03話:ヒミツが好きだと嘯いた
「……嘘つくなら、もう少しマシな嘘ついたら?」
掴まれた反動なのか、イヤホンが片方の耳から知らない間に外れていた。どうしてか何処か混沌としていた意識は、目の前にいる彼と風の音によって、少し、また少しとクリアになっていくのを感じる。
一瞬、目の前にいるその人の眉間にしわを寄せたように見えたけど、どうしてかそれが、哀れみに似た何かに感じて、僕はただただ見つめることしか出来ずにいた。ああなんか、これはきっと面倒な人に見つかってしまった気がする。言葉にはしないけど、そう思ってしまう自分がいた。どうしてはじめて出会ったはずの人に、そんな複雑な顔をされなければならないのだろうか。僕は不思議でしょうがなかった。
「とにかく、そこじゃ危ないから。こっちに戻ってきてくれるよね?」
その言葉に酷い違和感を覚えて僕は顔をしかめたが、その思考は頬にかかる風によって払拭される。いつにも増して冷静な思考が、どこか夢見心地だった気分を現実へと連れ戻す。さて、ここからどうやって言い訳をしようか。そんなことばかりを考えていた。だが、靴を脱いで柵を乗り越えているこの状況では、挽回することはかなり難しい。
もう相手にするのも面倒だから、どうか何もかもが間違っていればいいのに。そう願いながら、少しずつ、ゆっくりと視線を下へとずらす。そして、たどり着いた結論はこうだ。
「……それで戻る義理はないですね」
この期に及んで、僕は弁解を一切しない。
目の前に広がっている、あと一歩足を動かせば落ちると誰でも分かる虚空。本来なら昼休みが終わって、いつものように惰性的に授業を受けて、いつものように学校が終わる。そのはずだっただろう。
「でも、誰かの前でとか冗談じゃないので今日は止めます」
この人がいなかったら、きっと今ごろ地面の上で血にまみれていて、それに気付くであろう誰かが救急車を呼び、病院にでも運ばれていたのかも知れない。打ち所が悪ければ、そのまま僕はこの世からいなくなっていた。なんてこともあっただろう。実際、そうなることを確かに望んでいた。それが正しい選択だと思ったのだ。
日常がこんな風に非日常へと切り替わるのはもう慣れたものだけれど、他人を巻き込んでどう、ということ出来ればやりたくない。そっちのほうが断然厄介だ。
そうなると、次に取らなければならない行動はひとつしかない。柵を乗り越えて、本来いるべき屋上に戻るという行為だ。そうであるのだけれど、少々問題がある。取りあえずは、それをなんとか目の前にいる名前も知らない人に伝えなければいけないだろう。
長い沈黙を破って出てきた単語を、僕は出来るだけ簡潔に口にした。
「……こういうのって、戻る方が大変だったりするんですよね」
「え……?」
そう告げると、目の前の人は明らかにキョトンとした表情を見せる。それはそうだろう。この人からしたから、自分から柵を乗り越えたくせに何を言っているんだ、と思っているに違いない。だけど、この人はそんなことを思っているような素振りはひとつも見せることはしなかった。
「えーっと、こっちに思いっきりジャンプだよ。そしたらオレが引っ張るから」
「こ、こうですか?」
すぐに次の言葉を並べたその人の頭の回転の早さというか、適応力の良さというか。そういうのに驚く暇もなく、言われたとおりにやってみる。だけれど、柵が大きめの音を立てて揺れ動くだけでそれ以上のことは起こらない。その反動でバランスが崩れそうになるのをなんとか堪えるので精一杯だ。運動音痴とでも言えば分かりやすいのか、なんというか、昔からこういうのはどうにも苦手なのだ。
「待ってそれほぼタックルだから。もっとこう……」
言われるがまま何度か頑張ってはみたけど、最終的には強引に引っ張られるようにして、なんとか柵を越えることには成功した。だけど、その代償とも言えるくらいには、体力を奪われることになってしまう。
ドザリと倒れるようにして座り込むふたりの音が、静かな屋上に響き渡った。
「はぁ……疲れた……」
ふたりで息を整える中、それにしても……と言葉を付け加えながら、彼は僕の方に顔を向ける。
「間に合って、よかった」
そう言って、何処か安堵のようなものが混じっているようにも見える彼の溢した笑みは、嘘ひとつない綺麗なものだと言っても差支えは無いと思う。目を逸らしたくなってしまうほどに、僕には眩しすぎるものだった。
