていく。それは多分、クロードなりの起こし方なのだろうけど、爪とか当たったらそれなりに痛いはずなのだから、出来れば止めて欲しいものではある。しかしまあ、日常的なそれであることは知っているから、止めたりはしない。というより、これを私は待っていたのだ。
「んにゃっ」
「……な、なに……?」
「にゃあ!」
「いてて……な、なんだよクロード……飯か?」
観念したのか、クロードのそれを制止しようと彼の手が動く。捕まってしまったクロードは、相変わらず鳴き声を上げていたものの、彼の上半身を動かすことには成功した。
そこで、はじめて私と彼の視線が交わった……のだと思う。眼鏡をかけていない今の彼の瞳は確実にぼやけているはずだから、今のこの状況では、恐らく「ゼフィルっぽい誰かがそこにいる」くらいのことしか分からないだろう。
「あれ、ゼフィルっぽいシルエットが……」
「おはようございます」
「……眠い」
「遅くまで作業してるからですよ。それより、今日はレイヴェン様達と近くの花畑に行く約束だったじゃないですか。そろそろ準備しないと、本当に遅れてしまいます」
「あー、そんな話もあったような……」
「早く後支度を。朝食の準備は出来ていますから」
「はいはい……」
しょうがない、とでも言いたげなに大あくびをしながら、ほぼ手探りでテーブルに置いてあった眼鏡に手をかける。目を擦る彼の見ながら、私はいくつか思うことがあったため、彼を諫言するために口を開いた。
「それと……」
「ん?」
「面倒なお気持ちは分かりますが、これじゃベットの存在意味がないので、寝るなら然るべきところでちゃんとお休みください。それと、何度も言ってますけど約束の前の日くらいは早めに作業を切り上げて頂かないと……」
途中で、私は言葉を止める。何故なら、彼の目は完全に閉じていたからだ。
「……聞いていませんね?」
「え? 聞いてる聞いてる……。準備しろって話でしょ?」
「……ま、とにかく急いでください。余り時間はありませんので」
「はいはーい……」
絶対に分かってないであろう適当な言葉を述べて、やっと彼は重そうな腰をあげる。それと同時に、彼の手からクロードが離れていく。私が扉を開けると、一目散に部屋から出ていってしまった。
時間が時間だから、当たり前と言われればそれまでではあるけれど、猫の気まぐれさというのはさながら私が仕えている主のようで、何とも形容しがたいものを感じてしまう。
歩きながら、リベリオ様が腕を天井に向けて伸びをしているのが見えた。それはそうだろう。一日二日だけならともかく、この人は夜に作業する時にそのままソファで寝るのが癖になってしまっている。身体が悲鳴を上げないわけがないのだ。
「やっぱり、徹夜は身体痛くなるよなあ……」
「徹夜もあるでしょうけど、ソファで寝るからですよ……。というより、いい加減規則正しい生活を送っていただかないと困ります。現に生活にも支障が出ているじゃないですか」
「んー……でもなあ、夜のほうが捗るじゃん?」
「それは、昼夜逆転した生活を送っているからだと思いますけど」
平行線で終わるいつもの会話。一階に辿りつく頃には、彼の眠気もそれなりに収まっているようだった。
階段を下りて斜め右、リビングへと続く扉を開ける。そこには、既にリベリオ様の妹君であるニシュア様がいた。
「あ、お兄ちゃんおはよう」
「おー、バッチリ決めてるなあ」
「だって、折角皆揃って出掛けるんだよ? あそこの花畑だって、今なら綺麗に咲いてるじゃない?」
「花畑なあ……」
頭に手をやりながら、まだ眠そうにしているのに気付いたニシュア様の目が、少しだけ曇ったように見えた。
「……余り乗り気じゃない?」
「いや、徹夜明けとかじゃなきゃなあ……。もっとこう、清々しい気持ちで行けるじゃん?」
「でもそれ、お兄ちゃんの自業自得でしょ?」
「その通りだわ……」
「それよりご飯っ! お兄ちゃんと一緒に食べるの久しぶりだから、あたしずっと待ってたんだよ」
「そうですよー。クロードはもう食べ始めてますし、彼女の方がよっぽどしっかりしてますね」
話の途中で割って入ってきたのは、この家のメイドであるティーナだ。但し、彼女の姿を捉えることは出来ない。恐らく、クロードの目線に合わせてしゃがんでいる為にテーブルが邪魔して見えないのだろう。
「なんだよ皆して……。だったらもっと早く起こしてくれよゼフィルー」
「は?」
「あ、ごめんなさい嘘です俺が悪かったです」
思わず口が悪くなってしまいそうだったが、適当に謝られてしまったことによりそれ以上のことが言えなくなってしまう。全く、これだからこの人は。なんていう言葉を口になんてしないけど、ある程度長い付き合いだとこういうことを思ってしまうのは、まあ仕方のないことだろう。
普段は余り揃うことのないこの人数。それが嬉しいはずなのに、いつもより少しだけ騒がしい朝の時間は、どうにも落ち着かない。 でも、それが酷く心地よかった。