まるでそれは、今も天から嫌らしく僕らを眺めている太陽に等しかった。
掴まれた反動なのか、イヤホンが片方の耳から知らない間に外れていた。どうしてか何処か混沌としていた意識は、目の前にいる彼と風の音によって、少し、また少しとクリアになっていくのを感じる。
一瞬、目の前にいるその人の眉間にしわを寄せたように見えたけど、どうしてかそれが、哀れみに似た何かに感じて、僕はただただ見つめることしか出来ずにいた。ああなんか、これはきっと面倒な人に見つかってしまった気がする。言葉にはしないけど、そう思ってしまう自分がいた。どうしてはじめて出会ったはずの人に、そんな複雑な顔をされなければならないのだろうか。僕は不思議でしょうがなかった。
「とにかく、そこじゃ危ないから。こっちに戻ってきてくれるよね?」
その言葉に酷い違和感を覚えて僕は顔をしかめたが、その思考は頬にかかる風によって払拭される。いつにも増して冷静な思考が、どこか夢見心地だった気分を現実へと連れ戻す。さて、ここからどうやって言い訳をしようか。そんなことばかりを考えていた。だが、靴を脱いで柵を乗り越えているこの状況では、挽回することはかなり難しい。
もう相手にするのも面倒だから、どうか何もかもが間違っていればいいのに。そう願いながら、少しずつ、ゆっくりと視線を下へとずらす。そして、たどり着いた結論はこうだ。
「……それで戻る義理はないですね」
この期に及んで、僕は弁解を一切しない。
目の前に広がっている、あと一歩足を動かせば落ちると誰でも分かる虚空。本来なら昼休みが終わって、いつものように惰性的に授業を受けて、いつものように学校が終わる。そのはずだっただろう。
「でも、誰かの前でとか冗談じゃないので今日は止めます」
この人がいなかったら、きっと今ごろ地面の上で血にまみれていて、それに気付くであろう誰かが救急車を呼び、病院にでも運ばれていたのかも知れない。打ち所が悪ければ、そのまま僕はこの世からいなくなっていた。なんてこともあっただろう。実際、そうなることを確かに望んでいた。それが正しい選択だと思ったのだ。
日常がこんな風に非日常へと切り替わるのはもう慣れたものだけれど、他人を巻き込んでどう、ということ出来ればやりたくない。そっちのほうが断然厄介だ。
そうなると、次に取らなければならない行動はひとつしかない。柵を乗り越えて、本来いるべき屋上に戻るという行為だ。そうであるのだけれど、少々問題がある。取りあえずは、それをなんとか目の前にいる名前も知らない人に伝えなければいけないだろう。
長い沈黙を破って出てきた単語を、僕は出来るだけ簡潔に口にした。
「……こういうのって、戻る方が大変だったりするんですよね」
「え……?」
そう告げると、目の前の人は明らかにキョトンとした表情を見せる。それはそうだろう。この人からしたから、自分から柵を乗り越えたくせに何を言っているんだ、と思っているに違いない。だけど、この人はそんなことを思っているような素振りはひとつも見せることはしなかった。
「えーっと、こっちに思いっきりジャンプだよ。そしたらオレが引っ張るから」
「こ、こうですか?」
すぐに次の言葉を並べたその人の頭の回転の早さというか、適応力の良さというか。そういうのに驚く暇もなく、言われたとおりにやってみる。だけれど、柵が大きめの音を立てて揺れ動くだけでそれ以上のことは起こらない。その反動でバランスが崩れそうになるのをなんとか堪えるので精一杯だ。運動音痴とでも言えば分かりやすいのか、なんというか、昔からこういうのはどうにも苦手なのだ。
「待ってそれほぼタックルだから。もっとこう……」
言われるがまま何度か頑張ってはみたけど、最終的には強引に引っ張られるようにして、なんとか柵を越えることには成功した。だけど、その代償とも言えるくらいには、体力を奪われることになってしまう。
ドザリと倒れるようにして座り込むふたりの音が、静かな屋上に響き渡った。
「はぁ……疲れた……」
ふたりで息を整える中、それにしても……と言葉を付け加えながら、彼は僕の方に顔を向ける。
「間に合って、よかった」
そう言って、何処か安堵のようなものが混じっているようにも見える彼の溢した笑みは、嘘ひとつない綺麗なものだと言っても差支えは無いと思う。目を逸らしたくなってしまうほどに、僕には眩しすぎるものだった。
まるでそれは、今も天から嫌らしく僕らを眺めている太陽に等しかった。